TRIZ/USIT 解説・紹介 | |
連載: 技術革新のための創造的問題解決技法!! TRIZ |
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第4回 TRIZの成立と普及 (3) 日本と韓国での受容と普及 |
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中川 徹 (大阪学院大学) |
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許可を得て掲載。無断転載禁止。 [掲載:2006. 4. 4] |
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編集ノート (中川徹、2006年 4月 1日)
本件は、産学官連携支援マガジン『InterLab』誌に掲載開始した長期連載の第4回です。同誌のご好意によりここに掲載しています。連載の親ページ。
同誌で発行された形のものは PDFファイルにしています。ここをクリック下さい (PDF 316 KB) 。
また、ここにHTML形式のページを作り、いろいろなところへのリンクを張りましたので、ご活用下さい。
なお、このページはTRIZについて初心者の方のための、TRIZ紹介のページとしても位置づけております。TRIZ紹介の親ページ その他の記事へも多数リンクしておりますので、ご活用下さい。
目次:
技術革新のための創造的問題解決の技法!! TRIZ
第4回 TRIZの成立と普及 (3) 日本と韓国での受容と普及
大阪学院大学 中川 徹
InterLab誌, 2006年 4月号 (No. 90), pp. 40-43
第2回に、旧ソ連においてアルトシュラーとその弟子たちがTRIZを開発・確立したことを述べ、第3回で、冷戦終了後にTRIZが米国と欧州に伝わり、ソフトウェアツール化が進展して、企業技術者たちへの浸透が図られてきたことを述べました。
今回は、1990年代後半になって、TRIZが米国経由で日本に伝わり、いくつかの流れを持ちながら定着しつつあることを述べます。(敬称略)。
日本でのTRIZ導入の最も初期を先導したのは、東京大学工学部 (当時) の畑村用太郎研究室、そして1996年からの『日経メカニカル』誌でした。そのすぐ後に、三菱総合研究所がInvention Machine社のツールを中心としてTRIZ導入を行い、さらに、産業能率大学がIdeation International 社と提携してTRIZの導入活動をしています。
日本での特徴は、TRIZの導入と普及においてユーザ企業の連携が図られていることです。また、筆者が編集している『TRIZホームページ』が公共的Webサイトとして活動し、その中で「やさしいTRIZ」としてUSIT法の普及が図られていることも特徴です。
こういった流れを説明した後に、現在の日本におけるTRIZの推進・普及状況について整理しています。
また、今回は韓国もとりあげます。韓国はTRIZをやや遅れて導入したにも関わらず、旧ソ連圏からTRIZ専門家たちを招聘して急速にTRIZを習得し、いまやサムソンが全世界の中で最もTRIZを活用し成功させている企業であることを説明します。
(1) 日本へのTRIZ導入の前史と先駆け
アルトシュラーの著作は、実に1972年に日本語に翻訳出版されている。"Algorithm of Invention" の初版 (1969年) が、アグネ社から『発明発想入門』という名で出版された。当時の日本では発想法や発明技法に関する関心が高かったから、その分野の人々に読まれ、さらに一部で紹介されたが、原著者たちとの人的な繋がりが得られず、具体的な影響を日本に与えることはなかった。
冷戦 [終了] 後に西側に伝わったTRIZに最も早く接したのは、トヨタ自動車の技術者で、MITに留学中であった井形弘であろう。1993-94年頃に、Invention Machine社の試作版TRIZソフトツール 'IM Lab' を試用し、TRIZの知識ベースとTRIZの技法の一端を学んだ。
また、同じ頃、東京大学の機械工学の教授畑村洋太郎 (現工学院大学教授) は、独自に「創造設計原理」を研究してきており、米国の学会で発表したときに、「非常に近い考え方が、ロシアでTRIZという名で作られている」と聞いたという。[お詫び: 畑村洋太郎先生のお名前の字を間違えておりました。お詫びして訂正します。(中川、2006. 4.25)]
畑村は研究室の卒業生たちで「実際の設計研究会」を組織して活動しており、井形もそのメンバーであった。このような状況で、同研究会が日本におけるTRIZ導入の先駆けを形成した。
(2) 『日経メカニカル』誌による紹介
日本で最初にTRIZが広く注目されたのは、日経BP社の『日経メカニカル』誌が1996年3月と4月に掲載した特別記事であった。同誌の副編集長篠原司が、米国のTQM関連学会の取材に際してTRIZのことを知り、ミシガン大学のGlen Mazurに執筆を依頼した解説である。
この解説は、TRIZの基本を簡潔に説明したものとして、日本だけでなく欧米でも定評を得た。TRIZの知識ベースを紹介し、アルトシュラーの「矛盾マトリックス」をTRIZの最高峰として教えるもので、(本連載第2回で説明したように) 1970年代前半段階のTRIZ (および1990年代半ばのTRIZソフトツール) を紹介したものであった。
『日経メカニカル』誌は、1997年以降毎号にTRIZ関連の記事や連載の解説 (B. Zlotin & A. Zusmanなど) を掲載し、いくつかのセミナーを企画して、日本の製造業界にTRIZを広める点で非常に大きな貢献をした。[その後、誌名を変更して、『日経ものづくり』に]
(3) 三菱総合研究所の活動
1997年7月に、三菱総研が米国Invention Machine社の総代理店となり、日本におけるTRIZの普及活動を開始した (プロジェクトリーダ: 堀田政利、客員研究員: 冨樫伸行、他)。IM社のソフトツール、特にTRIZ知識ベースとアルトシュラーの矛盾マトリックスの部分が、多くの企業ユーザを魅了し、TRIZ導入の原動力となっていった。
三菱総研が最初に行なったのは、多数の先進ユーザ企業を集めて「コンソーシアム」を組織し、IM社のソフトツールTechOptimizerを日本語化することであった。これは1999年1月に完成し、TRIZ知識ベースの中の多数の事例までも、日本語で読めるようになった。
三菱総研はさらに、TechOptimizerの保守契約の一環として、ユーザによる「知識創造研究会」を組織し、毎月1回の研究会 (あるいは分科会) を開いて、TRIZの考え方・技法・ツールなどの理解を深める活動を継続した。
また、2000年からは毎年9月に「日本IMユーザグループミーティング」を開催し、日本におけるTRIZの主要ユーザが参加して、完全公開ではなかったが、学会的な役割を果たした。
(4) 産業能率大学の活動
1998年4月になって、産業能率大学にTRIZ企画室が発足し、米国Ideation International 社と提携して、TRIZの普及活動を始めた。前号で述べたように、II社のグループは旧ソ連でアルトシュラーの共同研究者として「古典的TRIZ」を開発したと自負しており、それを西側に伝えるとともに新しい技法の開発をも目指していた。
産業能率大学では、VE (価値工学) の素養を持った研究者たち (澤口学、他) がTRIZを習得した。彼らは、公開や企業内でのTRIZ導入セミナーをし、コンサルタントとして企業内で問題解決にTRIZを適用する方法を指導した。ただ、ユーザとは個別の守秘契約を結んだため、ユーザ企業がグループとして活動する場を持たなかった。
(5) 中川の『TRIZホームページ』の活動
TRIZ推進のもう一つの活動母体として、筆者の活動を挙げさせていただきたい。筆者は1997年5月に、MIT Industrial Liaison Officeの東京セミナーで初めてTRIZを知り、感激した。当時勤めていた富士通研究所へのTRIZ導入に努力し、TechOptimizerを習得して、独自にそのマニュアルを作成したりした。
1998年に大阪学院大学に移り、その11月に『TRIZホームページ』(www.osaka-gu. ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/)を創設して、ずっとボランティアで編集を続けている。米国でのTRIZ国際会議、1999年のロシア取材旅行、2000年以降の欧州ETRIA国際会議などの詳細な記事を掲載してきた。和文と英文で発信しており、国内および海外へのTRIZ情報源となっている。
1999年3月に米国でEd SickafusによるUSIT 3日間トレーニングに参加し、以後「やさしいTRIZ」としてUSITを紹介し、また発展させていることが特長である。
(6) 初期のTRIZ入門書・教科書
さて、日本におけるTRIZの主要な推進組織が出揃った段階で、初期のTRIZの入門書・教科書について説明しておきたい。これらが日本におけるTRIZの一般的な理解の内容を形成したと考えるからである。1997年末がTRIZ入門書の最初のラッシュであった。
まず、日経BP社が『超発明術TRIZシリーズ』と名付けて、TRIZの翻訳書の発刊を始めた(1997年10月)。第1巻はアルトシュラーの「Algorithm of Invention」の訳本で、1972年の『発明発想入門』を一部分手直ししたものであった。第2巻はアルトシュラーの「And Suddenly The Inventor Appeared」(ロシア語原著1984年) の英訳版からの翻訳である。第3巻は、『図解40の発明原理』で、アルトシュラーの原書に、Lev Shulyakが補足し、さらに日本での開発事例を日経BP社が独自に例示として補足したものであった。
1997年12月に、畑村洋太郎と実際の設計研究会の編著で、『TRIZ入門−思考の法則性を使ったモノづくりの考え方』(実際の設計選書、日刊工業新聞社) が出版された。書店に並んだ最初のTRIZ入門書として多数の読者に読まれた。Victor Fey & Eugine Rivin の "Science of Innovation: A Managerial Overview of the TRIZ" を和訳し、TRIZの概要紹介をすると共に、「創造設計原理」の立場からTRIZの事例を批判的に検討している。TRIZにとって不幸なことに、この書物のTRIZ批判は、TRIZの翻訳・紹介の部分よりも説得力があった。
畑村らはさらに、1999年12月に、「実際の設計選書」の一つとして、『設計のナレッジマネジメント−創造設計原理とTRIZ』を出版した。創造的な問題解決としての設計の考え方を機械工学分野の豊富な経験と高い見識から記述している。TRIZへの批判も含んでいるが、そのTRIZの理解が古いものに限られていると、筆者中川は考える。
三菱総研は、1999年7月に『革新的技術開発の技法: 図解TRIZ』を日本実業出版社から出版した。これは、IM社のTRIZソフトツールの画面を例示として使い、TRIZの考え方と知識ベースの有効性を示したものであった。読みやすい入門書として迎えられた。
2000年になって、日経BP社の「超発明術TRIZシリーズ第6巻」には、産業能率大学の訳と解説で、『クラシカルTRIZの技法』(原書は1997年Ideation International社刊) が、出版された。
また、同シリーズ第5巻は、Yuri SalamatovのTRIZ教科書 (英訳版、1999年) が、中川徹監訳、三菱総研知識創造研究チーム訳で、『創造的問題解決の極意』として出版された。この教科書は旧ソ連圏におけるTRIZの研究成果を集大成したものであり、技術システムの進化の思想、物理的矛盾とARIZ技法、76の発明標準解などが、はじめてきちんと日本に紹介された。
まとめると、1996年から2000年までの足掛け5年を掛けて、旧ソ連で開発・樹立されたTRIZが日本に紹介されたといえる。それは旧ソ連出身のTRIZエキスパートたち、および米国でTRIZを吸収した人たちを介して、英語で、一部はマンツーマンで、多くは著作を通じて導入されたと言える。
(7) ユーザ企業における初期の導入
あちこちのユーザ企業において、TRIZの有用性を確信した先駆者たちは、さまざまな懐疑論者と闘いつつ、社内で有志を募り、上司を説得して、TRIZの導入を図った。TRIZの社外セミナーに出席したり、社外講師による講演会や研修プログラムを開催したり、TRIZソフトツールを購入したりするのは、稟議などの多くの社内手続きを要したことであろう。
1997年〜2000年頃は、TRIZが大いに脚光を浴び、大きな期待も懸けられていたから、日本の製造業の大企業では、多数の企業がTRIZの導入を試行した。
日本での企業内TRIZ導入は、多くの場合にTRIZソフトツール (TechOptimizerなど) の導入が先導した。1ライセンスが200〜300万円であったから、それができたのはやはり大企業に限られていた。
ただ、TRIZソフトツールを導入しても、初期の学習期間こそ何人かの人たちが使うが、しばらくすると「本当に誰が使うの?」 という問題が生じることが多かった。一人の技術者/技術課題にとっては、TRIZの知識ベースを使う必要がある場面は限られている。使い方を習得した人が使う時間は少しであり、一方、本当は使うとよい場面にいる人はまだその使い方を知らないということが多い。TRIZソフトツールの専門家を置いても、その人自身は解くべき問題を持っていないという状況になる。本来は複数同時アクセス可能なネットワーク・ライセンスがあり、多数の技術者が必要に応じてどこからでも必要な時にアクセスできるようにすることが望ましいが、予算上、そのような体制が組めた企業は極めて例外であっただろう。
TRIZソフトツールのもう一つの問題点は、「アルトシュラーの矛盾マトリックス」が解法の中心に位置付けられることが多かったことである。(これは日本だけでなく、米欧でも同じ問題を生じていた。)このマトリックスで、改善したいパラメータと悪化するパラメータとの特定がしっくりしないことが度々あり、また、推奨される発明原理が解決策のヒントとして使いにくいことがあるのが悩ましい問題であった。西側世界へのTRIZの紹介がTRIZの発展の歴史を辿るように少しずつ行なわれた結果として、1970年代半ばにアルトシュラー自身が直面した困難を30年後の西側ユーザたちが経験したのだといえる。
このような困難の中で、企業内のTRIZ先駆者たちは、自分たちでTRIZの諸技法を学習・習得し、企業内の実地の問題にTRIZを適用して、一歩一歩前進する努力をしたのである。彼らは多くの場合に、上記の1〜6節に説明した複数の流れを同時に取り込み、使い分けていったことが知られている。
(8) 「漸進的導入戦略」と定着への準備
1999年10月に筆者は、TRIZの導入法に関して、「漸進的戦略」を提唱した。これは、当時の米欧で主流であった「革新的導入戦略」と対置したものである。
後者の主眼は、(a) 旧ソ連で樹立されたTRIZをその伝統的な形で教え、(b) IT技術を駆使したTRIZソフトツールを主要手段として使い、(c) 品質管理運動などで確立されてきた全社的なトップダウン展開を指向することであった。筆者は米国および日本の状況から、この戦略は消化不良になると判断した。TRIZの思想や技法を本当に理解しないままで、伝統的なTRIZを鵜呑みにして、トップダウンで号令したのでは、本当の成果は得られないと考えたのである。
筆者が主張した「漸進的戦略」の主眼は、(a) TRIZのエッセンスを理解して、分かる範囲のものを使い、(b) ソフトツールに依存するのでなく、TRIZをやさしくしたUSITの問題解決プロセスを使って、(c) 自覚した人からボトムアップにTRIZの効果を実証しつつ、導入すること、であった。
日本でのTRIZの導入運動は、2001〜2002年頃に、一つの困難な時期を迎えた。企業ユーザの中で、ソフトツールを主体としたTRIZの導入の限界が現れ、なかなか実績を出せないと感ずる人たちが多くいたことである。『日経メカニカル』誌の篠原司副編集長が、社内異動でコンサルティング部門に移り、同誌上のTRIZ関連記事が2001年末からぱったりなくなったことも、大きなマイナスの影響を与えた。
この状況に耐えて、TRIZの理解と社内適用を継続した人々の中に、TRIZに対する確信が育っていった。筆者は、2003年1月に、もはや「漸進的」である必要はないとして、「着実な定着戦略」を提唱した。
(9) 韓国におけるTRIZ導入の試行
韓国におけるTRIZの導入は、日本よりやや遅れて1998年頃にスタートした。当初は日本と同様にIM社のソフトツールの導入が中心であった。しかし、1998年からサムソンおよびLGは、ベラルーシやロシアから、複数のTRIZ専門家たちを呼んで、社員として雇用した。(米欧には旧ソ連出身のTRIZ専門家たちは多数存在するが、TRIZコンサルタント企業に属していて、ユーザ企業に対しては社外コンサルタントとして、研修を行なったり、受託研究を行なうだけであった。)
最も先行したサムソン総合技術院 (SAIT)では、若い研究員Hyo-June Kim がTRIZチームに配属され、ミンスク出身のNikolai ShpakovskiらのTRIZ専門家たちと一緒に活動した。最初は、研究所の実問題を受託研究の要領でTRIZ専門家たちが引き受けて、TRIZで問題解決を図る。韓国人のTRIZチームメンバーたちは、それを観察しつつ、研究員たちとの間の通訳を引き受けることで、TRIZの使い方を学んでいった。また、いくつものプロジェクトを実施する中で、次第に韓国人TRIZチームメンバー自身が問題解決にあたるようになり、さらに韓国人の研究員たち自身が自分たちの問題にTRIZを適用するようになった。
2001年に、SAITのTRIZチームがサポートして、サムソン電子でTRIZを適用し、DVDのピックアップ光学系に関して大幅なコストダウンを実現する解決策を創案した。この実績が、SAITのSun Wook会長 (その後サムソンの会長) に認められ、TRIZを大々的に社内展開することが決定された。これ以後、サムソングループの各社にTRIZチームが作られ、全社におけるシックスシグマ運動に組み込まれる形で、発展していく。
このような韓国におけるTRIZの進展は、三菱総研や日経メカニカル誌の取材で断片的に日本に伝えられていた。2001年9月および2003年9月には、三菱総研主催の日本IMユーザグループミーティングにおいて、Hyo-June Kimと Nikolai Shpakovskiが直接にこれらの事例を発表した。それは、実地適用事例としても、TRIZ推進事例としても、大きな衝撃を日本のTRIZユーザたちに与えた。
(10) 日本におけるTRIZの発展
2003年1月に筆者は、日本のTRIZの導入は「漸進的導入戦略」から「着実な定着戦略」に進める段階になったと宣言した。その根拠は、世界においても日本においても、TRIZの理解が確実に進展したと考えたからであった。
世界的には、Darrell Mannの新しい教科書『Hands-On Systematic Innovation』が2002年7月に出版されていた (CREAX社とMannとの研究プロジェクトの全貌が発表されたのは2003年3月のことであった)。筆者らはすぐに、Mannの教科書の翻訳プロジェクトを起こし、20名弱が参加して、2004年6月に『TRIZ 実践と効用 (1) 体系的技術革新』(中川徹監訳、創造開発イニシアチブ刊) を出版した。
さて、いままで述べてきたように、日本はTRIZに関して、旧ソ連、米国、欧州からいろいろと吸収し、受容してきた。では、日本が新しく寄与したものは何か?
その一つは、産業能率大学の澤口学らによる、VEとTRIZを統合させた扱いであろう。これはIdeation International 社のTRIZ-DE (方向づけた進化) を適応させたものである。
第二は、筆者と古謝秀明・三原祐治 (富士写真フイルム) による「USITの解説策生成オペレータの体系化」である。TRIZの知識ベース中の諸方法をすべてばらして、USITの解決策生成技法としてまとめ直したものである。
第三は、筆者が、上記の発展として、USITの全体構造をデータフロー図で表現した結果、「6箱方式」を得た。これが、TRIZの枠を越えて、「創造的問題解決の新しいパラダイム」であると、筆者は主張している。TRIZの全体プロセスが百家争鳴の状況にある根本の理由が、このようなデータフローで表した全体構造を持たないためであると、筆者は考える。
(11) 日本におけるTRIZ推進の状況
TRIZの推進者やユーザが一堂に会して発表し、議論するようなオープンな場を、日本では長い間持てないできた。この状況を克服する努力が、2004年に再スタートした。
2005年2月に、日本における主要なTRIZ推進者やユーザが集まり、「日本TRIZ協議会」を結成した。これまでの分離した状況を改めて、大同団結して、 シンポジウム開催などをし、新しい日本TRIZ協会 (仮称) の結成を準備していこう とするものである。代表者には林利弘 (日立製作所) がなった。
2005年9月に、同協議会が主催して、「第1回TRIZシンポジウム」を修善寺で開催した。発表を公募し、22件の発表と104人の参加者を得た。同協議会は、本年も8月31日〜9月2日に、第2回TRIZシンポジウムを大阪府吹田市で開催する計画であり、発表の公募をアナウンスした。
(12) 日本の企業におけるTRIZ普及状況
現在のTRIZ普及状況を、公表資料などでまとめるとおおよそ以下のようである。
長く継続した全社的取り組みを行い、組織的に定着させているのが日立製作所である。研究所などでの個別導入期間の後に、1999年開始の全社活動HiSPEEDにおいて、すべての技術者が身につけることが望ましい技術として、QFD (品質機能展開)、TRIZ、タグチメソッドを中心とした「開発・設計エンジニアリング技術」を掲げた。教育活動とともに、自前のTRIZ実践指導会を行って定着を図った。TRIZは立ち上がりは (他の2技法に比べて) 遅かったが、現在では最も活用されているという。
同様に全社的、組織的にTRIZを導入して定着させたのが、松下電器グループである。同グループの中で、最も活発で先行しているのが、パナソニックコミュニケーション社 (PCC) である。同社は2001年に開発プロセス革新グループを組織し、タグチメソッドを導入し、ついでTRIZの導入を行なった。当初は三菱総研やアイデア社からTRIZの研修と実践のコンサルティングを受けた。専任のTRIZ担当者を複数置き、社内の実地問題にどんどん適用する方法をとった。「なぜ、なぜ、」と徹底して問う方法を用い、1テーマに300〜500のアイデアを出す。それらを短期の新商品開発、中期の次世代製品開発、長期の将来コンセプトに分けて考えると、明確なビジョンが得られる。このようにして、いまや年間100プロジェクト以上に適用して、確実な成果を上げている。
一方ボトムアップでのTRIZ導入を成功させてきている企業には、富士写真フイルム、富士ゼロックス、リコー などがある。
富士写真フイルムの例では、1996〜1998年に活発に活動した先駆者があり、その後1998年から研究所で1名、生産技術部門で1名がTRIZの普及実践活動を積極的に行なってきている。社内のTRIZ研究会を持ち、外部講師によるTRIZ基礎研修を行なうとともに、USITを用いて実地問題の解決を多数行なってきた。
富士ゼロックス の例でも、社内有志によるTRIZ研究会が導入活動の核になっている。社内講師によるTRIZ研修と、実地適用が車の両輪である。TRIZソフトツールを導入・使用している。実地適用の技法としてはUSITのウエイトが増大しつつある。
中間的な形態で、知的財産部が主導しているケースとして、日産自動車の例がある。TRIZソフトツール (英語版) を主体とした導入が一度停滞した後で、2001年から 知的財産部が主導して再立ち上げを行なった。三菱総研のソフトツール、産業能率大学のTRIZ基礎研修、中川のUSIT 2日間トレーニングなどを組み合わせて導入し、知的財産部内に複数のTRIZキーマンを養成してきている。研究所や事業部がTRIZ/USITを習得して、独自に実施しつつある段階である。
松下電工でも、知的財産部と技術管理部とがチームを作って導入を進めている。2003年からUSITの2日間トレーニング (講師: 中川) を3回実施して、機構系、システム系、材料系のテーマでの適用可能性を検証した。2005年度から、自分たちがリードしてUSITの実地適用を実践中である。
(13) 韓国サムソンにおけるTRIZの全社普及
この2、3年の韓国サムソングループにおけるTRIZの全社普及の状況は驚くべきものである。経営トップが技術革新を主導し、その製品分野の多くで世界の最先端技術の開発と市場の獲得を目指して、シックスシグマ運動を展開している。TRIZはこのシックスシグマで直面する品質・歩留り・コストなどの技術的問題を解決できる技法だとして、全社展開されているのである。
サムソングループの各社にTRIZチームが作られ、グループ全体で「サムソンTRIZ協会 (STA)」を組織し、協力関係を作っている。旧ソ連出身のTRIZ専門家を社員として雇用しただけでなく、世界から何人ものTRIZ専門家を招いて継続的なトレーニングを行っている。ロシアの国際TRIZ協会がこの数年で認証した「レベル4」のTRIZエキスパートは、世界中で約60人、その中の40人以上がサムソン社員であるという。旧ソ連のTRIZ専門家がリードした段階から、韓国人社員のTRIZエキスパートたちが活躍する段階になっている。技術的な適用事例もいくつか公表されている 。
サムソン電子では2005年の技術系新入社員4000人全員にTRIZ基礎教育を行なった。これだけ多数にTRIZ教育を行なうには、対面教育だけでなく、イントラネットを使ったTRIZ通信教育が必要になり、その教材も独自開発した。サムソン社員たちは、このTRIZ教材を学び、またより高度なTRIZトレーニングに参加して自分のスキルを磨き、資格を取ることに必死になっているという。
サムソンの世界市場における近年の躍進はまさに驚異であるが、その原動力の一つがTRIZなのである。TRIZは、LGやPOSCOなどの他の韓国企業にも広がりつつある。Kyeong-Won Lee教授は、韓国におけるTRIZの普及が2005年から急激な成長期に入ったという。韓国・サムソンが世界におけるTRIZ普及の最先端にあり、最大の成功事例である。
今回で「TRIZの成立と普及」の話を終わり、次回にはTRIZ/USITの実地適用事例を紹介して、どのように使われるのかを例示しよう。
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最終更新日 : 2006. 5. 9 連絡先: 中川 徹 nakagawa@utc.osaka-gu.ac.jp