TRIZ/USIT 解説・紹介 | |
連載: 技術革新のための創造的問題解決技法!! TRIZ |
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第2回 TRIZの成立と普及 (1) 旧ソ連での成立と発展 |
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中川 徹 (大阪学院大学) |
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許可を得て掲載。無断転載禁止。 [掲載:2006. 2. 1] |
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編集ノート (中川徹、2006年 1月31日)
本件は、産学官連携支援マガジン『InterLab』誌に掲載開始した長期連載の第2回です。同誌のご好意によりここに掲載しています。連載の親ページ。
同誌で発行された形のものは PDFファイルにしています。ここをクリック下さい (PDF 298KB) 。
また、ここにHTML形式のページを作り、いろいろなところへのリンクを張りましたので、ご活用下さい。
なお、このページはTRIZについて初心者の方のための、TRIZ紹介のページとしても位置づけております。TRIZ紹介の親ページ その他へもリンクしておりますので、ご活用下さい。
目次:
技術革新のための創造的問題解決の技法!! TRIZ
第2回 TRIZの成立と普及 (1) 旧ソ連での成立と発展
大阪学院大学 中川 徹
InterLab誌, 2006年2月号 (No. 88), pp. 44-46
前回は、「TRIZとは何か?」というテーマで、質疑応答の形式でTRIZの概要をいろいろな面に渡って説明しました。旧ソ連の民間で着想・樹立され、冷戦終了後に西側諸国に伝わり、現在では米・欧・日・韓の企業や大学に導入されてきていることを述べました。
また、特許の分析を出発点にして、科学技術を技術の立場から見直し、膨大な知識ベースを創り上げ、発明原理や技術進化のトレンドなどを抽出したこと。技術的な問題解決のために、しっかりした多様な技法を創ったこと。それらの知識ベースや技法が、パソコン上で快適に動くソフトツールとして実現されていること。これらすべての根底に技術システムの発展に関する思想を持っていること、などを説明しました。
今回からの3回は、「TRIZの成立と普及」というテーマで、その歴史を説明しましょう。(1) 旧ソ連での成立と発展、(2) 米国と欧州への展開、(3) 日本での受容という予定です。
(1) TRIZの創始者アルトシュラー
TRIZは、その創始者アルトシュラー (Genrich Saulovich Altshulller, 1926 - 1998年) という一人の人物によって「創り出された」といっても過言ではない。
その生涯を記したものは、「アルトシュラー基金(Altshuller Foundation)」の公式サイト (www.altshuller.ru/world/eng/) にロシア語で掲載されている (英訳はまだない)。[注: この基金は、アルトシュラーの遺族が設立し、多数の弟子たちの協力を得て、最近活発に論文や遺稿をWeb掲載している (ロシア語・英語等) 。]
日本語では、中川が編集するWebサイト『TRIZホームページ』(www.osaka-gu.ac. jp/php/nakagawa/TRIZ/) [以後「TRIZ HP」と略称] に掲載した、「TRIZの母国を訪ねて (1999年8月、ロシア&白ロシア訪問記)」中の記述が参考になる。また、ベトナムからの留学生で1971年以来アルトシュラーに師事した Phan Dung の「アルトシュラー先生の思い出」 (TRIZCON2001発表資料、和訳TRIZ HP 2001年5月) に、より詳細な記述がある。
アルトシュラー (1959年、32歳のとき)。
1999年に筆者がロシアを訪問したときに遺族から頂いたもの。
アルトシュラー基金の正式許可を得て掲載。アルトシュラーは1926年10月15日に、タシュケントに生れた。少年時代から発明の才をもっていたという。
(2) 着想、迫害、成立 (1946-1970年)
1946年に、アルトシュラーはバクーで海軍の特許審査員の職を得た。多数の特許に接する中で、独創的なはずの特許の中にも、発明のアイデアのエッセンスには自ずから似たパターンがあり、それを抽出すれば、発明の方法を確立・伝授できるだろうと考えた。技術的な矛盾に対して、ステップを踏んで解決していく、新しい発明の方法の着想を得た。これが (後の) TRIZの最初の着想であり、アルトシュラー20才のときである。
彼はR.V. Shapiroと連名でスターリンに提言書を送り、発明のプロセスをこの新しい方法で改良するべきだと提案した。翌1949年に 2人は反体制であるとして逮捕され、強制収容所に送られた。アルトシュラーはそこで辛酸をなめつつ、多数の優れた科学者たちから話を聴き、自分の着想に対する信念をより強固にしていった。
スターリンの死後、1954年に強制収容所から解放されたが、アルトシュラーは職を得られなかった。そこで彼は、Henry Altovというペンネームで多数のサイエンスフィクション (SF) を書き、その原稿料で生計を立てた。
1956年に、アルトシュラーの初めての論文 (R.V. Shapiro と連名) が発表された。「発明的創造の心理学」と題するもので、後のTRIZによる問題解決のやり方の骨子を明確に述べている。(この処女論文の (部分) 英訳は、米国のアルトシュラー協会 (Altshuller Institute for TRIZ Studies) のジャーナル『Izobretenia』 (2000年) に掲載されている。[注: この協会は、米国でTRIZ推進者たちが大同団結して作ったもので、アルトシュラーの承認を得て1998年夏に設立された。] なお、産業能率大学の黒澤慎輔氏による和文全訳ができ、近くTRIZ HPに掲載予定。)
アルトシュラーは1961年に最初の著書『発明の学び方』を出版し、5万部を完売した。彼は各地に出かけてTRIZのセミナーを無料で開いて、その普及を図った。また、毎週日曜日の新聞の子ども向けコラムに、クイズ形式で発明の方法を紹介し、それが非常な人気で毎週6000件もの回答が送られてきたという。
(3) 確立とTRIZ学校 (1970-1974年)
1970年になって、アルトシュラーは初めて公的に活動することが許された。彼はバクーに「アゼルバイジャン発明創造性研究所 (Public Institute of Inventive Creativity)」を開いた。それは公的な教育制度のものではなく、日曜日ごとに開かれる学校であった。「Public」というのは、西側のセンスの「公的」ではなく、共産主義体制での「民間」(誰にでもオープンなもの) を意味したようである。大学院生たちや技術者たちが、自由意志で集まり、大学院レベルの2年間の訓練を受けた。
教育内容は、確立されつつあったTRIZの方法論 (創造的な問題解決の方法論、創造的想像力の開発、創造性の心理学) が中心で、関連する西側諸国の方法論も教えられた。教育内容は厳しく、講義・演習の他に、多数の演習問題が宿題として出され、修了前に特許レベルの発明 2件、TRIZ関連テーマでの新しい研究1件を要求された。
この時期のアルトシュラーの教育者としての姿は、ベトナムからの留学生であった Phan Dung の追想記に生き生きと記述されている。指導内容は厳しく、そして学生たちには温かい先生であった。
このバクーでの公的活動は1974年まで続いた。その間に100人近くの学生たちが育ち、アルトシュラーは『発明のアルゴリズム』(1969年初版、1973年改訂版) などいくつかの著作を出版し、TRIZが内容的にも確立した時期であるといえる。
この頃、レニングラード (現サンクトペテルブルグ) にいたV.V. Mitrofanov は、アルトシュラーの『発明のアルゴリズム』を読んで感激し、それを身につけるとともに、その適用・普及を図った。いくつかの講演やセミナーを試行した後に彼がたどりついたのは、TRIZを教えるイブニング・スクールであった。1970年以来、このスクールにも優秀な人材が集まり、後のTRIZのリーダたちが育っていった。
(4) 確立期のTRIZの内容
この時期までのTRIZの内容を簡単に説明しよう。
まず、1956年のアルトシュラーの最初の論文は、つぎのような内容を持っている。
・ 発明的な創造の心理過程を論ずるにあたって、「ひらめき」などの内実が不明の用語を避ける。
・ 技術の発展が、そのシステムに内在する「技術的な矛盾」に直面して足踏みする。この矛盾の壁を越えることが、発明的創造である。
・ 発明的創造は、一般に以下の3段階で行なわれる。
(1) 分析段階: 問題の選択、問題を生じる主たる特性の明確化、本質の矛盾の明確化、矛盾の直接の原因を確定
(2) 操作段階: 典型的な解決策を (自然界と諸技術から) 学ぶ、変化を導入して新しい解決策を探索する (システム内で、環境中で、隣接システムで)
(3) 合成段階: システムを機能的に有意に変化させる、システムの使用法を機能的に有意に変化させる、解決策コンセプトを他の技術的問題に適用する可能性を検討する、開発した発明を評価する。・ これら3段階は典型として描いたものであり、実地に適用・検証される必要がある。
・ 「発明的創造の心理学」の目標はあくまで「実用」にあり、発明を創造する科学的方法を樹立することにある。
この処女論文の後、アルトシュラーは特許からの知識の抽出にエネルギーを注ぐ。上記の (2)操作段階でヒントとして有効に使える解決策を蓄積することがねらいである。
・ 技術の進化の法則: 技術の特定分野にとらわれない、一般的な発展の法則を分析記述する。
・ 発明の原理: 特許に現れる発明のアイデアのエッセンスを、技術の特定分野にとらわれない用語で記述する。「40の発明原理」とその事例集。
このような知識の抽出に並行して、アルトシュラーは発明の技法 (思考方法) にも注力している。彼は、発明家が身につけるべき思考能力を、「論理と直感とスキルの融合」と表現している(『発明のアルゴリズム』)。
論理面では、上記の知識ベースをフルに活用することである。しかし、アルトシュラーがまず学生たちに質問されたのは、「どんな場合にどの発明原理を使えばよいのか?」ということであった。そこでアルトシュラーが作り上げたのが「矛盾マトリックス」である。
技術的な矛盾を、「システムのある面を改良すると、別の面が悪くなる」ことであると捉える。これを一般的に記述できるように、39個のパラメータ (「面」) を選定し、39×39の表 (「マトリックス」)を用意する。そして、特許を一つ一つ読んで、その特許がこの表のどの矛盾問題を扱い、どの発明原理を使ったのかを記録する。この作業を約4万件の特許について行なった結果、マトリックスの各枡目について従来の発明者たちが最もよく使った発明原理が明確になった (各枡目のトップ4原理を記述)。これは膨大な技術知識を整理・蓄積したもので、TRIZのユニークな技法となった。
上記の「直感」という面では、考えを柔らかくすること、「イメージ」や「想像/空想」を活用すること、心理的な惰性にとらわれないこと、を強調している。アルトシュラーは旧ソ連でSF作家として非常な人気を得ており、技術者たちが従来のものにとらわれないイメージを持つことを奨励した。「賢い小人たちによるモデリング (SLP法)」もその一つのやり方である。
「スキル」という面では、学生たちに沢山の演習問題をやらせた (2年間のコースでは、100〜200の演習問題が宿題)。
(5) 成長と浸透 (1974-1985年)
1974年に再び当局から弾圧され、バクーのPIIC研究所は閉鎖された。そこに学んでいた学生や技術者たちは、それぞれの本業に戻り、また卒業とともに旧ソ連の各地に分散していって、各地でTRIZを適用・教育する拠点を作っていった。
このような中で、アルトシュラーは少数の共同研究者たちとともに各地の都市を訪問して、TRIZのセミナーを開き、その普及に努めた。また、弟子たち、そして弟子の弟子たちから多くの手紙を受け取り、それらに懇切な返事を書いて、TRIZの発展を指導した。これらの膨大な往復書簡が相手ごとにきちんとファイルされて残されている。
この時期になると、弟子たちが成長して、各地に分散しつつ共同研究者として多くの寄与をしている。多数のテーマで発展しており、アルトシュラーをリーダとして分担体制ができている。各地の拠点は、非公式なスクールの場合もあれば、大学の研究室などの公的な活動ができるものもあった。
1974年から毎年ペテロザボーツクでTRIZの会合 (学会) を開き、研究成果を発表し、TRIZの理解の統一を図っている。その中でアルトシュラーは強烈なカリスマであり、彼の判断でTRIZの体系が拡張されつつ維持されていく。弟子たちの発案になる新しい概念や技法が、スムーズに受け入れられる場合もあるし、数年間認められず後になって取り込まれたという場合も知られている。この1985年までのTRIZの体系が「古典的TRIZ」と呼ばれ、創始者アルトシュラーが直接に指導したものである。
(6) 「古典的TRIZ」の内容
1974年〜1985年頃の時期には、「論理」の面が最も強化された。アルトシュラーはそれまでにつくった諸方法に満足せず、発明的な問題解決のためにいろいろな方法と知識ベースを創り、その全体プロセス (それを ARIZ 「発明問題解決のアルゴリズム」と呼んだ) の改良を続けた。
1970年代初期の大きな問題は、膨大な努力をして作り上げた「矛盾マトリックス」が、(多くの人々を魅了したにも関わらず) 必ずしも使いやすくなく、適切なヒントを与えない場合があることであった。アルトシュラー自身がこれに問題を感じ、根本的にもっとよい方法を求め続けた。
その発展の一つは、「矛盾」の概念の深化であった。これまで、「技術的な矛盾」は、「ある面と別の面とのトレードオフ」として捉えられていた。しかし、もっと奥に、「一つの面に関して、正・逆の互いに対立する要求が同時にある」という矛盾、「二律背反」で「にっちもさっちも行かない」矛盾があることが認識された。このように定式化された矛盾を「物理的矛盾」と呼び、従来の定式を「技術的矛盾」と呼ぶことにした。
そして、この「物理的矛盾」を解決する方法を見出し、それを「分離原理」と呼んだ (本連載第1回参照)。「正逆の要求を、空間または時間で分離し、分離した状況で各要求を満たす解決策を作り、それらを統合して用いる」という、一般的で強力な解決法であった。(なお、空間と時間の他にも、いろいろな分離の方法があり、有効なのだということを、弟子が主張してアルトシュラーが取り入れるまでに数年を要したという。)
もう一つの重要な課題は、機能の概念を取り入れて、技術システムを分析することであった。アルトシュラーは、西側諸国の機能分析の表現を使わず、「物質-場モデル」という独自の表現法を創った。問題のシステムについて、問題のエッセンスを成す部分だけをクローズアップし、一つのモノ (「物質」) からもう一つのモノへの作用 (「場」) だけを取り上げ、その作用が欠如/不十分/過剰/有害であることを「問題」として記述するようにした。
この記述を使って、多様な「問題」をこのモデルの言葉で分類し、分類した「問題のパターン」に応じて、解決策の考え方を提案できる。この方式でアルトシュラーが創った「問題のパターン」とそれに対応した解決策のハンドブックを、「76の発明標準解」と呼ぶ。
さらに、知識ベースの構築も進み、物理や化学などの諸分野の原理・現象・技術などを網羅したデータベース (「Effectsデータベース」と呼ぶ) を創った。また、技術システムの進化のトレンドを多数具体的に抽出した。
アルトシュラーはこれらの方法や知識ベースを駆使して、技術的な困難な問題 (「発明を要する問題」) を解決するための全体プロセスの構築に努力した。その全体プロセスはARIZ (「発明問題解決のアルゴリズム」) と呼ばれ、歴史的にいくつものバージョンがある (1985年のARIZ-85C がアルトシュラーの最終版)。ARIZの中核は、問題の焦点を絞っていって「物理的矛盾」に定式化し、それを「分離原理」で解決することにある。
(7) 発展の多様化 (1985年以後)
TRIZの発展の歴史において、1985年が一つの区切りになっている。この年にペレストロイカが始まり、1991年の旧ソ連の崩壊、ロシアの経済危機などの世界史的変動が続いたことが一つの要因である。
ただ、それ以上に、アルトシュラーの方針転換があった。彼は、1985年にARIZ-85Cを作り上げた段階で、「技術分野の発明の方法に関してはするべきことは十分にした。これからは、より広く人間の創造性について考え、創造的人格の形成、創造性の教育の問題に注力すべきだ」と宣言した。
アルトシュラーはバクーからペトロザボーツクに転居し、この頃から健康を損ねていたが、この方針での研究活動を続けた。1994年には、創造的人格の形成に関する膨大な共同研究をまとめた著書『How to Become a Genius』を出版した (ロシア語のみ)。また、その影響下に、旧ソ連の諸国では、TRIZを基礎にした創造性教育が、幼稚園児から技術者までの生涯教育として各地で実践されている。ミンスクのNikolai Khomenkoを中心とするOTSM-TRIZ (「強い思考の一般理論」) の研究と実践が注目される。
1985年以後、技術分野でのTRIZは、アルトシュラーの直接の指導・統制を離れ、各地の弟子たちによって、多様に発展することになる。1991年の冷戦終了以後、多数の弟子たちが米国や欧州に移住して新天地を開いている。また、技術分野からビジネス分野に移行しつつTRIZを継続して利用・発展させている人たちも多くいる。
その中で特筆すべきは、キシネフのBoris ZlotinとAlla Zusman のグループであり、古典的TRIZの体系をまとめ、アルトシュラー他との共著で『Search for New Ideas: from Insight to Technology』 (1989年、ロシア語) を出版した。1992年以後米国に渡り、Ideation International 社でTRIZの発展を主導している。
また、ミンスクのValery Tsourikovのグループは、人工知能や意味解析の技術をバックにして、TRIZの知識ベースをパソコンに乗せることを始めた。その後、米国に移住して、Invention Machine社を興し、TRIZソフトウェアツールを普及させ、西側諸国へのTRIZ導入の大きな柱をつくった。
1989年に国際TRIZ協会 (MATRIZ) が設立され、アルトシュラーが初代会長になった。また、1998年夏に、アルトシュラーは全世界に散らばった彼の (直接・間接の) 弟子たちの中から65人を選んで、「TRIZ Master」 という称号を与えた。
アルトシュラーは、1998年9月24日に、ペトロザボーツクで71才の生涯を閉じた。創造的問題解決の方法論と創造的人格の研究を通じて人類のために献身した生涯であった。
ロシアおよび旧ソ連圏におけるTRIZ関連の活動状況は、最近随分英語でも発信されるようになってきている。「アルトシュラー基金」の公式サイト、国際TRIZ協会のニュースレター、同協会発行の機関誌『Journal of TRIZ』 の英語版などである。これらを読むと、やはり研究者の層の厚さが分かる。科学技術の本格的な教育を受け、同時にTRIZを深く理解して、研究・実践している人たちが多数いる。
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最終更新日 : 2006. 4. 4 連絡先: 中川 徹 nakagawa@utc.osaka-gu.ac.jp