TRIZフォーラム: エッセイ・歴史 |
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ゲンリッヒ・サウロビッチ・アルトシュラー先生の思い出 | |
Phan
Dung (ベトナム国立大学
ホーチミン市校)
TRIZCON2001 (2001年 3月25-27日, ウッドランドヒルズ) 基調講演付属資料 訳: 中川 徹 (大阪学院大学) 2001. 5. 5 [許可を得て掲載: 2001. 5. 8 ] |
編集ノート:
(2001年
5月 8日 中川 徹)
本稿は, 先日のTRIZ国際会議 TRIZCON2001の基調講演の付属資料として配布されたものです。原題はつぎのようです。
My Experiences with My Teacher Genrikh Saulovich Altshuller
Phan Dung (CSTC, Vietnam National University - HoChiMinh City,
Vietanm)
和文翻訳と掲載, および英文掲載を許可いただいた著者およびAltshuller Institute for TRIZ Studiesに深く感謝いたします。
著者: Dr. Phan Dung e-mail:
PHAN
DUNG <pdung@hcmuns.edu.vn>
学会: The Altsuller Institute for TRIZ Studies
http://www.aitriz.org/
ベトナムからソ連のバクーに留学していた著者が, TRIZの創始者アルトシュラーに師事し, 身近に学んだことを生き生きと描いています。日本の私たちには謎に包まれていた, アルトシュラーとその学生たちの実像が彷彿としてきて, アルトシューラーの情熱と人間性に感動を覚えずにはいられません。
[なお, 原文には章だてが明記してありませんが, 読者の読みやすさのために, 中川がキーワードを太字にし, また節への分離と節タイトルを挿入しました。]
[なお,
著者Dr.
Phan のベトナムでの活動状況は, 1999年7月に本ホームページに掲載していますのでご参照下さい。また,
アルトシュラーの生涯と旧ソ連各地でのTRIZスクールの様子については, 小生のロシア訪問記
(1999年8月) をもご参照ください。]
本ページの先頭 | 2. 先生との出会い | 3. バクーのPIICのカリキュラム | 5. 卒業論文の執筆と指導 | 8. レニングラード留学とTRIZ学校 | 9. 再会・交流・最後の手紙 |
13. アルトシューラー先生の生涯 | 14. アルトシューラー先生の事跡の意義 | ベトナムでのTRIZ普及活動 (Phan: 1999. 7) | TRIZCON2001報告(中川) | ロシア訪問記(1999.8, 中川) | 英文ページ |
私の生涯を通じて, 私がTRIZ (「発明問題解決の理論」のロシア語略称)
を知るようになり, それも偶然TRIZの創始者であるゲンリッヒ・サウロビッチ・アルトシュラー先生から直接にかつ楽しく学べたことは,
本当に幸運であったといつも思います。もし1971年に見つけなかったとしても,
きっと後になってそれを見つけ, 生涯それに従っただろうと思います。
1. 考えるプロセスに対する私の関心
子供の頃に, なにか自分が間違ったことをすると (自分ではよいと思ってしたにもかかわらず), 叱られて, 「馬鹿だね! する前にもっと注意して考えなさい」と言われたものです。口には出しませんでしたが, 心の中で「間違いをするまで, だれもどう考えたらよいか教えてくれなかったじゃないか!」と思っていました。そして, 考える方法を学ぼうとしたのです。
中学・高校の時には, 友達たちと同様に, 私も科学者や発明家, 作家や詩人に憧れました。私の国や人類のために何か新しいことをして役に立つことができたらなぁとも思っていました。どのようにしてあの人達はあんなにすばらしいことを考えることができるのだろう?」と不思議に思っていました。演習問題で, 友達の何人かはその場で難しい問題を解いてみせました。「どうしてそんなに速く考えられるのだろう?」と私は思ったものです。
そのような疑問が一日に何回も私の心に湧きました。友達や年上の人達と話しても, 満足な答えはありませんでした。一つの答えからまた新しい疑問が出てくるのです。
物理や化学・生物学の法則を学ぶと, 私は, 「考えることには法則があるのだろうか? どうしてそれを高校で教えないのだろう? 考える方法を自分で見つけられないだろうか?」と思いました。
勉強の中で, 私は最初に数学を選んで, 問題を解く時の自分の考えるプロセスを観察しました。問題の答えを得た後で,
自分の考えた道筋を繰り返し思い出し, それを論理的に説明しようと試みました。答えを見つけたのがたまたまだった時でも同様です。解決過程をいつも論理的に説明はできませんでしたが,
うまく行ったときは大変うれしかったのです。自己評価をして, 自分の考えるのが良くなってきているのが分かりました。そうすると,
段々自信ができてきて, 数学だけでなく, 演習問題をするのが好きになりました。
2. アルトシューラー先生との出会い
1967年に, 私は実験物性物理学の勉強のためにソビエト連邦に派遣されました。一年間大学の準備でロシア語を学んでから, バクー市のアゼルバイジャン国立大学に入りました。ロシア語の書店や図書館が, 永年私が虜になっていた疑問のいくつかに答えを見つけるのを助けてくれました。ひまがあると書店や図書館に行き, 創造的思考に関連した文献を探しました。 私の理解は随分進みました。私は読んだことを自分の思考に適用し, いくらか面白い結果を得ました。しかし, もっと具体的にもっと実際的に理解したいと私は思っていました。
創造的思考についての私の読書習慣が, 遅かれ早かれ私をTRIZに導いただろうと, 私は思わざるをえません。このような不可避性の中で, 幸運なことが起きました。
1971年のある日, 私は大学の4年生でしたが, 物性論の講師の先生がなかなか来ず, 傍のソビエト人の学生たちと雑談をしていました。15分経ってもまだ講師がやってきません。私は友達に創造的思考に関連した私の疑問を話しました。Andrei が, 「All-Union Association of Soviet Inventors and Rationalizators (ソビエト連邦発明家・合理家協会) がちょうどPublic Institute of Inventive Creativity (発明創造性公共研究所) を設立して, 創造的思考方法を教えている」と教えてくれました。彼自身がそこで学び, 面白いというのです。喉の乾いた人が水を見つけたように, 放課後にその研究所に連れて行ってくれるように, 私はAndrei に頼みました。
私たちは時間前に着き, アルトシュラー先生に会いました。Andrei が私を紹介してくれるやいなや, 私は準備していたことを話しはじめました。私には心配な訳があったからです。クラスはもうすでに大分前から始まっており, 定員一杯かもしれませんでした。外国人を研究所が受け入れるだろうか... ともかく, 研究所への入学を許可して貰えるか心配だったのです。アルトシュラー先生は, 私を遮ることなく注意深く聞き, そして簡単に承認をくれました。それは, 質問されたら答えようと準備していた私の議論を霧散させるものでした。先生は, 「創造的思考が好きなら, クラスに入れます。この研究所で学ぶことはすべて, あなたとあなたの英雄的な祖国に役に立つでしょう。困ったことがあったら何でも助けてあげましょう。」と言いました。私はうれしくて空を舞っているようでした。そしてその瞬間から, 私の新しい生涯が始まったのです。
私がゲンリッヒ・サウロビッチ・アルトシュラー先生を見たのはこの時が初めてでした。創造性について教える先生は(創造的な経験を他の人達に分け与えようというのですから) もっと年配だろうと私は思っていましたので, 私はびっくりしました。若いスポーツマンのように見えたのは, おそらく, プロポーションのよい体格と, 颯爽とした歩き方と, 簡素な衣服 (先生がネクタイをしている姿は, 新聞や本や雑誌の写真でさえ, ほとんど見たことがありません)と, ざっくばらんで温厚なマナーとによるものだったでしょう。先生は温厚な顔立ちで, 知的で温かい眼差しで, ふさふさしてカールした黒い髪でした。伝統的なモデルに従うと大変ハンサムでした。後で分かったのは, その時先生は45才であり, わずか14才のときに最初の特許を取ったということです。
後から私と一緒のクラスで学んだベトナム人学生たちがいました。私の最初のクラス
(1971-1973年)には, Nguyen Van Chan とNguyen Van Thongがおり, 2回目のクラス
(1973-1975年) には, Duong Xuan Bao, Thai Ba Can, そして Nguyen Quang Tho
がおりました。
3. Public Institute of Inventive Creativityにおけるカリキュラム
Public Institute of Inventive Creativity(略称PIIC; ロシア語略称はAzOIIT) は, アルトシュラー先生の主導で創立されたものであり, カリキュラムやシラバスも先生が設計したのでした。その目的は, 職業的発明家, 創造性方法論の研究者や教師, そして創造的で発明的な活動の組織者たちを育成することでした。この研究所はまた, TRIZの新しい研究結果を試行し, 教育と学生たちによる適用から得るフィードバックをTRIZの一層の改良のために使うための場でもありました。教育課程は 2年間でした。その主要教科は以下のようです。
哲学はすでに大学の課程で教えられていたので,
PIICでは教えられなかった。
いくつかの科目は修了するのに口頭試問を通る必要があり, 他のものは記述試験を通る必要があった。最後には, 学生たちは卒業論文を書き, 研究所科学会議の前で口頭試問を通る必要があった。卒業論文には 2種のテーマがあった。
アルトシュラー先生は主として二つの教科
(上記の1. と2. ) を教え, 教室の授業でも宿題でもそれらが主要な部分を占めた。学ぶにつれて,
アルトシュラー先生の助言がよくわかるようになった。「長い目でみると, 問題を解決する方が,
理論を学ぶよりも重要である。」また, 「創造的思考を学ぶのは, スポーツを習得するのと同じだ。だから,
仕事と人生に必要になるスキルとマナーを習得するには, 実践練習に集中しなければならない。」
4. 教育者としてのアルトシューラー先生
アルトシュラー先生から直接学ぶ機会を得たことは, かけがえのないものでした。時を経て, 彼を知れば知るほど, 私はこの機会をありがたいと思いました。
第一に, そして最も大きなことは, TRIZという仕事をその著者自身から学ぶという機会であった。だから, TRIZの方法論についての間違った表現によって間違って理解するという心配がなかった。今日では, インタネットで調べ, 世界中のTRIZの活動を見ていると, TRIZを間違って理解し, 教えているという問題が少なくないと私は思う。著者自身から学んでいるのであれば, そのしごとに関わるすべてのことについて質問でき, それに対する信頼できる答えを聞くことができる。特に, そのしごとの背景になっている著者の経験について聞くことができる。もし, (著者自身でなく) 読んだり学んだりした先達から学ぶだけであったら, このような機会は持てないだろう。
もっとも, 著者がいつもその知識を学習者に効率よく伝えられるとは限らない。この効率にはさまざまの因子が関係する。発信者からの情報を生成・処理・記号化する際の正確さや形, そして, 環境と, 受信者の側の認知のレベルなどである。この点でも, 私は恵まれていた。アルトシュラー先生は非常に優れた教育者でもあった。学生として, 先生の言うことは明快で正確で, 複雑でなく, 冗長でもないことを見出した。だから, 聞き手は彼が言いたいことを正確に理解できた。いつも写真や図を使い, 先生の講義はよく準備されていて, 細部までよく分かった。たとえて言えば, あなたが二人の人から特別な料理に招かれたとしよう。最初の人は「大変おいしいですよ, どうぞ召し上がれ!」と言った。二番目の人は, おいしいとか召し上がれとかは言わずに, すぐにその中身を話し, あなたは非常に食べたくなってその話が終わる前に自分で取って食べ始めた。明らかに, あなたは二人目の人の方により動かされたのであり, その人はあなたにそうしたいという動機を与えたのである。
アルトシュラー先生は, 聞き手の種類やレベルに応じて, 講義をしたり質問に答えたりするのを柔軟にしていた。先生は表現や例やいろいろな分野からの話などを豊富にマスターしていたので, 聞き手とのうまい接点を容易に作り出した。さらに, 彼は, 創造性に関連した, 多くの面白く, ユーモアに富んだ物語や逸話を持っていたので, 教室にリラックスした雰囲気を作っていた。先生の話を聞いていると, TRIZを理論としてだけでなく, 先生の研究と理論構築のプロセスの物語をも聞いているのだと感じた。この点を書いていて, 私はトルストイの言を思い出した。「地球が丸いことを知るだけでなく, どのようにしてその結論を得たのかを知る方がもっと重要である」。アルトシュラー先生は聞き手の頭と心とを捉えることができたと言ってよい。彼は教師であると同時に芸術家であった。彼自身が, 人間の最善で最重要な特性, すなわち創造性, を学習者に伝える美のシンボルであった。おそらくこの理由で, 彼はソビエト連邦ではサイエンスフィクション作家としてもまた尊敬されているのである。
私の質問に対する先生の返答を通して, (それは,
授業中や, 休憩時間や, 先生のアパートを訪問したとき, そして特に私が卒業論文を書いていた期間のことであるが)
私は自分の知識が一層深くなるのを感じた。先生は私の疑問に答えるだけでなく,
私の考えをそれまで思ってもみなかったようなやり方でさらに発展させるように私をしむけた。それと同時に私は自分に厳しくなっていった。なぜなら,
質問に注意深く答えながら, 時には「この回答は, もうすでに学んだことから出てくるんだよ」と言われたからである。その目には,
「君ならその質問には自分で答えられるよ。まず自分で解いてみなさい。もっと自信を持ちなさい,
若者よ」と言っているようであった。それ以来, 私は自分が疑問に思ったことをまず自分の知識を使って答えを探すようにし,
先生や他の人達には答えが見つからなかったときだけ尋ねるようにした。この努力は私の自信を強め,
後になって学んだり研究したりするときの自立性を高めてくれた。
5. 私の卒業論文執筆におけるアルトシューラー先生の指導
私たち学生が卒業論文を書くにあたって, 自分たちの専攻分野に応じて適当な課題を選択するようにアルトシュラー先生は薦めてくれた。私の専攻分野が物理学であることを知っていて, 先生は私に「物理的効果を発明に使用する方法」というテーマを選択したらどうかと示唆された。一方, 私が心の中で長く温めてきたテーマは「創造的問題を解く際の心理的惰性について」であった。
すでに書いたように, 中学・高校生の頃に, 私は問題を解くときの自分自身の思考プロセスをよく検証していたが, 解くことができなかった問題も沢山あった。その答えを知ってから, [私が解けなかった理由が] 知識や能力が十分でなかったからではなく, 自分の知識を適用するのを邪魔するようなある種の力があったからだったように見えた。私はその力が憎かった。後になってから, 私はその力の名前を「心理的惰性」と呼ぶことを知った。心理的惰性について気にかけ, それのために何度も失敗し, それを本当に憎いと思っていたので, 私は, 先生の薦めとは違って, それを自分のテーマに選びたいと思った。私は先生にどう言えばよいか分からなかった (ベトナムでは先生には従うようにしつけられていたから)。ついに私は先生に率直に言おうと決心した。なぜなら, 私はまた, 「率直で, 勇気を持て」とも教えられていたのだから。[こう決心すると] 私の心は静まった。
私は, もし先生が賛成しなかったら, 先生の薦めに従うつもりでいた。私が [私のテーマ案を] 言ったとき, (私は先生が先生のアイデアに従うように私を説得するだろうと思っていたのに, ) 先生は意外にもすぐに賛成した。「心理的惰性のテーマが好きなら, いますぐにでも始めなさい。」と言われた。また同時に, 物理学を学んでいる私が心理学に移行するには, 予めいろいろな困難があるのを覚悟しておかねばならないことを話された。
私は書き上げた部分をなんでも先生に渡した。先生に時間があるときにはすぐにそれを議論したし, 時間がないときには, 先生は家で読んで後日私を呼ばれた。先生は論文のすべての部分にコメントされ, 沢山の質問をされた。例えば, 「このアイデアを実現するのにいままでどんな段階を経たのだろう? それはどの文献に発表されたのだろう? ほんとに原著のテキストを読んだのか? 関連した文献をみんな探したの? 君のデータは説得力があるかい? もっと説得力のあるデータはないの? この結論は急ぎすぎていないかね? 他に説明のしかたがないだろうか? 他の種類のアプローチとか考え方とかないだろうか? 他の人たちが心理的惰性を克服するのを助けるようなツールを創れないだろうか? あるいは少なくとも助言を与えられないだろうか? このテーマをさらに発展させるとするとどんな方向があるだろうか? ...」
実際, 先生と一緒に仕事をしている間中, 私は冷や汗ものであった。そして, 先生が研究に関して非常に厳格なことが分かった。先生の訓練や教育スタイルは, その後私が博士号のための論文を書いたときに非常に有益であった。私は, PhDと理学博士の学位を, 物理学分野の半磁性半導体の光学プロセスというテーマで, 1980年代にレニングラード (現在のサンクトペテルスブルグ) で取った。そして, 「心理的惰性」については, その後発展させて「システム惰性」とし, 創造性と技術革新に関するヨーロッパ会議において報告し, オランダで出版した。
私の卒業論文の最終原稿を, タイプ打ちする前にレビューしてもらうためにアルトシュラー先生に渡した。そのとき, 私は最初のページに, 「指導教授 (Scientific Supervisor): ゲンリッヒ・サウロビッチ・アルトシュラー」と書いた。彼はそれを見て, 削除の印をつけた。驚いている私に, 彼は微笑して言った。「君が [テーマを] 選んで, 自分で論文を完成させたんだ。私じゃない。君の仕事に君が責任を負わねばならないよ。」先生の言葉にはいくつか [に解釈できる] 意味があった。私の卒業論文は, 先生が自分の名前を入れるには十分良くなくて, 先生の名誉を損なわせると判断されたのかもしれなかった。あるいは, 先生は誠実で, 自分の役割は議論の相手, あるいは相談役であって, 指導教授などではないと判断されたのかもしれなかった。さらにまた, 学生の責任感を高めたいと思い, 学生たちが他人の名声に依存しないで, 科学的研究で自分自身の権威を作り上げていくべきだと思われたからかもしれなかった。ここで私は「兎の卒業論文」という話を思いだした。「兎は, その卒業論文で, 自分は狐だって, 狼だって, 熊だって食うことができると結論した。結局, その論文はパスした。理由は単純だった。兎の指導教授がライオンだったから。」
(少し寄り道になるが, もう少し書いておきたい。私は,
大学での教育と科学研究のために, ソビエト連邦に都合 3度, 合計で12年間留学した。一般的に言って,
教官や科学者たちは, 自分たちの研究上のアイデアをその学生たちに押しつけなかった。彼らは,
ときには別のアイデアを持っている, 学生たちとも好んで議論した。彼らは, 学生たちが自分たちの意見に同意しない場合でも,
その権威を使って学生たちがその研究上のアイデアを実現するのを邪魔しようとはしなかった。私の実験物理学の分野で,
私はそのような問題に10度ばかり出会ったことがある。議論ののちに, これらの教授たちがよく言ったのは,
「材料や装置はここにある。君がよいと思うように実験をしてみて, 結果をみよう。やってみなければ分からないのだから」。しかしながら,
教授たちは, アイデアを実現するための過程や方法, 得られたデータの検証, 結果の解釈,
そして結果の可能性に対する予測などについての高い要求を緩和しようとはしなかった。)
6. 卒業論文のタイプ打ち
私の卒業論文をアルトシュラー先生が最終チェックしている間, 私は, うれしさと心配との混ざった, 実に名状し難い状態にあった。興味を持っていたことをちょうど書き終わったのだから, うれしかった。心配は, 論文提出の規則に従って自分の論文をタイプしなければならないことだった。タイプ打ちはお金の面で問題だった。奨学金は月額わずか60ルーブルだったから。私は自分の支出を切り詰めることを計画していた。
私の卒業論文を大きな封筒に入れて私に返しながら, 先生は言った「いくつか図が欠けているから仕上げなさい。おめでとう。いい研究だよ!」彼は私と握手して, すぐに去っていった。学生寮に戻る道中, 私は先生が言われた意味が分からなかった。卒業論文の中の図はすべてきちんと描いていたのだから。どうしてそれをもう一度しなさいと言われたのだろう? 部屋に戻って, ドアも閉めずに, 私は大急ぎで封筒を開いた。私の卒業論文はすでにタイプ打ちされていて, 図のところだけが空白で「未完成」になっていた。つぎに会ったとき, 私は先生にお礼を言った。先生は言った「研究所のタイピストがちょうど新しい資料をタイプしていたので, ついでに彼女に頼んだのだよ」。先生は, 「ついでだったから」と言って, 話を替えた。「卒業論文を製本するのは自分でやるとよい, たった40頁だから, 製本所に頼んでお金をかけることはないよ」との助言だった。
先生がいろいろな場合に私を助けて下さっているのを私は悟った。私たちベトナム人学生たちが休憩時間に先生に話したり,
あるいは, 先生のアパートを訪問して, 先生や先生の奥様 (Mrs. Valentina
Nhikolaevna Zhurvliova) の質問に答えて, 生活や, 勉強や, 奨学金や, 寮のことなどを話したときに,
それをすべて覚えておられて, 機会があるたびに私たちを助けて下さったのである。お二人の言葉や,しぐさや行動から,
私たちは親のような温かい心配りをよく感じた。いろいろ世話をして下さり, 凍えるばかりの温度でどうすれば温かくできるか,
健康のために何を沢山食べれば良いか, 観光にはどこに行けばよいか...などと話してくださった。家庭的な雰囲気を楽しめればとよくそのアパートに招いてくださり,
帰る前には必ずディナーを一緒にするように言ってくださった。お二人とまた他の先生たちが親切にしてくださったので,
バクーでの6年間という長い留学生活での心が和むことであった。私たちは休暇といっても,
一度たりとも, 祖国に帰るお金をもっていなかったから。
7. ベトナムへの帰国
二つの卒業論文, 一つは大学での物理学のもの,
もう一つはPIICでの創造性に関するもの, がうまくパスして後に, 私はアルトシュラー先生のアパートに別れの挨拶に行った。卒業後ベトナムに帰国せねばならなかったからである。私はベトナムでの住所を先生に渡し,
帰着次第手紙を書きますと約束した。先生は沢山のタイプした紙を取り出し, それを私に与えて言われた。「これは私の本の原稿だ。持って行きなさい。出版されたら,
きっと一冊送ってあげよう。しかし, たとえ郵便がなくなっても, 君にはこの原稿がある。家族の皆さんによろしく。君の祖国は完全に再統合されると信じているよ」。私は,
「近いうちにまた, 物理学の博士課程学生として戻ってくるつもりです。アゼルバイジャン国立大学から推薦を受けていますから。それでも,
国の規則で, 祖国にまず帰らないといけないのです」と話した。ちょうど1973年の夏の初めであり,
パリでのベトナム平和条約が数ヶ月前に調印されたばかりのときであった。先生は約束を守られて,
私の所にきちんと届くようにと, 私の後からベトナムに帰国してきた学生に必要な材料を持たせて下さった。
8. レニングラードへの留学とレニングラードのTRIZスクール
1982年の末まで私は, ソビエト連邦でPhD課程(1)に留学することが許されなかった。4度試みたが, 多くの不合理な官僚主義的理由で妨げられた。沢山の要求がある煩わしい試験にパスして, ついに私はソビエト連邦に飛行機で行った。今回はレニングラード国立大学 (現サンクトペテルスブルグ) で学ぶことになり, バクーから数千キロ離れていた。1983年1月2日に, アルトシュラー先生から返事がきた。「あなたの手紙を, 他でもないレニングラードから貰って, 喜んでいます。そこはすばらしい所です。多数の教師と研究者がいるTRIZのスクールがあります。彼らは君にTRIZの多くの情報とその成果を話してくれるでしょう。レニングラードにいる人たちの住所をここに書いておきます」。
そして3人の人たちの氏名と住所と電話番号のリストが書いてあった。V.
M. Petrov(2), E. S. Zlotina(3),
およびV. V. Mitrofanov(4)であった。また,
「私から紹介されたと彼らに話しなさい。Zlotinaにはこのことを今日手紙します」と書いてあり,
さらにつぎのように続いていた。「今日, 君につぎの本を送りましょう。『Creativity
As An Exact Science』, 『The Wings for Icharus』, そして新しい資料『ARIZ-82B』です。レニングラードのTRIZ専門家たち(5)に手紙をしますので,
彼らが君にその他の資料をくれるでしょう。『Technology and Science』誌(6)はどうですか?
1983年分の講読をしましたか? バックナンバーはどうですか? 君は, 1981年の1〜9号および1982年の3〜5号と8号を読む必要があります」。そして先生は私に10年来の助言を思い出させ,
それでいて, 心理的惰性に関する私の興味に配慮してあった。「君の今回のソビエト連邦滞在の間に,
「発明に物理的効果を使用するための案内」に関して君がなにかをすることを私は期待しています。必要なら,
君の研究成果を発表するのに, 前記の雑誌がよいでしょう。あるいは, 心理学に関する君の研究でもいいですが...
新年おめでとう。レニングラード滞在中の君の健康と発展を心から祈ります」。
アルトシュラー先生の手紙を受け取って, 私はVolodia Petrov と Fira Zlotina
にコンタクトを取った。そして, 親しい友達になった。
9. バクーへの旅行: アルトシューラー先生との再会
1983年10月初旬に, 私はバクーに行き, 懐かしい所を尋ね, 懐かしい先生たちや同級生たちに会い, そして特にアルトシュラー先生の家族に会った。この旅行は私の中でいつまでも色あせない。特別に感慨深く, 忘れられないものであった。なぜかは分かって貰えるだろう。この10年の間に, 私自身が仕事に就き, 結婚して一人の子供を持ち, 日常生活と仕事の厳しい現実に直面してきた。その結果, 私は以前よりずっと経験豊富になっていた。だから今回は, アルトシュラー先生夫妻にお会いして, 多くの事柄について以前よりも深くかつ思慮深く話し合うことができた。その中には, 当時の基準からすると「デリケート」な事柄も含まれていた。私は, 多くの浮き沈みがあった先生の私的生活についても, TRIZに対する先生の意図についても, ずっと多くのことを知った。私は, 私がベトナムでしたこと (私は1977年にベトナムで最初のTRIZのコースを教えた) そしてTRIZについての私の意見などを話した。先生は私の仕事を積極的に激励し, 自分のアイデアや経験を話された。それらは私には大変貴重であった。私と意見が一致しないことがあっても, 先生は「そういうことなら, 君の方が正しいのだろう」と言われた。そして, TRIZその他に関する沢山の資料を下さった。雑誌や本やタイプ打ちの研究論文などがあった。
先生はバスの停留所まで私を見送られた。先生の背中は少し屈み始めており, 歩くのも少し遅いことに, 私は初めて気がついた。感動と愛が私を襲った。私は心の底から先生の健康を祈った。先生には永く永く生きて頂きたかった。
軽い旅行カバン一つで到着したのとは全く違って,
私がレニングラードに帰る飛行機では手荷物が重量超過であった。規則に従って20kg分は税を払う必要がなかったが,
先生たちや同級生たちからのプレゼントに対して, [飛行機代と?] 同額の荷物超過料金を支払わねばならなかった。アルトシュラー先生からの贈り物だけで10kgを越えていた。
10. その後の手紙による交流
先生やTRIZの仲間たち (特に, 新しい友達のVolodiaとFira) のおかげで, [その後もずっと] 私はTRIZの発展や新しい研究についていっていた(その中には, 後日に論文や本として出版される予定の原稿などをも含まれていた)。先生からの沢山の手紙をひもときなおしてみると, 先生がたびたび私に書いておられるものに出会う。「この資料について教えてほしい..., ところで, それをもう手に入れたかい? もしまだなら, 私が君に送ってあげよう」。あるいは, 「私が今日君に送っている小包には, つぎの資料が入っている。...」
私は一つのエピソードを思い出す。それは私の
3回目のソビエト連邦滞在のときで, (場所はまたレニングラードであった), 私は理学博士の学位のための研究をしていた。そして,
先生から送ってきた小包の中に2冊の本があるのに気がついた。それらの本は,
先生のかっての弟子たちが書いたもので, TRIZとTRIZの教え方に関するものであり,
その最初のぺージには, 著者たちからアルトシュラー先生への謝辞と謹呈の言葉がインキで書かれていた。すぐに私は電話で確認した。「ゲンリッヒ・サウロビッチ,
著者たちからあなたに贈呈された本を, あなたは私の所に間違って送ってこられました」。先生は笑って,
「いいや, 間違ったのではない。私よりも, 君に必要な本なんだよ」と言われた。電話のこちらで私がなにも言えないでいると,
私が困っているに違いないと思われたのであろう, つけ加えて言われた。「心配しなくてよい。私がその本を君に贈呈したと言っておくよ。ところで,
別の話だが....」
11. アルトシューラー先生からの最後の手紙と先生の逝去
ここに先生から貰った最後の手紙がある。1997年2月2日つけである。「1997年1月6日付けの手紙をいただきました。マレーシアへの教育のための旅行のレポートと写真を受け取りました。どうもありがとう。」
「この手紙にTRIZ 協会の案内状を同封します。この活動についてよく知っていてほしいと思っています。」
「TRIZは西側諸国への長い旅を始めたところです。多くのTRIZ関連の研究所や学校が作られ,
TRIZの翻訳が進行中です。『And Suddenly the Inventor Appeared』の本が英語に訳され
(米国で) ちょうど印刷されたところです。入手次第, 君に送りましょう。もっと度々手紙を下さい。お元気で!」
「追伸: 2冊の本『How to Become a Genius』と『The
Corner of Attack』を入手しましたか?」
それ以後, 私は先生に数回手紙を出したけれども, 一度も手紙を貰わなかった。私は, 前回のように (家族でバクーからぺトロザボツクに住まいを移されたように) 新しい住所に引っ越しされたのかもしれないと思った。 しかし, もしかしたら, ... ときどき私は自分の心があの恐ろしいことにはまっていくのを知って身震いした。... 1998年の末に, 私たちの Center for Scientific and Technical Creativity (CSTC) にインタネットが繋がった。アメリカのTRIZのウェブサイト上で, 私はその悲しいニュースを知った。先生が1998年9月24日に長い病気の後に逝去されていたのである。
その悲報を知って, 私はすぐにアルトシュラー先生の家族にお悔やみのFAXを送り,
TRIZの人々みんなが受けた大きな損失を共有した。そして私は, 夫人, Mrs. Valentina
Nhikolaevna Zhurvliovaに電話して, 先生についていろいろ話し, 先生の懐かしい思い出を夫人と共有した。その電話の会話の中で,
夫人が何度か繰り返して言った。「あなたたちベトナムからの学生たちは, 彼と長い間一緒に勉強できて大変幸運だった。多くのTRIZ専門家たちはあのような機会を持てなかったのだから。」
12. 先生に師事して
先生に師事していたとき, 先生と研究をし, 手紙のやり取りを通じて, 私は自分自身を向上させる非常に良い機会に恵まれたと, しばしば思います。学習するのに最も効率の良い方法の一つは, 模倣すること, 他の例に進んで従うことだと, 言われています。このような欲求は, 学習者のニーズと内からの強い思いによって自然に出てくるものです。子供が話すことを家庭で覚える典型的な例を考えてみると, 子供たちは生活し, 遊び, 自然にコミュニケーションをしていて, 先生から学んでいるとか養育の効果を受容しているとかの意識はありません。それでも, 話すことを家族のメンバーから非常に速く, 日に日に学んでいくのです。もしあなたが, 称賛し, 愛する人, そしていろいろな点であなたよりも優れた人たちと幸運にも常時接触できるならば, その人たちにあなたを教えようという意図はなく, あなた自身も学ぶという意図がなくても, あなたはその人たちから, あたかも感染をうけるように, 多くを学ぶでしょう。 これは自然で効果的な学び方だから, あなたが学んだものは消化されてあなた自身の血や肉になるでしょう。それは, 借りてくるプロセスではないのです。
私が先生について (直接に, あるいはTRIZの仲間やその他の人たちの記憶を通して)
知っていることを思い返していると, 彼が実在の人でありそして同時に実在の人でないのだという考えが,
ときとして私の心に湧いてきます。 かれは, 私の先生として具体的な肉体をもった実在であった。そして,
彼は, 多くの偉大な名前が書かれたページから私が度々読んだので飛び出してきた伝説の英雄たちのように,
実在ではないのだ。彼らの多くは困難に出会い, 悪の力に砕かれさえしたが, その努力と忍耐と強い意思と,
そしてもちろんその才能とによって, 人類の繁栄のために偉大な貢献をなし遂げたのだ。私はこれらのことは知っていたが,
アルトシュラー先生に会うまでは, そのような人々から学ぶとか一緒に働くとかはいうまでもなく,
そのような人々に接触する機会もなかった。
13. アルトシューラー先生の生涯
アルトシュラー先生の生涯は, 実に, その母の胎内にいたときから, 不運なものでした。先生の父と母が結婚したのは, バクーのアゼルバイジャン・ニュース社で一緒に働いていたときでした (アゼルバイジャンはソビエト連邦の15の共和国の一つ)。父はこの結婚の前にすでに一度結婚歴がありました。そのため, 母方の祖母がこの結婚に非常に激しく反対したのです。そのため, 両親はやむなくタシュケント (ウズベキスタン共和国の首都) に移り, 1926年10月15日に先生が生まれました。1928年に一家はバクーに戻りましたが, 母方の親戚たちは冷たい態度でした。
先生の両親は新聞社に勤めていました。だから, その家にはもちろん一杯本があって, 幼いころから本に興味を持ちました。彼が行った学校には, プロフェッショナルで献身的な先生たちが沢山いました。これが彼に, 新しいことを探し, 発明への好奇心を起こさせたのです。彼が最初の特許を得たのは, まだ中学校の生徒だったときです [14才]。
ソビエト連邦は1941年にファシスト [ドイツ] の攻撃を受けました。彼が15才のときです。中学校を出て, 軍隊に入り, 幼年軍に属しました。それから, 空軍の学校で訓練を受けるように推薦されました。その訓練を修了したと同時に, 戦争が終わりました。彼は, バクーにあったPatent Office of Caspian Fleet (カスピ海艦隊特許室) の海軍特許審査員の職に申し込みました。ここで, 若い時からの特許への関心と職務の必要とが結びついたのです。彼は, 特許情報を調べ, 発明の書類を審査し, 発明者たちに助言をしました。1946年に, TRIZを構築する道への最初の一歩を踏み出しました。 彼にとって, 一般の多くの人々が科学的に体系的に発明できるように助けたいという欲求が, 自分のもともとの目的, すなわち, 自分で沢山の特許を取る方法, よりも強くなってきたのです。
1949年に, 彼と同僚のR. Shapiro氏とで, スターリンあてに直接に 30ぺージの手紙を書きました。その執筆に6ヶ月かけました。自分たちの発明を書いた上に, ソビエトの特許システムと, ソビエト連邦での創造的・発明的な活動を改善する多くの手段を提案しました。その結果, 彼と友人とは, 誤ってテロリズムの科をかけられ, 1950年に逮捕され, 25年間の懲役を宣告されました。彼は, 氷と雪の極寒の地, Vortukaに炭鉱夫として追放されました。彼が労働収容所にいる間に, 父が亡くなった。母は彼の特赦を何回も申請したけれども, 成功しなかった。落胆した母は, 1953年に自殺した。スターリンは同年に死んだ。それで多くの宣告が再審査された。1954年に, 彼と友人 (Shapiro氏)が釈放された。バクーに戻ったが, その職場を何回も変わらざるを得なかった。職を申請しても, 元収容囚は歓迎されなかったからである。とうとう彼は自営することを決心した。フリーランスとして仕事をしたのである。新聞への原稿を書き, その後, Genrikh Altovというペンネームでサイエンス・フィクションを書いた。稼いだわずかのお金で, 1946年に始めたアイデアを発展させる時間を持ったのである。このような彼の生活はときどき安心ではなかった。 彼は, 自分が何年もかけて集め, 子供のように大事にしてきた蔵書を, 古本屋に売らねばならなかった。
彼とShapiroとの研究の最初の成果, TRIZの基礎を築いた論文, は "Psychological Issues"誌に発表された (1956年 6号, pp. 37-49)。その後, Shapiro氏はイスラエルに移住した。そのため, アルトシュラー先生だけがTRIZの研究を続けた。1958年から, 彼はセミナーを通じてTRIZを広めはじめた。最初はバクーで, ついでその他の都市, 例えば, モスクワ, Donhetsk, Tambov, Ryazan, ...などで。これらのセミナーが成功したので, 1959から1967年まで 9年以上, 彼は Central Council of the All Union Association of Inventors and Rationalizators (ロシア語略称はVOIR) に 沢山の提案を含む手紙を書き続けた。しかし, その提案が規制内にあり, VOIRの基準を満たしているにも関わらず, なんらの肯定的な応答が得られなかった。1968年になって, VOIRの中央委員会の会長イワノフが重い病気になった。そこで, 中央委員会の書記V. N. Tiurinが, 臨時に代行した。そのときに, 状況は暗闇から脱したように見えた。Public Research Laboratory of Inventing Methods (OLMI) (発明法公共研究所) が1969年に開かれ, ついで, Public Institute of Inventive Creativity (AzOIIT) がバクーで1971年に作られた。1972年に, VOIRの中央委員会の新しい会長に選出されたSofanovは, 古い政策に戻り, アルトシュラーの活動に対して多くの問題を引き起こした。その緊張は1974年に最高調に達した。あるとき, アルトシュラー先生は, ポーランド閣僚会議に所属する管理資格強化学校からの何人かの幹部をAzOIITでの学習に受け入れたが, VOIRの中央委員会の正式許可を取っていなかった。それでSofanovがOLMIを閉鎖した。その決定に抗議するために, アルトシュラーはAzOIITを辞職した。
それ以後, TRIZの研究と普及は完全にボランティアたちの興味とやる気に依存することになった。彼らは, アルトシュラー先生の指導のもとに, 金銭的な見返りを期待せず, 政府やその他の協会からの何の法的な財政援助もなしに, これをした。彼とその弟子たちとは, 都市から都市へと「遊牧民」のように渡り歩いて, TRIZのクラスを開いた。そして, 彼らは, TRIZグループを作り, センターを作り, クラブやカルチュラルハウスなどで開く学校を作っていった...。1980年代になると, ソビエト連邦の数百の都市でそのような活動が存在するようになった。最初, 1950年代ではTRIZを教えたのは一人だけだった。1968年には他に3人がTRIZを教え始め, 1979年までには教える人たちが200人以上いた。その後, TRIZを特別の主題とした学会が開催され, 1980年, 1982年, 1985年, 1987年, そして1988年と参加者がどんどん増えていった。TRIZ協会 (The TRIZ Association) が1989年に創立され, The Journal of TRIZ が1990年に創刊された。TRIZの繁栄は, 国家発明委員会 (Goskomizobretenie) とVOIRに, 発明と創造性の方法の教育システムを援助するという決定をさせるに至った (アルトシュラーの意見では, この決定は20年早くにされるべきであった)。
冷戦が終了するやいなや, ソビエト連邦の経済は市場経済に移行した。そのため, TRIZの開発は別の新しい有利さと, また同時に不利な点に直面した。東西の情報交換が以前よりもよくなった結果, いくつかの先進国がTRIZを発見し, それを速やかに自国に迎え入れた。いまや, TRIZは国際的な運動となり, TRIZの用語は国際的な用語となった。
不運にも, TRIZが勝利したときに, アルトシュラー先生は,
彼を直接あるいは間接に知る多くの人々の愛と尊敬の中で, 永久に逝かれた。少なくとも一つだけ,
彼にも, またすべてのTRIZに関わるものたちにも慰めであったと私が思うのは,
わが子のように愛されたTRIZが国際的に認知されていくのを, アルトシュラー先生自身が目に止めておられたことであった。
14. アルトシューラー先生の事跡の意義
ベトナムの格言がある。 「粉があってはじめて, あなたはケーキを作れる。何もないところから, すべてのものを作る人が本当の天才である」。 実際, アルトシュラー先生はなにもないところから, 困難な状況の中で, 全く新しい運動を創造したのである。政府やその他の組織からの財政的援助を全く受けずに, 彼はしごとをした。その当時, ソビエト連邦は市場経済でなかったことを思い出してほしい。その経済はただ二つの構成要素からできていた。国家と集団とである。それらは厳格にかつ直接に政府のもとに支配されていた。だから, すべての科学・技術の研究は, 国家が管轄する研究所と大学に集中されていた。当時, 彼はいかなる組織のスタッフにも属していなかった。そのために, 彼はパスポートを得ることができず, 海外に行って国際学会でTRIZについて報告をすることができなかった。ペレストロイカ期に, パスポートの手続きが変わったけれども, 彼の健康が海外への旅行を許さなかった。つまり, 彼は, 外国に出ること, 隣接の社会主義国に行くことさえ, 死ぬまで機会がなかった。彼はまた, 学位 (Kandidat Naukの学位, Ph.D.) を持っていなかった。それでも彼は, 創造性と発明の分野で, 国家の科学者たちが受け入れていたのとは違った方法を発明したのである。国家の研究所や大学で働いていたほとんどすべての科学者たちの目には, 彼は異端者であり, そのアイデアをプロフェッショナルにまで高められない無能な者であった。さらに, その他にもいろいろな差別があり, その中にはデリケートなものも含んでいた。
アルトシュラー先生とその事跡を考えてみると,
彼が自分で発見した理想を忍耐強く追求し, 弟子や学生たちから深い愛と尊敬をかちとった理由として,
つぎの点をあげることができると思う。
彼を知っている人は誰でも, 彼の仕事の能力に感嘆する。彼は一つの研究所全体と同じだけの仕事をしたと,
ある人たちは思っている。創造性と技術革新に関する彼の厖大な量の著書と記事,
およびサイエンスフィクションの物語は, 氷山の一角にすぎない。彼の仕事の能力を示す例として,
彼の小さな行為, 手紙を書くことと読むこと, を話しておこう。1974年から1986年の間,
彼は新聞「The Truth for Children」に協力し, 特別コラム「発明? 大変簡単で,
大変複雑」を執筆し, TRIZを若い人たちに紹介していた。数編が出たのち, 彼は数百の応答を受け取った。その後,
毎号6千から8千の手紙が彼の所にきた。この仕事に関係する手紙だけで, 彼は22,000通の手紙を読んだ。TRIZの運動を指導するために,
彼は一日当たり少なくとも20通の手紙に返事を書き, さまざまの都市に住んでいる学生たちに送らねばならなかった。
彼の大きな愛が, さまざまな障壁や障害を克服するのを助け, また, 彼自身の苦しみを静かにコントロールするのを助けた。彼の父が死んだ。彼の母は, 彼が懲役に服している間に自殺した。1985年に彼の一人息子Evghenhi (愛称はGienhia, 私よりも約10才年下) が急死した。病院での盲腸手術のミスによるものであった。家族には, 生まれたばかりの孫娘Yunaが遺された。
彼の生涯の多くの艱難に関わらず, アルトシュラー先生はいくつもの点で幸運であった。彼には,忠実な妻, Mrs. Valentina Nhikolaevna, がいて, 何でも共有することのできる真の友であった。そしてまた, 友人たち, 弟子たち, 追随者たち, 学生たちがいた。それらは普通で当然のことと見えるかもしれないが, 実際には, 多くの人々にとって得難い人々なのである。
一つのベトナムの格言がある。「先生の助けがなければ, 成功することはできない」。
私たちはみんな自分の先生たちを持っており, 育ててもらったことに感謝している。実際, 私にも多くの先生たちがある。しかしながら, アルトシュラー先生が, 本当に最も深い印象を私に与えてくださった。先生の学生であったのは本当に幸運であった。
あなたは尋ねるかもしれない。「学生としてあなたは,
彼からなにを学んだのか?」と。私の答えはこうである。「私はアルトシュラー先生からわずかを学んだにすぎない。しかし,
そのわずかなものが私には大きなことであった。なぜなら, それが私の生涯を,
それ以前と比べて, あらゆる面で変えたのだから」。
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現著者注:
(1) ソビエト連邦には二つの博士号の学位がある。第一は「Kandidat Nauk (学術候補)」であり, Doctor of Philosophy (D. Ph. または, Ph. D.) とほぼ同等である。第二のものは「Doktor Nauk」と呼ばれ, 最高の学位である。英語では, 「Doctor of Science (D. Sc. または Sc. D.)」と訳される。後者の学位は, 第一の学位を持つ者が, 新しい研究方向を開いたり, あるいは, ある分野での高度に一般的な問題を解決したときに, その論文に対して与えられる。
(2) V. M. Petrov: 1990年代のはじめに, イスラエルに移住した。現在, イスラエルTRIZ協会の会長である。
(3) E. S. Zlotina: 1990年代のはじめに, イスラエルに移住した。1998年12月8日に癌のために死去した。
(4) V. V. Mitrofanov: 当時は, People University of Scientific and Techninal Creativity in Leningrad の校長。現在はサンクトペテルスブルグにあるInternational TRIZ Association の会長である。
(5) TRIZniks: TRIZの分野で働く人々をいう。
(6) "Technology
and Science"誌 ("Tekhnhika i Nauka") は1894年に創刊され, モスクワで発行されている月刊誌で,
科学・技術・製造の分野を専門とする。ソビエト時代には, この雑誌は All Union
Council of Science and Technology Associations が直接運営していた。
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