TRIZフォーラム: 通信: ロシア旅行報告
TRIZの母国を訪ねて (1999年8月, ロシア&白ロシア訪問記) 
     中  川 徹 (大阪学院大学)
  (英文: 1999年 8月23日, 改訂99. 9. 4 )
    和文:  1999年 9月 9日 [写真挿入: 99. 9.20]
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私は,  8月 5日〜20日の 2週間, ロシアと白ロシアを訪問し, 多くのTRIZ関係者と個人的に会ってきました。本稿では, この旅行で得た情報をまとめて, 日本および世界の読者の方々に伝えたいと思っています。

この旅行を計画した意図, TRIZの母国で, 今までどのようにTRIZが発展してきて, さらにいまどのように拡張されつつあるのかを学び, 日本へのTRIZの導入の参考にしようということでした。現在はTRIZの文献が入ってくるチャネルが言語の壁のために非常に限られている状況ですから, この目的のためには,TRIZの母国のエキスパートたちに直接に会って話すことが必要であると考えました。

今回の旅行ルートは, 東京  →  モスクワ  →  ミンスク  →  サンクトペテルブルグ→  ペトロザボーツク → モスクワ → 東京でした(東京・モスクワ間は飛行機,その他は夜行寝台列車で移動)。この 4つの都市で, つぎのようなTRIZエキスパートたちに会い, 討論をしてきました (会った順):

ミンスク (白ロシア) にて:                           
  Mr. Dmitry Kucheravy   <a-net@usa.net>
  Mr. Peter Chuksin     <Peter.Chucksin@usa.net>
  Mr. Nikolai Shpakovsky  <Nick.Sh@usa.net>
  Mr. Anton G. Karlov  (Sevastolol, ウクライナ)   <karlant@bioe.iuf.net>
  Ms. Svetlana Kucheva
  Ms. Anna Korzum
  Mr. Sergey Vinogradov
  Mr. Victor I. Timohov   (Gomel, 白ロシア)

サンクトペテルブルグ (ロシア) にて:
  Mr. Volyuslav V. Mitrofanov,
  Mr. Nick Klementyev <n21205@neva.spb.ru>
  Ms. Safina Elena   <inn@mail.admiral.ru>
  Mr. Sergey Faer <triz@faer.spb.su>
  Ms. Valentina V. Kryachko

ペトロザボーツク (ロシア) にて:
  Mr. Michael S. Rubin    <business@sampo.karelia.ru>,
  Ms. Natasha Rubina,
  Ms. Alla Nesterenko <alla_triz@onego.ru>
  Mr. A. B. Selioutski
  Ms. Valentina N. Zhuravlyova (アルトシュラー夫人)  <genrich@karelia.ru>
  Ms. Larissa Komarcheva   (アルトシュラーの長男の夫人)

モスクワ (ロシア) にて:
  Ms. Miloslava M. Zinovkina
  Mr. Rifkat T. Gareev  <mkc@msiu.ru>
 

これらの人々が,私に (また, いろいろなときに同席させてもらった妻雅子に)親切にして下さり, 多くの貴重な情報を教えて下さったことに, 大変感謝しています。これ以外にも,ロシア語と英語の間の通訳, 討論参加者, ガイド, 運転者などとして,沢山の方々が支援して下さいました。旅行の計画にあたっては, ミンスクTRIZスクールのNikolai Khomenko氏と, TRIZアルトシュラー・スティテュートのLev Shulyak氏とが, これらのホストの人達を私に紹介して下さいました。お名前を記さなかった人々を含めて, これらの多くの人達に心から感謝いたします。

この旅行中のいくつかの機会に, 私は「日本におけるTRIZと一日本人から見たTRIZ」という題で非公式なプレゼンテーションをしました。その要点は以下のようです。

(a)  TRIZが日本に紹介されてから, まだ 2年ないし 3年しか経っていない。企業技術者でTRIZに関心をもつ人達が増えてきているが, TRIZを理解し実地の問題に適用するにはまだまだ困難がある。

(b)   TRIZは次の 3つの側面を一体化した体系であると, 私は理解している。
  ・  方法論(a)   =  科学技術に対する新しい見方
  ・  方法論(b)   =  問題解決のための思考法
  ・  知識ベース  =  方法論(a) を実現するための事例集
この体系はアルトシュラーとその協力者/ 学生たちによって旧ソ連においてはすでによく確立されている。しかし,西側諸国にとっては新しいものであり, それは技術, 産業, 教育などに非常に重要な影響を今後与えるであろう。

(c) 世界中で新規にTRIZを学ぶ極めて多くの技術者たちに適用可能になるためには,TRIZの現代化が必要である。インベンションマシン社やアイディエーションインタナショナル社などをはじめ, いろいろな現代化のアプローチがある中で, 私自身はフォード社のUSITのアプローチが重要であると思っている。USITはTRIZを大幅に簡略化したものである。

(d) TRIZを日本に導入するには,企業内の高度な教育を受けた技術者たちを主たる対象にするべきだと, 私は思う。そして, ゆっくりだが着実な導入の戦略をとるべきだと思う。この戦略は, 企業内に先駆的なTRIZ実践者を育成し, そしてTRIZの信頼できる情報を共有することがポイントである。

(e) TRIZが技術以外のいろいろな分野に適用範囲を拡大してきていることを知っている。そのような新分野で, TRIZのどのような面が使われ, また拡張されてきているかを知りたい。

(f) TRIZの教育, あるいはTRIZの精神をもった教育が望ましいと思う。どのような教育活動が行われているか? また, 若い/ 幼い子供たちにTRIZをどのように教えることができるか?

以上の私のプレゼンテーションは, ロシア/ 白ロシアのTRIZ専門家たちに大部分が受け入れられたけれども, いくつかの部分はいろいろな議論を呼び起こした。その主要な原因は, ロシア/ 白ロシアと日本におけるTRIZの受容の段階の大きな差によるものであろう。これらの議論は以下に記述する。
 

すべての訪問先で, 人々は親切で, 彼らの話しをし, 私の質問に答え, 重要な問題の議論をし, 彼らのオリジナルな文献をくれたりした。ここで得た情報と議論の内容について, 以下にトピックスごとにまとめる。また, 旅行中に入手した文献のリストをこのレポートの末尾に示す。それらの文献はレポート本文中では[  ]で括って示す。もし読者が本レポート中に誤りや誤解を見つけられたなら, ぜひ私に教えてほしい。後日誤りを訂正したいと思う。
 
 
本ページの先頭 中川のプレゼンテーション 1. ミンスクのスクール 2.サンクトペテルブルグのスクール 3. モスクワのセンタ 4. アルトシュラーの生涯 5.アルトシュラーの家族 6.TRIZのトレーニング
7. 技術分野のTRIZ 8. 理学・生物学への拡張 9. サービス・ビジネスへの拡張 10. 子供へのTRIZ教育 11. 国際TRIZ協会 12. 言葉の壁と翻訳の必要 13.旅行者としての印象 入手文献リスト

(1) ミンスクTRIZ技術センタの活動 (Kucheravy 氏談)

 ミンスクTRIZスクールは, Valerie Tsourikov 氏 (現在インベンションマシン社会長) によって1976年に無線電子大学において始められ, すぐに全市に知られるものになった。1983年には「ジョナサン・リビングストンプロジェクト」を興し, 学生・生徒を創造的人格に教育するための研究を開始した。また, 1987年には「インベンションマシンプロジェクト」を開始した。このインベンションマシンプロジェクトは1991年に米国市場を求めて移った。 1985年からNikolai Khomenko氏がミンスクTRIZスクールのリーダをしている。

ミンスクTRIZスクール (現在の名称はミンスクTRIZ技術センタ) は「開かれた組織」である。すなわち, 有志の個人が集まった緩い・開かれた組織である。メンバはそれぞれTRIZに多少とも関連した仕事を持っており, 折にふれて共同作業をする。このWWW サイトは, 1997年11月以来, 毎週月曜日に更新されており (Kucheravy 氏担当),  ロシア語での最も活発な情報源・文書館として知られている。参照:   http://www.triz.minsk.by/   またミラーサイト http://www.trizminsk.org/
 
 
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ミンスクにて: (左から) Ms. A. Korzum, Mr. N. Shpakovsky, Mr. P. Chuksin, Ms. S. Kucheva,
Mr. A. Karlov, Mr. D. Kucheravy

(2) サンクトペテルブルグのTRIZスクール ( Mitrofanov  氏談)

1969年のこと, Mitrofanov氏はたまたま新聞受けに入ってきた (いつもは取っていない) 新聞で, バクーのアルトシュラーの学校の記事を見かけた。その見出しは「エジソンをつくる教育」であった。その記事に興味を惹かれ, 探し回ってようやくアルトシュラーの教科書『発明のアルゴリズム(Algorithm of Invention)』を購入した。それに感嘆して, 三度読み返した。当時彼は大規模な半導体工場"Svetlana"の研究所のチーフをしており, 解決したい技術課題を沢山抱えており, アルトシュラーの本は一つの希望を彼に与えた。

最初に, 工場当局から最優秀の人達だと推薦され, 青年共産党 (コムソモール) の20人の青年たちを集めてセミナーをした。彼らは, 彼の話を喜んで聞いたけれども, 解きたい問題をもっていなかった。彼はつぎに, 「いかにして発明するか」という 3日間セミナーを研究所の50人の従業員にした。しかし, 工場の人々は新しい技法を受け入れなかった。彼はさらに上の上司の所に行き, 今度は150 人の技術者たち, 高度な教育を受けた上級の技術者たちに, もう一度セミナーをすることが許された。しかし, そのセミナーは効果がなかった。彼らには時間がなかったからである。

1970年に, Vyborgsky 文化センタの所長の助言で, Mitrofanov氏は新しいイブニング・スクールを開講した。これが成功だった。20人の優れた人達が自主的に集まってきた。 (現在イスラエルにいる) Mr. Vladimir Petrov もその第一期生の一人である。

ある新聞がこのクラスのことを記事にし, アルトシュラーがその記事を読んだ。      Mitrofanov氏はアルトシュラーから手紙をもらったが, その手紙は半分肯定的で半分批判的であった。そしてすぐに, アルトシュラーから一人の人が送られてきて, Mitrofanov氏のことをよく知りたいというので, 丸 2日間話しあった。この話し合いの後, アルトシュラーから 2通目の手紙を受け取った。Mitrofanov氏のクラスを真正のTRIZスクールとして承認したものであった。その手紙と一緒に, 厚さ 1メートルにもなる資料 (講義資料, 本, 推薦事項など) が届いた。また同時に,スクールの活動を週または月に 1回報告するように求められた。

 1年後に, TRIZスクールは中断せざるをえなくなった。建物の長期の改修工事の期間, 文化センタが閉鎖されることになったからである。

この頃, 公的なソビエト発明家・開発技術者協会 ("VOIR") がMitrofanov氏のイブニング・スクールに異議を唱えた。新しいTRIZの方法論が彼らの通常のやり方よりも随分良かったからである。

このようにしてTRIZへの公的なサポートが得られなくなった。そして, かろうじてKamnev教授の助力で, TRIZイブニング・スクールは機械工場の一室で再出発し,  (残念なことにそのすぐ後で教授は亡くなった) そこで 3年間続いた。

1973年になって正規の講義が開始され, 優れた学生たちが集まってきた。それは 2年間の教育課程であった。卒業生の中からTRIZスクールの教師が育ってきた。その中には,Mr. Litvin, Mr. Boris Zlotin, Mr. Vladimir Petrov などがいた。

このようにしてサンクトペテルブルグのTRIZスクールは, TRIZ共同体の中で重要な役割を果たすようになった。1974年以来毎年開かれているペトロザボーツクのTRIZ会議で, あるときには, 200 人の参加者のうちの 70 人がサンクトペテルブルグの者であった。

ペレストロイカの時代以降, サンクトペテルブルグの多くのTRIZ専門家が国外に出たり, あるいは自分たちで企業を興したりした。

現在では, サンクトペテルブルグのTRIZスクールには60〜70人の在籍者がある (最高時には 200人だった) 。TRIZスクールは, 以前と同じようにイブニングスクールとして運営されており, 大学生だけでなく, 多くの企業人たちが学びにきている。トレーニングは厳しく, 卒業証書を受け取る学生は毎年20人程度に限られている( トレーニングのやり方は後述) 。
 
 
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サンクトペテルブルグにて: (左から) Mr. N. Klementuev, 中川, Mr. V. Mitrofanov, TRIZスクールの若い卒業生達

(3) モスクワのTRIZセンタ (Ms. Zinovkina, Mr. Gareev 談)[25]

モスクワでは, モスクワ国立工業大学の工学創造性研究教育大学間共同センタを訪問した。今回の旅行で訪問した中では最も公的に組織されたTRIZスクールであった。 Ms. Zinovkina は, アルトシュラーのバクーのTRIZスクールを卒業して, 1972年にこの教育活動を開始したという。

このセンタは, ロシア全国の15の大学・研究所からなるネットワークの中核である。ここでは, TRIZの「継続教育 (Continuing Education) 」のプログラムが運営されている。このプログラムは, すべてのレベルの学校での教育とその教師の養成・研修の体系である。幼稚園, 小学校, 中学・高校, 職業学校 (ロシアのシステムではcollegesと呼ぶ),  大学/ 研究所, および大学卒業の技術者たちの教育を含んでいる。すべてのコース教材はすでに確立されていて, 学生たちの教育に定常的に使われている。

このセンタには 3種類の学生がいる。(a) 大学の学生で, いろいろな学問分野を専門として学ぶとともに, TRIZを並行して学ぶもの, (b) 教師志望の大学生または教師で, いろいろなレベルの学校でTRIZの考え方を教えたいと思っているもの, (c) 産業界の技術者 (またはその他の社会人) で, TRIZを学んで使いたいと思っている者である。センタはこれらの各種の学生たちを定常的に教育している。

(4) アルトシュラーの生涯とTRIZへの献身 (Ms. Zhuravlyova(アルトシュラー夫人) 談,  Mr. Rubin談)

[ アルトシュラー夫人によると, アルトシュラーはその晩年に自伝を録音テープに録音したという。ただ, そのテープには,強制収容所での生活以前は含まれていない。本人がやはりあまり話したがらなかったとのこと。]
 
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ペテロザボーツクにて:  アルトシュラー家の客間で夫人の話を聴く (真ん中は通訳)

TRIZの創始者Mr. Genrich Saulovich Altshullerは, 1926年10月15日にタシュケントでジャーナリストの父の家庭に生まれた。かれは, バクーの石油・化学研究所を卒業した。 (彼はそれ以上の学位を受けなかったけれども, 多くの人々は彼を教授と同様に思っていた) 。少年時代から発明の才能を持っていた。

1946年に, アルトシュラーはバクーにある海軍の創造部 (Department of Creating) で働いており, 人々の問題解決を助けていた。この職務の中で, 彼は多数の発明家について学び, 新しい発明方法の着想を得た。それは技術的矛盾を解決するためのステップを含むものであった。そこで, 彼と Mr. R. V. Shapiroとは, スターリンに手紙を送り, 発明のプロセスを彼らの新しい技術でもっと改良するべきだと提案した。

1949年に彼とMr. Shapiro は逮捕され, 強制収容所に送られた。収容所において, 彼はさまざまな分野の多くの優れた科学者に会い, 彼らの話を聞いた (アルトシュラー一人に対する講義のようなもの) 。アルトシュラーは彼らの言うことを理解し記憶するように懸命に学んだ。そこには筆記道具は全くなかったのである。このようにしてかれは広い範囲の知識を学び, 彼自身のTRIZ方法論をより強固なものにした。彼は厳寒の屋外での労働を拒否した。このことはもちろん収容所の管理者とも, 収容所内の他の人々とも軋轢を引き起こした。アルトシュラーは彼らを宥めるユニークな方法を見つけ出した。それは彼らに, 空想科学小説 (SF) の形で興味深い話をすることであった。かれはさまざまなSFのストーリを創り出し, 上手な話し手になった。

スターリンの死後, 1954年にアルトシュラーは収容所から解放されたが, 職はなかった。そこで, H. AltovのペンネームでSF小説を書き, お金を稼いだ。その金で, 彼はあちらこちらに旅行して, セミナーをし, 発明のためのTRIZ方法論について話した。SFなどのお金が入ると, 彼はそのほとんどをTRIZセミナーの費用にあてた。セミナーでは料金をとることをしなかった。 (アルトシュラーの全生涯を通じて, 学生や卒業生などからお金や寄付などを受け取ることをせず, 逆に参考文献などをどんどん贈ったという。)

1956年に, アルトシュラーはTRIZについての初めての論文を (Mr. Shapiro を共著者として) 発表した。「創造性の心理学について」と題するものであった。彼はこの頃しばらく, 建設省の仕事をした。

1961年に, 初めての著書『発明の学び方』を出版した。この本は 5万部印刷され, 完売した。かれはさらにいろいろなところに出かけて, TRIZのセミナーをし, その仕事を深めた。

1970年になって, アルトシュラーはバクーに発明の方法論の研究所を開くことを許された。それは, 「アゼルバイジャン発明創造性研究所(Azerbajan Institute of Inventive Creativity) 」と呼ばれた。それは公的教育制度の研究所ではなく, 日曜日ごとに開かれる学校であった。技術者や大学生たちがボランティアベースで来て, 自分たちの通常の業務や大学での課程の他にTRIZを学んだ。トレーニングは厳しく, 沢山の宿題があって, 学生たちはその課題を解き, そして卒業のためには自分で発明をしなければならなかった。それは 2年間のコースであった。優れた学生たちが多数集まり, 第一世代のTRIZエキスパートに育っていった。

この時期に, アルトシュラーは『発明のアルゴリズム』という本を出版している (第一版1969年, 第二版1973年) 。この本は, ARIIZ-71, 40の発明の原理, 技術的矛盾の解消のマトリクスなどを記載している。1973年にはテレビ番組としてビデオテープが作られ, アルトシュラーのクラスを生き生きと記録している。

ところが, 1974年になると, 当局はアルトシュラーのTRIZスクールを不許可にした。アルトシュラーは定常的な講義を止めざるをえなくなり, 彼の学生たちの大部分はそれぞれ自分の道を探して離れていった。この結果, 第一世代のTRIZ専門家たちが, 旧ソビエト連邦とその周辺諸国のいろいろな所に分散した。彼らはTRIZエキスパートとしてのそれぞれの人生を歩みはじめ, その多くのものは自分で弟子たちを教育してTRIZ専門家のグループを形成していった。アルトシュラーはまたあちこちに旅行をしてTRIZのセミナーをした。モスクワ, バクー, ノボシビルスク, その他の都市である。彼は, 弟子たちから, そして弟子の弟子たちから多数の手紙を受け取り, そのすべてに問題解決の方法論に関する詳細な討論を書いて, 返事を出した。彼の著作は多数の国の言語に翻訳された。その中には, ブルガリア語, フィンランド語, ドイツ語, などがあったが, この時期には英語には翻訳されなかった。このようにして, アルトシュラーは1980年代半ばまでのTRIZの開発と活動のすべてを指導した。

1985年にペレストロイカの時代が始まった。多数のTRIZ専門家たちは新しい職や新しい仕事の分野を見つけねばならなかった。そしてその中のかなりの人たちが西側諸国に移住していった。この時期からアルトシュラーはその興味の中心を技術分野のTRIZから「創造的人格の開発の理論 (Theory of Development of Creative Personality)」の方に移していった。1989年には, 国際TRIZ協会 (International Association of TRIZ,  ロシアでの略称は"MATRIZ", 詳細後述) が設立され, アルトシュラーが会長になった。

1990年には,旧ソ連崩壊後の社会不安のために, アルトシュラーはバクーを離れ, ペトロザボーツク (サンクトペテルブルグの北, 約300km の所にある都市) に移り住んだ。彼の健康は良くなかったが, 彼は仕事を続け, 1994年にはMr. Igor M Vertkinと共著で『天才になる方法(How to Become a Genius)』という本を出版した。彼は, 多数の書簡のやりとりを精力的に続け, アパートに多数の学生や来客を受け入れ, そして, TRIZ, 創造的人格, TRIZの使用における高い道徳性の必要などを力説した。

1998年の夏, アルトシュラーは世界中の65人の人たちを「TRIZマスターズ (TRIZ  Masters)」として選定し, 自分の署名入りの学位証を発行した。

1998年 9月24日に, Mr. Genrich Saurovich Altshullerは, ペトロザボーツクで, 71歳の生涯を閉じた。発明の技術と創造的人格の研究を通じて, 人類のために献身した生涯であった。

(5) アルトシュラーの家族 (Ms. Zhuravlyova ( アルトシュラー夫人) 談)

故アルトシュラーの遺族は, Ms. Valentina N. Zhuravlyova (夫人), Ms. Larissa    Komarcheva (長男夫人),  およびMs. Yuna Komarcheva(孫娘, 14才) である。一家はペトロザボーツクのアパートで, 同じ建物の近くの二つのフラットに住んでいる。私たちはアルトシュラー家の客間で親しくお会いして話しをすることができ, 光栄であった。
Ms. Zhuravlyova の話では, 彼女がバクーでの医学のインターンの期間をちょうど終わった頃, カスピ海の浜辺でアルトシュラーに出逢い, 1956年に結婚したという。彼の影響で彼女も科学空想小説(SF)の著名な作家となり, 数冊の本を出版したという。実際に日本語に翻訳されて1959年と1968年に雑誌に載っている二つの作品を見せてもらった。アルトシュラーはまた彼女をTRIZのエキスパートに育て, 同時に優れた秘書兼編集者とした。アルトシュラーは誤って多数のファイルを消してしまってから, 一切パソコンを使わなかった。彼がいろいろな原稿を手書きで書き, 彼女がパソコンに入力し, そしてまた彼が繰り返し繰り返し原稿を推敲したという。夫人は脚が弱っておられたが, 健康そうであった。

Ms. Larissa KomarchevaもまたTRIZのエキスパートであり, 優れた秘書・編集者である。アルトシュラーはただ一人の孫娘Yunaをかわいがり, 幼時に創造性を育てる教育をしたという。

Ms. Zhuravlyova とMs. Komarchevaの話によると, アルトシュラーは非常に多くの未発表の原稿と弟子たちとの往復書簡を残した。彼がその50年間の公的生涯中に送ったすべての手紙のコピーが残されており, 送り先の相手ごとに分類されて, 受け取った手紙と一緒にファイルされている。それらの文書はいくつかの部屋にあふれているとのことである。アルトシュラーの遺族は, 現在その編集作業をしており, 遺稿集は10巻余りになるだろうという。
 
 
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ペテロザボーツクにて:  アルトシュラーの家族と。(後列)中川, 夫人(Ms. V. Zhuravlyova), 長男夫人(Ms. L. Komarcheva), 通訳者; (前列) 孫娘 (Yuna)

(6) TRIZのトレーニング (Mr. Mitrofanov談, Ms. Zinovkina 談)

TRIZのトレーニングコースは, ロシア, 白ロシア, その他の国々の多数のTRIZスクールで開かれている。それらは, バクーでのアルトシュラーのTRIZスクールを手本にしている。トレーニングは集中的で, 高度である。

サンクトペテルブルグのTRIZスクールは, 現在, つぎのように運営されている。

TRIZスクールは, 週 2日で,  2年間のコースになっている。講義はMr. Mitrofanov  と数人のTRIZエキスパートが行っている。コースはすでによく確立されているけれども, 固定した教科書を使っていない。Mr. Mitrofanovの最近の著書[8] およびMr.   Ivanov  の著書[11]は, このコースにおけるかれらの講義の主要部を納めたものである。問題と解答集が作られており, 各学生は年間100 〜120 問の問題を解かなければならない。学生には, 学校だけでなく, 沢山の宿題がある。1 年の最後に学生たちは学位の中間審査 (pre-diploma)を受ける。学生達はこれを心配し, しばしば恐れを感じている。 2年の最後に, 学生たちは学位審査に合格せねばならない。この学位審査は, TRIZスクール記念祭の第 3日に, 約90人の聴衆の前で公開で行われる。

最近の学生数は60〜70人である。その大部分は, 大学/ 研究所を卒業して仕事をもっている技術者やビジネスマンたちである。大学生たちもTRIZコースにきているが, 彼らはいろいろな分野を専門として勉強している。講義は全体で一つのクラスである。コースの学位授与にあたっては高い標準が設定されており, 毎年合格して卒業するのは約20人程度である。高度な教育を受けた人たちだけが合格する。Mr. MitrofanovはTRIZをマスターする簡便な方法はないと信じている。

もう一つのTRIZスクールの例として, モスクワの大学間センタのカリキュラムをまとめておこう。

技術者 (工科系の大学卒業者で仕事を持っている人たち) のTRIZトレーニングは, 通常集中セミナーを何回か逐次行う。 4〜5 日 (毎日 8時間) の集中セミナーが一つのユニットをなす。 1週間あるいはもっと間をおいて,  3回〜 4回の集中セミナーで継続的に教える。この結果, コースとしては約120 時間のトレーニングになる。集中セミナーの間に間隔を置くのは, 研修者たちが自分自身の環境で講義内容を考え・消化するのに望ましいと考えているからである。コースの卒業のためには,研修生たちはコース期間中に自分自身で一つの発明をしなければならない。

大学生に対するTRIZ教育では, センタは 4年間で 220時間のコースを提供している。理学, 工学, 人文, その他の分野の学生たちがコースにやってくる。 4年間かけて, TRIZのいろいろな側面を教える。コースの期間中に学生たちは多数の問題を解くことが要求され, また卒業のためには,自分で発明をすることが必要である。
 

討論の中で, TRIZの 3時間の講義とか,  3日間のトレーニングセミナーなどの話を私がすると, ロシア/白ロシアのTRIZ専門家たちは一様に「短すぎる」と考え, そのような短期間トレーニングの必要性をあまり理解しないようであった。

ここで私が言いたいのは,どんな国であろうと, TRIZのコースのフルセットを提供できることが必要だということである。それには, 3時間の講義,  3日間トレーニングセミナー,  3ヶ月トレーニングコース,  2年間教育コースなどを含むのがよい。短時間/ 短期間の講義やセミナーは, 忙しい企業人などに必要であり, また初心者向けに適している。日本においては, 長期間のTRIZ教育を受けたTRIZ専門家はまだひとりもいない。これが意味しているのは, 日本でTRIZを十分に理解するために, またTRIZの質のよい教育コースを確立するために, これから真剣な努力をしなければならない, ということである。このような教育コースを最初は英語で (おそらくロシア語ではなく) 開くことも必要かもしれない。

(7) 古典的/ 技術的TRIZの理解

古典的TRIZ (大部分は技術分野のもの) については,アルトシュラーあるいは少数の他の人たちの教科書がロシア語で出版されている。しかし, その多くは出版部数が限られており, 現在書店を通じて入手することは困難である。英語への翻訳, そして日本語への翻訳が, よりよい理解のために必要である。言語の壁が, TRIZの日本 (およびその他の西側諸国) での受容を遅らせている最も重要な問題点である。

私は多くのTRIZエキスパートたちと話し, 日本のTRIZ学習者にとっては技術問題を解決した優れた例に対する需要が大きいことを指摘した。しかし, ロシア/ 白ロシアのTRIZ専門家たちにとっては, TRIZが技術分野で有用なことは, すでにその歴史の中で十分に検証されたことであると見える。彼らは, 公的な/ 出版されたドキュメントを持っている実地適用の例は多くあるという。ミンスクでは, Mr. Shpakovskyが刈取機 (収穫用のトラクタ) の新しいデザインの開発の仕事を話してくれた[3] 。ペトロザボーツクでは, Mr. Rubin が, 北極海の湾のネック部に建設した潮の干満を利用する発電所の仕事を示してくれた。しかし, その部厚いドキュメントはロシア語で書かれており, 私には読めなかった。教科書やコース教材には多数の事例がかれらの母国語 (ロシア語) で記載されているから, 技術分野へのTRIZの適用は彼らにとってはもう当たり前の演習/ 実践になっているのであろう。日本においては,このように読める形での事例が乏しいというハンデキャップを, できるだけ早く克服することが必要である。

その一方で, ロシア/ 白ロシアのTRIZ専門家たちには,TRIZを企業 (あるいは同様の産業組織) に大規模に (例えば, 数百人の技術者に対して) うまく導入したという経験を持っていないように見える。彼らは, コンサルタントになったり, あるいはそのような組織の中で専門家としての指導者の仕事をしているように見える。すなわち, 企業の技術者たちに大規模な知識の伝達をしないでいるようである。

モスクワでは, ある会社がその10人の技術者を大学のトレーニングコースに派遣しようとしてきているのを知った。ただ, そのような形式での先例で, 実際にどのような成果が挙がったのかを聞いていない。トレーニングコースには質の高いスタッフが揃っているから, 将来きっと良い成果が得られることであろう。

興味深いのは, ミンスクTRIZスクールのMr. Kucheravy が, 韓国の大企業で 1年間コンサルタントとして働いた後,  1ヶ月間ミンスクに戻っており, そしてこのあとすぐに 2年目として韓国の同じ企業に行くことになっていた。韓国企業は, しばしば米国企業とおなじような振る舞い方をする。われわれ日本のTRIZ推進者たちは,外国からTRIZコンサルタントを雇い入れるという韓国企業の試みをもっと真剣にに学ばねばならない。

(8) 理学および生物学分野へのTRIZ適用の拡張

Mr. Mitrofanovから, 彼の最近発行された著書『工学的拒絶から理学的発見へ』[8] をもらった。この本はロシア語なので, 私にはいま(そしてまだ当分) 読めない。Mr. Klementyev  が時間を割いてくれて, 各章の表題を私のために英語に翻訳してくれた。マイクロエレクトロニクスのデバイスの物理学, および物理化学を例にあげて, Mr.   Mitrofanov  は, TRIZの哲学を基礎にして, 科学的な発見への彼のユニークなアプローチを書いている。この本はサンクトペテルブルグでのTRIZスクールの彼の講義をもとにして書かれており, 1998年 9月に出版されたが, わずか 550部しか印刷されなかった。この本は英語/ 日本語に翻訳すべきものだと思う。

Mr. Timohov ( 白ロシアのゴメル市からきてくれた) からも, 彼の著書『生物学・生態学とTRIZにおける創造的問題撰集』 (ロシア語) [7] をもらった。彼は80件の例をあげ, それらをTRIZを用いて論じている。生物学と環境はTRIZの応用として新しい分野である。

ミンスクのMr. Vinogradov は, 特許の弁理士として仕事をするとともに, 自分でも研究をしている。彼は量子電子デバイスについて研究し, TRIZを用いて新しい種類の超伝導性を見いだしたという。ただ, 私には彼の説明は理解できなかった。

(9) サービス, ビジネス, 経営などへのTRIZ適用の拡張

今回会ったTRIZ専門家の中には,技術問題へのTRIZの適用を永年経験し, そしてその後, 主たる活動分野をサービス, ビジネス, 経営などに移し, いまなおTRIZを使っている人たちが多くいた。1980年代後半以降の旧ソ連の社会・経済状況が, 彼らにこのような変化を促した (あるいは強制した) という。

このような人たちにインタビューしたときの私の主要な関心はつぎのようである: 「ビジネス関連の新しい適用分野において, TRIZのどのような面を有効に使うことができ, また, TRIZのどのような種類の拡張が必要であったか? 」

白ロシアのゴメルで仕事をしているMr. Timhovは, TRIZのつぎの側面がビジネス・コンサルティングに有用だという。
   (a)  資源分析
   (b)  矛盾       (矛盾の導出とその解消の考え方)
   (c)  理想解
   (d)  予期分析   (将来の変化の予測)

サンクトペテルブルグのMr. Faerは, 1990年頃にその活動分野を技術から社会/ ビジネス分野に移し, いまは政治に係わるコンサルタントグループを作って, 選挙宣伝などの仕事を活発に行っているという。私が「新しい分野であなたが使っているTRIZの主要な原理はどんなものか? 」と尋ねたのに対して, 彼はつぎの 3点をあげた。
   (a)  矛盾
   (b)  理想解
   (c)  害を益に変える
彼は, 矛盾の一例として, 選挙運動における宣伝の場合を取り上げた: 「人々は読んだりするのを好まず, チラッと見るだけである。」そこで彼は, 選挙運動に小さな紙切れを使った。その紙片に, 彼は主たるメッセージを直接的に書くのではなく, 人々がそれをチラッと見て, 後は彼ら自身の意識の中で自然にその先に進むようにした, という。理想解の例として, 理想解の「最小のコスト」と「存在しない」という原理に従い, 彼は選挙運動に紙片をさえ使わず, 噂を流布させた。

Mr. Faerは彼の著書『選挙運動の戦略と戦術』 (1998) [12]をくれた。その中で, 73件の方法を選択し, それらの定式化やコメントなどを説明している。彼と話しているときに私は古代中国で書かれた孫子の戦略を思い起こした。すると彼は, その本の最後部にあるそれらの引用を見せたのだった。Mr. Faerが言うには,彼がTRIZから得た最も大事なメッセージは, 「問題を解くのに勇敢であれ」だという。TRIZは人生の問題にもどんな他の分野にも適用可能だと彼は言う。彼はいまの仕事の分野を好きだという。その理由は, 何かの解答を実際に試行してみると, それに対する応答が 1日で返ってきて, 技術的問題のように何ヶ月も何年も待たなくてよい, からだという。彼のWeb サイト (英文あり) を参照されたい:  http://users.nevalink.ru/faer/index_en.htm .
ペトロザボーツクのMr. Rubin は, TRIZは思考の技術だ (すなわち, 頭の中の哲学, 考え) という。そして, つぎの 3点がTRIZのエッセンスであり, それらはビジネス関連の問題にも同様に有効だという。
  (a)   矛盾を見いだし, 分析すること
  (b)  理想解 
  (c)   彼らの, そしてすべての機会を利用すること
もちろん, 彼は, ビジネスなどの分野での専門の知識が必要なことを指摘した上で, TRIZがバックグランドとして有用なのだという。彼の今の仕事は多方面に渡っており, カレリア共和国 (ロシア連邦内, 首都がペトロザボーツクで, 全人口は80万人) のいくつかのプロジェクトを担当し, ビジネス・トレーニングセミナーで教え, プロのビジネスコンサルタントとして働いている。上記の 3点の解答を聞いたとき, それらがMr. Faerの返答と非常によく似ていることに驚いた。そこで彼に, この問題についてなにか共通のコンセンサスがあるのかと尋ねた。なにもコンセンサスがあるわけでなく, 自分がそのようにTRIZを理解しているのだと, 彼は答えた。

これらのTRIZ専門家との討論でわかったことは, 彼らはTRIZを自分の思考方法として使っており, 発明の原理, 矛盾解消マトリクス, 技術的効果などの詳細に頼ってはいないことである。私の理解では, これらの専門家たちはTRIZを深く理解し永年のあいだ使っており, その後に仕事の分野を変えたので, 新しい問題に取り組んだときに, TRIZの細部からは自由で, TRIZの核にある哲学を使ったのだ, と思われる。この状況は, ビジネス関連の分野で (TRIZ以外の) 多様な方法論を前から知っており, 最近になってTRIZを学び・使おうとしている西側諸国の人々とは非常に違っている。新しくTRIZを学んだ人がTRIZをビジネス関連の分野に適用していこうと試みる場合には,この点の違いをよく考慮すべきであろう。

(10)  子供へのTRIZの教育

私に非常に強い印象を与えたのは, ロシアや白ロシアでは, 子供にTRIZ (あるいは創造的思考法) を教育する活動が広範囲に広がっていることであった。

ミンスクのTRIZスクールでは,「Jonathan Livingston Project 」がかれらの主要な活動である。このプロジェクトは, 創造的な人格に子供たちを教育するための研究として, 1983年にスタートした。より詳細は, 彼らのWWW サイト (ロシア語) を参照されたい。http://www.triz.minsk.by/  (ミラーサイトはhttp://www.trizminsk.org/ )

Ms. Korzum は, 創造的思考法の就学前教育の仕事をしており, そのための教師教育 (教師志望の学生の教育と, 現場の教師のトレーニング) をしている。彼女は創造的思考法の就学前教育のための教師養成の実験プロジェクトを, 1995年に大学の教育学部で開始した。そのコースには,いろいろなTRIZの方法論の教授法がある; たとえば,  9画面法によるシステム思考法, クリエイティブ・イマジネーションを発展させる方法, 問題を使った矛盾の解消の方法などである。

私には最初,これらのTRIZの方法を一体どのようにして幼稚園の子供たちに教えるのかが分からなかった。そこで, まずそれを尋ねた。私の求めに応じて, 彼女は, TRIZの 9画面法を使って子供たちに教える様子をデモして見せてくれた。彼女は, 郵便の例をやってみせた。問題のシステムとして, 封筒に入れた手紙をまず描いた。そのサブシステムは文字であり, スーパーシステムは航空便のための飛行機である。昔のシステムとして, のろし用の焚き火の煙を描いた。すると, 将来のシステムとしては,5, 6才の子供たちでもすぐに「コンピューター! 」と答える, と彼女はいう。このやり方ではさまざまなアイデアは, 例となるものの絵で表され, 口で説明される。子供たちは, あまり説明しなくても, そのスキーム (すなわち, TRIZの基本的な考え方) を学びとり, 他の例を描くのにそのスキームを使うことができる。

全白ロシアの就学前教育の教師たちの教授法コンテストにおいて, Ms. Korzumが教えた教師たちが 1位と 2位を獲得したという。白ロシアにおいては, TRIZベースの教育の効果はもうすでによく知られている。ミンスクの国立教育センタからミンスクTRIZスクールに対して, 白ロシアの公的教育に対する新しい教育のスキームについて提案するよう求められているという。

サンクトペテルブルグでは, 私はMs. Kryachkoに会った。子供にTRIZ教育をするための教師研修の教科書 2巻 [9,10] を彼女からもらった。技術的矛盾について子供たちに教える彼女の方法をいろいろ説明してくれた。彼女が私に望んだことは, 彼女の本を日本語に訳し, 日本で出版するような機会をみつけてほしいということだった。

ペトロザボーツクでは, Ms. RubinaがTRIZベースの子供の教育と教師養成の仕事をしていた。彼女のコースの教材の一式をもらった[16]。それは, 教師研修の教科書, 教師用マニュアル, および子供用ワークブックの全クラスのもの, から構成されている。これらの中で, 子供用のワークブックが私には一番興味がある。なぜなら, そこには, 彼女の教育のフィロソフィの細部までが反映されているに違いないからである。それらを日本語に翻訳し, 子供の教育の専門家の人たちと討論すると有益であると思われる。

ペトロザボーツクで, Ms. Nesterenkoもまた, TRIZベースの子供の教育と教師養成の仕事をしていた。彼女は, そのTRIZ実験クラスのWeb サイトを開設しており, 子供たち自身が作ったいくつかの作品が掲載されている。(http://home.onego.ru/ ̄all _triz).

Ms. Nesterenkoの話では, アルトシュラーは1970年代に若い生徒たちへのTRIZ教育を開始したという。そして, TRIZ教育の対象の生徒はどんどんと若くなり, ついには保育所にまでになるとともに, 重点が (TRIZそのものというよりも) 創造性の開発にシフトしていった。アルトシュラーは, 「創造的人格の発展の理論 (Theory of       Development of Creative Persons)」の研究を永年行った。しかし, その理論はまだ十分には発展していないと, Ms. Nesterenkoはいう。その主たる原因は, アルトシュラーの興味がさらに偉大な創造的人物の研究の方にシフトしていったからだ, ともいった。

彼女は子供のTRIZ教育 (あるいは創造性教育) のための教師養成コースを運営している。彼女は, 教師たちに, まずTRIZを教え, それから教授法を教えるという。 5日間の集中セミナーの 1サイクルをすれば, 教師たちが学び始めるのに有効だ。しかし, 教師たちが理解し, 子供の教育を開始するには, 通常 3サイクルが必要であるという。そのような研修コースはしばしば学校の休暇中に開かれる。
 
 
     .
ペトロザボーツクにて: (左から) 中川, Mr. A. Selioutski, Ms. A. Nesterenko, 通訳者

モスクワでは,(3) で述べたように, 工学創造性研究教育大学間共同センタが, 「TRIZの継続教育」のために活動している。これは, 幼稚園, 小学校, 中学・高校の教師のトレーニングを含んでいる。このセンタは,  (上記のサンクトペテルブルグやペトロザボーツクのものも含めて) 15の大学/ 研究所のネットワークの中心である。そのコースや教材はすでによく確立されている。
 

以上に述べたように, 今回訪問したすべての都市で, 子供へのTRIZ教育, あるいは創造的人格を目指した子供の教育に従事している人たちに会った。これは, ロシア/ 白ロシアと日本では, TRIZの受容と理解の段階 (maturity) に大きな差があることを私に印象づけた。そのようなTRIZ専門家たち, 特に若い世代の人たち, は私に聞くのだった: 「どうして日本では子供に対するTRIZ教育をやらないのか? 若いときからの教育はずっと効果があるよ」と。           
         
私は答えた:   日本ではTRIZの導入は極めて新しい, 2 年か 3年か前からにすぎない。企業の技術者たちがいまTRIZに興味を持っており, 彼らの実際の問題に使用してみたいと望んでいる。そこで, われわれは, まず彼らを訓練し, TRIZの有効性を日本で自分たち自身で証明すべきだと考える。TRIZの有効性に確信を持ったなら, つぎに大学で工学系の学生たちにTRIZを教えることに進むことができる。かくて, 教育は一歩一歩と若い年齢の人たちに下りてくるべきである。われわれは, より安全でより良い教育をするために, このステップのどれかをスキップすることはできないし, スキップすべきでない。

ペトロザボーツクで, アルトシュラーの家族と話をしたときにも, この子供の教育の問題が話題になった。Ms. Zhuravlyova は, 子供に教えることをアルトシュラーは非常に慎重だったという。TRIZのトレーニングは, まず (大学卒業の) 技術者をターゲットとし, ついで大学生, そして高校生とすべきだと, アルトシュラーはよく話したという。TRIZを子供たちに教える教師は, TRIZを深く理解し, そして子供の心理を理解していなければならない, という。家庭では, アルトシュラー自身がその孫娘Yuanを可愛がり, Yuanが子供のときにTRIZの考え方のエッセンスを理解するように教えた。

この問題に関連して, 新しい方法論 (現在は明らかに創造的に見えるもの) を子供に教えることと, 子供たちの中に創造的能力を育てることとを, 注意深く区別するべきだと私は信じる。この議論は, 「TRIZによる創造性」の性格についての問題にまで, 深く逆上るものかもしれない。もしある人が, TRIZの教科書の多様な問題, 解決策, 原理, 効果などを記憶して, さまざまの問題にそれらをほとんど自動的に使うことができるとしたら, この人は本当に創造的なのだろうか? その人が出す解決策や発明を見て判断する限り, 答えは「YES 」である。しかし, その人は本当に創造しているのだろうか, それともただ単に前例に従っているだけではないのだろうか? その人は,TRIZ流の考え方から脱することができ, 自分自身で考えることができるのだろうか?

(11)  国際TRIZ協会 (MATRIZ) (Mr.Mitrofanov談, Mr. Rubin 談)

国際TRIZ協会(The International Association of TRIZ; ロシア語の略称はMATRIZ) は, 1989年にアルトシュラーを会長として設立された。現在は, Mr. Mitrofanovが会長を勤め, Mr. Rubin がボードミーティングの下でDirector (事務局長) をしている。これは, 市, 地域, 国などの単位で自発的に組織されたTRIZ専門家の多数のグループから構成される。たとえば, TRIZモスクワ, TRIZサンクトペテルブルグなどである。米国のAltshuller Institute for TRIZ Studies も, この国際協会の見地からは, そのような組織の一つである。同協会の規約によれば,  3人集まればそのような単位を作って協会に所属することができ, 年会費は一人 100米ドルである。協会は現在ロシア語を公用語として用いているが, 近くWeb サイトを英語でもオープンする計画であるという。協会は『Journal of TRIZ 』をロシア語で発行している。 (ただ, どれだけの巻数が最近発行されているのか私は把握していない) 。公的なWeb サイトを参照されたい:   http://matriz.karelia.ru/ .

Mr. Mitrofanov  は私に "TRIZ Japan" というユニットを作るように薦めたけれども, 私は時期尚早だと思うと答えた。日本においては, 工学分野の学会/ 協会の一つとして, 非営利的なTRIZ協会を組織する可能性をまず考えるべきであろう。その協会は, TRIZに興味を持つ人ならだれでも, その所属機関や分野にとらわれずに一緒に来て学び・仕事をする場にしたいと思う。そのような協会を組織するには多くの努力が必要で, それを開始するにはまだ時期が早いと私は思う。

(12)  言葉の壁と翻訳の必要性

この旅行の間中, 私が会ったすべてのグループがロシア語と英語のよい通訳者を用意してくれていたので, 楽であった。しかし, ひとたび日本に帰ってきて, 旅行中にもらった本や文献を整理しようとしてみて, 私はロシア語の言葉の壁に思い知らされた。このレポートの末尾につけた文献リストをつくるだけで, 随分の時間を必要としたのである。私は (TRIZを学ぶために) 思い立ってロシア語の勉強を始めてから16ヶ月になるけれども, 本文を読むことはまだ到底できない。それらを自分で読めるようになるには, これから数年を必要とするであろう。

日本において, 多数の重要な教科書や文献をロシア語から日本語に翻訳することが望まれる。しかし残念なことに, ロシア語から日本語へのよい翻訳者は少ししか日本にいない。こんご大いに努力して, ロシア語から日本語への良い翻訳者をみつけ, TRIZを導入する重要性を理解してくれる良い出版社を見つける必要がある。もしこのレポートを読まれた読者がそのような人々/ 組織を知っておられたら, ぜひ私に電子メールで教えていただきたい。

この旅行中に, いろいろなロシア/ 白ロシアの人たちから, 彼らの仕事を日本やその他の国で出版してもっと広めることができないだろうかと尋ねられた。そのような出版はもちろん著者たち自身に益することである。

この言葉の壁の問題を部分的に解く方法として, 他に二つの方法があると思う。まず第一の方法は, ロシアの人々がその仕事を英語に翻訳して, 本, 雑誌, Web サイトなどに発表することである。第二の方法は, どの国の人でもよいが, ロシア語の文献を英語に翻訳して出版することである。日本においては,このようにロシア語から英語に翻訳され, それをさらに日本語に翻訳するというやり方で, すでに 3種のTRIZ教科書が出版されている。いまや英語は世界における事実上の共通言語であるから, 英語での出版はどうしても必要なことであろう。

(13)  旅行者としてのロシアと白ロシアの印象

今回の旅行の前には,私は1973年に 2日間だけモスクワに立ち寄った経験を持っていただけであった。前回も今回も, モスクワでは同じホテル (インツーリストホテル) に泊まった。サンクトペテルブルグ, ペトロザボーツク, およびミンスクは, 私 (および妻) には, 今回がすべてはじめてだった。

今回のモスクワの印象は, 往時の繁栄の思い出を持っている私の目には, 悲しいものであった。市の中心部のメインストリートはほこりだらけで汚れていて, 非常に広い道路に多数のガタピシの自動車が混雑し危険極まりない運転をしていた。市の中心部にはいくつかのショッピングセンタがあり, 輸入洋服, 香水, 時計, みやげものなどを売っているが, それらは単調で (偏っていて) , 一般市民の日常のものを売る店はなかった。メインストリート沿いのいくつかのデパートと食料品店を見て回って, 極めて乏しい商品しか置いていないことにがっかりした。 [注:  8月31日に爆弾テロが起きたのは, 私自身も何度も行った上記のショッピングセンタのひとつである。]

モスクワでは, クレムリン内部や, ドストエフスキー邸やアルバート街などに行った。市内の交通には地下鉄を使い, 便利で安心であったし, 沢山のみごとに建てられた地下鉄の駅を見た。地下鉄の駅や観光名所には,沢山の貧しい人々が物乞いをしていた。厳寒の冬を思うとその人たちの生活は心が痛む。

サンクトペテルブルグはもっと良い印象を与えてくれた。革命前の時代からの多数の素晴らしい建物を持った, 美しい都市である。多数の教会や昔の貴族の館が最近になって改修されてきている。公園や庭園が市の中心部にも多くあり, 清潔であった。ただし, 道路の状況はひどかった。特に, 市電のレールの基礎部分があらゆる所ででこぼこに痛んでいた。車の交通量が多いからであろう。

ペトロザボーツクはきれいな小都市で人口40万人とのことである。きれいな大きな湖の岸にあり, 森の中にあった。生活は落ちついているようで, 旅行者の目からは経済危機の兆をみることはなかった。この都市のTRIZコミュニティは互いに親密のようであった。

ミンスクは近代的な建物が広く広がって建てられている都市であった。第二次大戦で都市全体が廃墟となった後に再建されたからであるという。白ロシアの経済状況は深刻であると聞いた。 1米ドルは, 公的には約 300,000白ロシアルーブルであるが, 闇市場の実勢は約 440,000白ロシアルーブルであるという。通常の財布の大きさでは役に立たず, 人々は札束をゴムバンドでとめて持ち歩いていた。市の中心にある公園には,アフガニスタン戦争で死んだ兵士たちを慰める, 涙の母たちの記念碑が建っていた。私がいままで見た中で, 最も美しく心を動かされる記念碑であった。
 
 
     .
ミンスクにて: (左から) Mr. P. Chuksin, Mr. D. Kucheravy, 中川, 中川雅子, Karlov夫人, Mr. A. Karlov, Mr. N. Shpakovsky

ロシアと白ロシアのTRIZの人たちは, 私たちに大変親切であった。このすべての人たちに感謝する。また, 観光ガイドとして 4人の女性たちに一部分を案内してもらった。彼女たちは, みな知的で, 英語を流暢にそして自然に話した。

この旅行をアレンジするのに, 私はモスクワのアイリーン旅行社のMr. Yuri Dyachenkoに世話になった。ロシアと白ロシアの大使館は, 旅行者のビザの申請に, 詳細な旅行日程とそれを裏付けるためのホテルと国内輸送機関を予約したvoucher(予約明細) を提出することを要求する。日本の旅行代理店から十分なサポートを受けられなかったので, 私はインタネットで検索して, このロシア/ 米国拠点の旅行社を見つけた。(http://www.interknowledge.com/russia/irene/).  電子メールによるMr. Dyachenko (<irene@centro.ru>) との連絡により, この旅行をスムーズに準備することができた。
 

この旅行報告の最後には, 私の旅行中のプレゼンテーション「日本におけるTRIZと一日本人から見たTRIZ」の最後に書いた文を再掲して, しめくくりたい。

       「私たちは  Mr. Genrich Altshuller  に心から感謝し,
                   また, こんにちの  世界の平和に 感謝します  」
 

文献リスト

旅行中に下記の文献をいただいた。(OHPプレゼンテーション以外の) すべての文献はロシア語で書かれている。表題は私が仮に英語に翻訳したものである。

[1]  (OHP presentation) "What is Minsk's TRIZ-Technologies Center?", D. Kucheravy (1999).
[2]  (OHP presentation) "OTSM-TRIZ: Introduction to Problem Solving Technology", N. Khomenko (1999).
[3]  (OHP presentation) "Developing an optimal design of stripper", N. Shpakovsky (1999).
[4]  (Journal) Journal of TRIZ, Vol. 1, No. 1, 1990.  (First issue of the Journal.)
[5]  (Journal) Journal of TRIZ, Vol. 3, No. 1, 1992.
[6]  (Journal) Journal of TRIZ, Vol. 3, No. 2, 1992.
[7]  (Book) "A Collection of Creative Problems in Biology, Ecology, and TRIZ", V. I. Timohov, TRIZ-ShANS, St. Petersburg, 1996. p. 103.
[8]  (Book) "From Technological Rejection to Scientific Discovery", V.V. Mitrofanov, St. Petersburg, 1998.  p. 395.
[9]  (Book) "Teachers on TRIZ", Vol. 2, ed. V. B. Kryachko, St. Petersburg, 1996.  p. 180.
[10]  (Book) "Teachers on TRIZ", Vol. 3, ed. V. B. Kryachko and M. M. Zinovkina, St. Petersburg, 1999.  p. 182.
[11] (Book)  "Formulas of Creation, or How to Learn to Invent:  A book for senior-class students", G. I. Ivanov, Procveshenie, Moscow, 1994.  p. 208.  (A textbook of St. Pertersburg TRIZ School)
[12] (Book)  "Methods of Strategies and Tactics of Election Campaigns", Sergey Faer, 1998.  p. 136.
[13] (Paper) "Development Problems TRIZ - TRTL", M. S. Rubin, Journal of TRIZ, Vol. 2, No. 2, 1991, pp. 6-8.
[14] (Paper) "What will be after final victory?", G. Altov and M. Rubin, in Knowledge-Power, Vol. 4, 1991, pp. 5-10.
[15] (Paper) "Prediction Methods on TRIZ Principles", M. S. Rubin, Bulletin of Prediction Academy, No. 1, 1999, pp. 19-29.
[16] (Books) A set of teacher's textbook, teacher's manual, and pupil's workbooks for children education on TRIZ.  by N. Rubina, 1999.
[17] (Booklet) "Puzzle Land", A. A. Nesterenko, Rostov, 1993.  p. 23.
[18] (Book) "Pedagogics + TRIZ", Vol. 3, TRIZ-ShANS, Minsk, 1997.  p. 63.
[19] (Book) "Pedagogics + TRIZ", Vol. 4, TRIZ-ShANS, Gomel, 1998.  p. 63.
[20] (Booklet) Pupil's workbook for the Course of Development of Creative Imagination on the Basis of TRIZ, ed. A. A. Nestrenko, Petrozavodsk, 1996.  p. 19.
[21] (Book) "How to Become a Genius: The life Strategy of A Creative Person", G. Altshuller and I. Vertkin, Minsk, 1994.  p. 479.
[22] (Journal) Key Technologies, No. 0, June, 1998. p. 40.  Special issue on TRIZ, containing four latest papers by G. Altshuller.
[23] (Photo) A photograph of Mr. G. Altshuller in 1959.
[24] (Note) "List of TRIZ Books in Russian", D. Kucheravy, 1999.  Annotated bibliography written in English.
[25] (Paper) "Concepts of Realizing a System of Continuing Formation of Creative Thinking", M. M. Zinovkina and R.T. Gareev, 1999.
 
 
 
本ページの先頭 中川のプレゼンテーション 1. ミンスクのスクール 2.サンクトペテルブルグのスクール 3. モスクワのセンタ 4. アルトシュラーの生涯 5.アルトシュラーの家族 6.TRIZのトレーニング
7. 技術分野のTRIZ 8. 理学・生物学への拡張 9. サービス・ビジネスへの拡張 10. 子供へのTRIZ教育 11. 国際TRIZ協会 12. 言葉の壁と翻訳の必要 13.旅行者としての印象 入手文献リスト

 
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最終更新日 : 1999. 9.20    連絡先: 中川 徹  nakagawa@utc.osaka-gu.ac.jp