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編集ノート (中川 徹、2018年10月 7日)
本ページは、高原利生論文集第4集 の中心をなす「研究ノート2018」四部作の本論の第一部です。
研究ノートの全体ページには全体構成、概要、掲載資料へのリンク、「おわりに」、参考文献を書いていますので参照ください。
なお、8月30日の段階では、PDF版だけを掲載しましたが、このたび再改訂版(9月16日)を得て、HTMLページを作り、PDF版も更新しました。この第一部の目次は以下のようです。
2.6 根源的網羅思考とは?その2:仮説設定=正しい命題変更を行う思考
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論文 (和文(再改訂稿): 2018. 9.16) 論文PDF
根源的網羅思考 (2018年3月)
Radical Enumerable Thinking (2018.3)
研究ノート 2018/1 第一部
高原 利生
『TRIZホームページ』寄稿 (再改訂版) 2018年 9月16日、 掲載 2018年10月10日
注: 表記について:
過去に述べた内容と他文献からの引用は青字で示す。
緑字は例または注を示す。
濃赤字は 強調 を示す。
下線は、文章上の単語の強調か、課題を示す。
1.前書き:価値を実現するために生きる
人と人類の生き方を決めるものが、世界観と論理(方法)であり、哲学である。
世界観とは、人が、外界の構造と動きにどう関わるかの、過去、現在、未来の像である。これが、人、人類の価値観、潜在意識、態度を規定する。
つまり、哲学は、世界観と論理(方法)で、この二つが人と人類の生き方を決める。普通、人は哲学を意識しない。しかし、意識していようがいまいが、哲学が各人の生き方を決めている。人の作った何事にも完成したものはない。そして、完成したと思う思考は、死んだ思考の絞りかすで、常に否定し止揚し続けるべきものである。特に哲学は、常に仮説であり、常に未完成で発展の途上にあることを意識すべきものである。
この意味で、哲学は、作り続けられる仮説(極言すれば、虚構,フィクション)である。
したがって、無意識に哲学によって作られる常識も、極言すれば虚構,フィクションである。無意識の哲学によって作られる、知識の体系である科学も、極言すれば、作られてしまった虚構,フィクションである可能性があり、より正しい科学を目指して変革を続けていく必要がある。哲学によって作られる生き方は、認識、行動に直結しているから、フィクション、虚構になる恐れは小さいが、意識的に変革を続けていく必要はある。しかし、常識や生き方は、対象化されず意識されない故に、余りエネルギーを使わず有効に働いているとも言える。 [C.f. THPJ2015/3 6.1.1 b) 国家や企業、宗教における共同観念の共有は、そのために、法による罰の強制力や「道徳」や、これに代わるまたは補完する国家や企業、宗教への帰属意識を用いることができた。この強制力や帰属意識は、普通、対象化されず意識されないため有効に働く。この事情は今でもそうである。]
もし全ての人が、これからどう行動するかをゼロから意識して考えるとしたら、人類の活動は止まってしまう。したがってこの変革は困難な課題になる。よほど変更の根本的必要性が、確かな根拠で、多くの人に理解されないと実現できない。本稿は、今が、変更の根本的必要性のある稀な時代と思うので書いている。
人類の歴史を貫いている「基本法則」「基本原理」を求めること、世界に寄与する、人の幸せな生き方を作ること、この二つを目指す。
この二つの両立は、最低限の自明の要件だと考える。世界は破滅に向かっているのに自分だけが幸せであることも、それぞれの人を置いて世界が良くなることも、ともにあり得ないからである。
人に何が必要か、どう生きればいいのか?
この人類の歴史を貫いている「基本法則」「基本原理」があるのではないか?
技術と科学が、今までになく経済・社会の構造を大きく変化させようとしている。2018年の今から、数十年間の人類の変化は、これまでの人類誕生以来の変化より大きいであろう。
言語、道具を作って利用し始め人類が誕生したのは、諸説あるが200万年前ほどのことである。火を利用し始め、1万年前に農耕を始めるまでに人類は殆どの歴史を費やした。
技術が新しい価値の可能性を開きそれを実現していくのが人の歴史だった。大きくは技術の発展の歴史が、ほとんどの人の歴史だった。この技術をうまく管理するために経済や政治が生まれた。今、再び大きく技術が歴史を主導する時代になろうとしている。技術の責任が大きくなっている。
[THPJ2015/1] の冒頭に、次のように書いた。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」[THPJ2015/1]
人の生活、思考や対話は、論理と感情から成り立つ。ここでは主に論理を扱う。上の3を言い換える。
人類は、無意識に価値と考えているものから仮説によって作った目的と、現実世界との差異解消を行う問題を設定し、方法を作り実現を図り、実現がうまくいかなければ、目的か方法を変更しさらに繰り返す、というサイクルを続けてきた。[FIT2016]
次第に意識的に新しい価値を見つけ、それを実現することが人類の歴史だった。
人、人類の本質について述べているので、当然、他の生命との共通点についてはわざわざ述べない。食べて個体を維持することや子を作って種を保存するということなどを人、人類の本質としては述べない。ただ、これらの他生命との共通点である「食べて個体を維持することや子を作って種を保存するということ」についても、「新しい価値を見つけ、それを実現する」という人の特徴は反映されたものになるはずである。技術が『大変革時代』をもたらしている今、価値,目的と方法は今までのままでいいのか?価値を決める世界観は今までのままでいいのか?
世界観とは、人が、外界の構造と動きにどう関わるかの、過去、現在、未来の像である。
これが、人、人類の価値観、潜在意識、態度を規定する。そして潜在意識に入った世界観に大きな意味がある。現実像とは、現実が客観的にどういう機能と構造をしていて、主観的にどういう基本概念でとらえられ、人はどういう法則と方法で認識と変革の努力をしているかということである。現実の客観像だけでなく、それに対して人がどう取り組んでいるかも含める。
潜在意識に入ってしまう像であるために、大まかな世界観は重要である。
政治家や技術者だけでなく、一人一人が意識的に世界観、価値、方法を把握し続ける努力をする必要がある時代である。
「良い」生き方は努力する生き方である。「良く」努力することができるためには、「正しい」世界観によって現実と価値を「良く」理解することと、努力の方法、論理を知ることの二つが必要だと思う。この二つは相互に影響を与える。
「良い」「正しい」ことは主観がとらえる価値に依存する。自分が「良い」「正しい」と思うことは、必ずしも客観的にそうであるとは限らない。したがって相対化の態度、謙虚さは欠かせない。時に基本概念の再把握も必要となる。前提として、「種の存続−個体の生−生の属性」というこの順に次第に小さくなる価値の系列を仮定している。
求めようとしているのは「種の存続−個体の生」という自明の価値に続く「生の属性」の内容である(但し、老人の価値と子供の価値の差など、何となく常識的に分かっていても、本質は分かっておらず表現できてないことが多い)。「種の存続−個体の生」は、取りあえず固定されており単純だが、「生の属性」は、そうでなく、生き方によって動的に得られる価値である。生き方と同時に得られる運動、矛盾であると言ってもよい。
この内容の検討が本稿のテーマである。誠実であることを検討の前提としている。
嘘をつかない、約束を守る、偽善欺瞞のないことは、誠実さのイロハであるが誠実さの内容を述べているわけではない。誠実さの内容を述べることが本稿と言えなくもない。この立場から
1. 歴史と現実を総括して得た世界観、価値(観)、
2. 潜在意識、態度、感情、粒度設定、論理,方法、
3. 認識像と行動像の生成、技術、制度など文化の支援、
4. 認識と行動
の総体、系列を、今、生きることととらえる。粒度とは、認識、変更像、行動の単位で、空間時間、属性の範囲である。なお、ここで、
1. 生きることを、今の一瞬を生きることに限っている。上の四つの要素で近似した系列は、意識していなくても、常に人の一瞬の中にある。また、認識と行動を同格に扱っている[THPJ2015/1]。これに対し、
2. 世界と人の関係をとらえる場合は、「世界についての認識−世界に対する行動」というモデルになる。様々な人の立場に応じて様々な粒度がある。
3. 他に、世界の変化をとらえる粒度がある。これらの前提が、この系列の総体、系列の一部になっている論理,方法である矛盾モデルと根源的網羅思考である。
入れ子になっている。
矛盾モデルは形式の基本、客観世界と人間に共通である。世界を、「項1−関係−項2」という矛盾モデルの集合体で近似する。
矛盾は、二つの項が両立しないことを表す意味で用いられることが多いが、ヘーゲル、アルトシュラーなどの弁証法論理の使い方により、二つの項が相互作用しつつ両立する (両立している、あるいは両立を目指す) 意味で用いる。根源的網羅思考とは、無意識のうちに決めるのでなく、素直に感情により,かつ論理的に粒度を意識して全体を決めようとする思考である。
この二つで従来の思考形式を全て含む弁証法を作る。根源的網羅思考と価値についての最新の成果を第一部2章に、矛盾についての最新の成果を第二部に示す。この二つについては分かっていたつもりでいたが、自分で全く分かっていなかったことに気づいた。
あるべき世界観、つまり対象化と一体化の矛盾の歴史を第三部に、
これらの応用問題として、人工知能、宇宙論理学、人類の統一理論、ポスト資本主義と理想の生き方の要件と仮説の提起を第四部に示す。
なるべく独立しても読めるようにしたが、これらは相互に関係がある。分かりにくいかもしれないが、第二部の矛盾は論理的に、第三部の矛盾は歴史的に扱おうとしている。なお、本稿はやや長い。さらに長くなるのを防ぐために、下記のノートの内容の詳細はなるべく繰り返さないようにした。
一度で解が出る小さな問題の解法、特に粒度設定、方法は下記のノートを参照されたい。これが本稿の「大きな問題」の基礎になる。[THPJ2015/1] 高原, “粒度、矛盾、網羅による弁証法論理ノート: ノート2015-1”, TRIZホームページ, 2015.
(中川徹のTRIZホームページに高原利生論文集1,2,3,4がありhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2018Papers/Takahara-Biblio4-2018/Takahara-Biblio4-180823.htmにリンクがある)[THPJ2015/2] 高原, “中川徹の6箱方式へのコメント:ノート2015-2”, TRIZホームページ, 2015. (同上)
[THPJ2015/3] 高原, “弁証法論理の応用展開ノート:ノート2015-3”, TRIZホームページ, 2015. (同上)
また、
[FIT2013] 高原, “世界構造の中の方法と粒度についてのノート”, FIT2013. D-001, Sept. 2013
は根源的網羅思考によってできた最初の論文であり短い中に全体像が表れているので読んでいただくとありがたい。
本稿は、[THPJ2015/1] など以上に「論文」の形を取らないように努力したノートである。
意図したことは次のとおりである。
提起している根源的網羅思考により、考えている事項の全体の中の位置が分かるように、網羅の結果を書きながら記述をしているので煩わしいかもしれない。どうかご理解いただきたい。
また、思考の経過ができるだけ分かるようにし、分かっていないことは何かをなるべく書くようにした。
多分、分かった内容だけを閉じた体形にして書くとすっきりするが、将来への展開の途中であり、未完であることも示そうとした。各自が自分で考え納得したことだけが身に付き理論と現実を発展させることができるからである。書いている内容は仮説である。今、定説、常識と考えられていることは全て仮説であり、見直しを行うべきものである。
現在、多様な意味で使われている用語を、特定の意味に限定して使っていることがある。
オブジェクト、粒度、網羅、自由、愛、価値、技術、制度などである。これらの意味はその都度説明しているが、自分の使っている意味と異なる用語が多いと読みにくい。どうかご了解いただきたい。
本稿は、ノート第一部である。
過去に述べた内容と他文献からの引用は青字で示す。緑字は例または注を示す。下線は、文章上の単語の強調か、課題を示す。
2.根源的網羅思考
2.1 思考が生まれる歴史と論理
思考が生まれる歴史と論理を振り返っておきたい。
生命が誕生し動物が生まれる。動物は、世界の認識、変更をして生きる。
1.生命は、最初は、一方向に知覚に反応して一方向に対象を変更する。
カエルが目の前を通り過ぎる虫を捕えて食べる。これは次第に高度な行動になる。次いで、2.相手とのコミュニケーションが必要な段階が来る。
知覚によって危険を察知した鳥は、自分が逃げると同時に叫び声を挙げて仲間に知らせる。
一つの情報の他への一方向の伝達が行われる。何らかの手段で「現実」との差が伝わる。これを実現するのは一種の単語である。複数の単語を持つ生命もいる。一種の言語の初期形態を持っていたと言い得るかもしれないが、論理はおそらく不十分である。さらに、3.動物の交尾と集団による狩りがある。この二つは、目的と、分担行為の内容を、二つ(以上)の個体間で作り上げる必要がある。
一つの目的を二つ(以上)の個体間で共有する必要がある。分担行為の内容は、個体ごとにそれぞれ異なる。言葉がまだないので、狩りと交尾のいずれにおいても、目的も分担内容も、おそらく、同じ空間,時間にいる二つ(以上)の個体間で双方向に同時並行的に生成される。
また、内容をこの個体間で作り上げる段階と実行する段階も、まだ分離しておらず同時に行われる。この時、彼らはどういう判断とコミュニケーションをしているのか良く知らない。ライオン、オオカミなどの集団の狩りの構造の研究はされているのだろうと思う。
この時、コミュニケーションはあるが、論理はまだない。あるいは、高度な双方向コミュニケーション、高度な論理、高度な判断が一体になったようなものはあるが、言語化、定式化されない。こう見ていくと、言語の誕生によって(それが何かは言えないが、ある種の超感覚、超能力である)何かが失われたと気づく。
言葉がないうちは、行動を変更して目的を達成する、言葉と論理以前の手段は、このような、種の存続をかけて自動的に身に付けざるを得なかった高度なメカニズムを持つのであろう。人類にもおそらくこういう段階があった。あるいは言葉というコミュニケーション手段の確立と初期の人類誕生は同時なのかもしれない。そして人は超感覚、超能力を失った。4.言葉がない間の、行動を変更させ目的を達成する、言葉以外の手段の一つは、一方向の物理的行為である。
鳥のオスがメスに一方向のプレゼントをする。馬に水を飲ませるのに、水を馬の近くに置くか、馬を水のある所に連れて行く。どちらも物理的手段である。物理的行為の典型が暴力である。暴力の極端なものの一つに殺すという行動がある。次いで、今、問題にする 5.論理とそれを担う言語が発生する段階に至る。
仮説だが、目に見えない3の双方向に行われる高度なメカニズムを、4の一方向の物理的行為の単純すぎる形でなく、なるべくそのまま実現するため、5.論理とそれを担う言語が発生した。
論争の結果が暴力に至ることも、戦争だけでなくまだ多い。
物理的行為による変更と、言葉による変更の区別については明確にしておく必要がある。言葉による変更は自分と相手の双方を活かした根源的網羅思考という弁証法論理による弁証法的止揚が可能であるが、物理的行為による変更だけでは単純な解になりやすい。単純な解の極端なものは単純否定である。
後で見るように、根源的網羅思考による弁証法的止揚は、実に困難で、従って有効な思考や議論は、ごく稀にしか行われていない。多くの人は「多数決」によって物事を決めていくのが民主主義だと思っている。言葉、論理を、思考、コミュニケーション、議論の手段と考える。思考や対話には、論理と感情の二つの面がある。ここでは論理しか扱わないが、感情は論理に大きな影響を与えるため共に重要である。感情,感性と論理の関係は、多くの人には分かっているのだと思う。
単に客観 [注] と主観の一般的関係は、
まず(注の第二の意味の)客観があり主観がそれを把握すること、
客観と主観は双方向入れ子になっていてお互いを含み合うこと、
主観は時間をかければ客観像に近づいていける、
という三点に尽きる(後に、事実とオブジェクトの認識順序を述べる)。世の中で、客観と主観の関係、客観と主観の一致として述べられている問題は、この認識の根本的課題だけで、形式上は解決している。
ここでは、
1. 新しい知見を得るか、法則を見つけるか、変更像を作るか、
2. 具体的な内容を作る思考の、場合,粒度に限って考える。
1は、客観と主観の関係、客観と主観の一致の問題の、応用課題で未解決のものである。
2は、形式上ははっきりしているが、内容が明確でないために、問題解決の定式化に今までかかってしまった問題である。
これが本稿のテーマである(と、自分で、今、分かった)。言葉、道具の始まり以降、ものと観念が分離し、次第に第二の意味の客観と主観の差異が意識されるがまだ単純で、「ある」だけである。次第に、分離し、そうして別々の意識の統一の必要性も発生する。
まず、一般的な思考、一対一の対話、集団による大勢の討議(以下、思考、対話(または議論)と略す)を整理しておく。
(思考は、前の自分と今の自分の対話である)1. 思考、一対一の対話、集団による大勢の討議の構造、形式
思考、対話を、個々の「発話」の交換のリアルタイム性、粒度により単純化して何種かを次に示す。本質的にこの分類の意味は少ない。
・ 思考、対話の単位が、一語、一文単位。
・ 思考、対話の単位が、文章単位、数文章単位。 例:ブログへのコメント。批評。投書。
・ 思考、対話の単位が、もっと大きな単位。
一般的には、相手と自分の持っている情報の差異が、基本概念や前提に関するものである場合は、大きな認識の全体を変える必要があるので「ひとつ言ったらひとつ返す」というふうにしては、やっていけない。2. 思考、一対一の対話、集団による大勢の討議の機能、内容
思考、一対一の対話、集団による大勢の討議は、機能としては同じものである。
いずれも、思考、対話では、単語、文、文章、その複合から、人は、
21. 情報を与え合い、相手と自分の持っている情報の同一、相違を確認するか、
22. ある事象の全体の中の位置、それが実現する価値を判断し、
・ 新しい感情を表現するか、新しい認識を作るか、新しい行動像を作るか、
・ (世界観による個人の価値観、態度、粒度、論理、方法を前提にして)感情を変え、認識を変え、行動を決めるか、
・ 前提となっていた世界観、価値観、態度、論理、方法を変更している。一体的認識である芸術についての表出については保留する。
さらに、情報の授受を別にすると、2のために必要なことは、新しい思考と古い思考、あるいは自分の思考と他の思考を弁証法的に止揚、統合して新しい像を作るか、既存の像を高い段階の像に作り替えることだ。
これを実現するために提案しているのが、根源的網羅思考と矛盾モデルからなる弁証法論理である。なお、2017年まで根源的網羅思考の英訳として、Radical Enumerative Thinkingを使ってきたが、これを Radical Enumerable Thinkingに変える。
2.2 根源的網羅思考の要素: 粒度と網羅
論理(方法)と世界観が哲学で、この二つが人と人類の生き方を決めると考える。
全てのものに関係があり、世界観と論理(方法)にも関係がある。論理(方法)は世界観の中核を基にしており、世界観は論理(方法)から作られる。つまり、両者は入れ子 [注] になっている。構造の中で、「入れ子」は重要である。
論理(方法)を、矛盾モデルと根源的網羅思考で構成する。2013年以来、最小概念によるゼロベースでの、全ての物事についての思考再構築を試みてきた。[FIT2013] [THPJ2015/01, 02, 03]
ゼロベースで物事を変え行動すること [注] は、一旦、全てを解体しそれから現実を再構築する作業である。理想的にこれをそのまま実現すると、他の全ての人の常識と異なる結論が出る。これは極めて困ることである。それだけが理由ではないが、本稿は、理想的な根源性には遠い中途半端な結論で終わっている。根源的網羅思考そのものの説明も、その応用の説明もともにそうである。見直しが必要である。
大変な作業なので、その作業をなるべく少ない工数で行う工夫をする。その工夫が、少ない基本概念の使用だった。少ない基本概念の方が、論理、方法が単純なので作業が単純で修正もし易い。
この少ない基本概念で全ての思考、議論で扱う要素が網羅されている必要がある。本稿自体、これから作ろうとしている根源的網羅思考によっている。最小の基本概念は、オブジェクト、粒度、網羅である。[FIT2013] [THPJ2015/01, 02, 03]
[注]: [THPJ2015/ 02] から引用する。
認識のみの場合、変更の場合がある。次は変更の場合を述べている。不具合の解決、現状をもっと良くする理想化、新機能生成の三種がある。ゼロベースの変更は、ゼロベースで新機能生成を行う場合に限られるように思えるかもしれないが必ずしもそうでない。
4.4 事実の矛盾から解の矛盾へ変換
変更の場合、一般的な事実の矛盾の場合は、複数の矛盾の中から重要度優先度により事実の矛盾の中から選んだ矛盾を解の矛盾に変換した後、解の矛盾を解く。重要度優先度については [THPJ2015/03]参照。
解の矛盾とは、事実の矛盾(の中から選んだ矛盾)を変換して事実変更の差異解消を行うための矛盾で、定式化内容を(複数の)機能の形で表現するものである。差異解消に、不具合の解決、現状をもっと良くする理想化、新機能生成の三種がある。これらの差は相対的なものでいずれでも定式化できる [TS2007] 。4.4では、差異解消矛盾が確定する。それぞれの場合の定式化内容を機能の形で表現する。同じ「問題」をどれでも定式化できる。結果として機能を言わないといけないので、では最初から「新機能生成」でとらえればいいかと言うとそうでもない。「問題」をとらえるのは、どういう価値を実現するかに規定されて、不具合の解決、理想化、新機能生成と網羅された中でとらえるのが自然だからである。この網羅は価値の階層の論理的網羅に全く依存している。理想的には正確な価値の把握が必要である。問題とは、理想と現実の差異であるからである。
一般にこの定式化は至難の業と言っていい。
不具合の解決、理想化、新機能生成のどれでも矛盾を定式化できるが、どういう場合、どの型で解くのがいいのかはよく分からない。第一には、実現したい価値に合う型を選ぶのが良いが、どれでも定式化できることを意識すると良い。取り敢えず、解きやすいと感じるどれかで解くのが、おそらく自分の把握する価値に合っているのであろう。
例:不具合の解決、理想化、新機能生成の例を [THPJ 2012 64項]で示した。
特にTRIZは、実際上、差異解消矛盾の内、不具合解決を不具合の原因除去か原因が起きないようにする方向で解くことが多く、不具合の原因をどのぐらい根本的に考えるかは重要である。しかし、いつも根本的であればあるほど「良い」わけではない。
オブジェクト、粒度、網羅と言う言葉自体は、具体的内容を含まない形式上の三要素であり、五感の知覚範囲、その内容、意味と全く関係を持たない。
これは良い副作用を持つ。良い副作用の一つは宇宙論理学 [FIT2013] になり得ることである。これが成り立っていない知的宇宙人はいるだろうが、そういう知的宇宙人とは論理的コミュニケーションはできず、従って地球人にとっては、論理上は意味がない。
宇宙人に二種類: 根源的網羅思考が成立し対話の成り立つ知的宇宙人と、成立せず対話の成り立たない知的宇宙人がいる [FIT2017]。
全ての知的宇宙人と必ずしも対話は成立しない。地球人は、地球の大きさ、重力、大気、身体の大きさなどに規定された空間時間、属性と、生きていくに必要な属性の粒度を前提として生きている [IEICE2016]。それと同様、他の星の宇宙人は全く別の時間空間、属性の粒度で思考しているだろう。また地球人が、人の種の存続、これに従属する個体の生を価値とし、やっと自由と愛、対象化と一体化もそれに次ぐ価値としようとしているのに対し、他の星の宇宙人は全く別の価値実現のために生きているかもしれない。ここの自由と愛は少し常識と異なり拡張している。後で詳しく定義するが、対象化、自由を、人がオブジェクトを操作する態度と行動とし、一体化、愛を、相手の人や他オブジェクトを自分と一体として扱う態度と行動としている。
何らかのコミュニケーションができてもできなくても、食料不足の地球人がその宇宙人を殺して食べていいか?という問題は残る。これは地球上の他生命を殺して食べていい理由がよく分からないのと同じである。感情を表明しない植物などの生命なら殺して食べていいか?勝手に品種改良していいか?絶滅さえ防いでやればいいか?
良い副作用の二つ目として、根源的網羅思考のベースが形式的なため、定式化も形式化容易で、問題分割も形式的に階層分割によって行うことができることがある。したがって、これはコンピュータ化にも、すべての凡人にも有用になる。
1) 事実とオブジェクトの認識の順序
11) 事実が先にある
まず、事実があると考える。論理の単位であるオブジェクトは、事実から知覚によって必要なある粒度で切り取られ表現される情報である。つまり、一般的に、客観的事実が先にあり、それを主観が情報として把握すると考える。思考の中の論理は、この論理の単位であるオブジェクトによる。
12) 認識はオブジェクトの知覚から始まる
ところが、単なる事実の把握は、(個々の一人の)自分が知覚によって把握した情報から得られている。従って、単なる事実の把握は、まず、頭の中で(事実から切り取られた)ある個々の情報の把握から始まり、次に、それらを合成した事実を把握するという順序になる。実際にこういう把握が行われるには、生まれて以来のものや運動の学習の歴史がある。生まれた赤ちゃんには意味のない画像や音列があるだけである。
13) 認識はオブジェクトの知覚から始まるにもかかわらず、事実が先にあるとする理由
認識は(事実についての)個々のオブジェクトの知覚から始まり、これから事実の把握をその後に行うにもかかわらず、事実が先にあるとする理由は、この方が、次の二点を説明し易いことである。
この立場はプラグマチックで、検証が済むまでは全ては仮説の集合であると考える。そして検証はなかなか済まない。それに一人で検証するのは不可能である。・ 人が存在しなかった昔、思考世界、観念のない純粋に客観的事実、客観世界があった時がある。この時にも歴史はあった。
・ 人が登場して以降、客観的事実,客観世界と、人の観念や人の歴史が、お互いを含み合う双方向入れ子ができるようになる。事実とは、今では、現実の実生活のものだけでなく、思考世界や歴史を含んでいる。現実に、客観世界だけでなく思考世界も含めて考える。客観的事実と観念は、何重にもなった複雑な入れ子構造になっている。
もし、事実は客観的に実在せず観念の中にだけあるとすると、この二つのいずれも説明できず、従って人の認識が歴史的に進んで行くことを説明できない。これは本稿で行っているような物々交換の開始の運動を説明できない。
2) 事実とオブジェクト、属性
(存在間の)関係 、(存在間の)作用、(一つの)運動、(時間軸上の)過程、(結果としての)変化は、同じものを違う側面、粒度で見たものである。
関係は、エネルギーによって運動に変換される。運動には、物理的運動だけでなく、化学反応、生物学的運動、社会的運動、思考、議論なども全て含まれる。
客観世界の場合も人類の生きることにも共通なことがある。
1. 何事も、始まりとその後の運動の歴史がある。ある事が終わったように見える時もある。
2. 二項(のモデルで)の(外部または内部の力が作る)差異とエネルギーが、始まりを含んだ全ての運動を作る。客観世界の近似モデルは、客観世界自体にはなく、変化が起こった歴史的経過の認識モデルがあるだけである。だからそれを書く。客観世界は、エネルギーを別にすると、そのモデルは、
「(ある粒度での(その粒度は後から分かる))差異が生じ運動が行われる」 (これだけである)今、語られている宇宙や太陽系や地球の生成の歴史は、差異により運動が起動されて起こった「結果」か複数の物事の両立の「結果」の記述だけである。粒度は後から分かる。(これに気づくのに一日かかった)
運動について分かっている前提を整理する。
実用上、運動しているかどうかの認識は、通常は、変化を観測できるかどうかによっている。その上で、運動を、ある状態にあり、同時にある状態にないという「論理的」矛盾として理解する。運動を直接観測できない観念について、やむを得ず、変化が観測できれば、運動と理解することによって思考や感情の運動を扱う。
一般的運動の場合、変化の観測を用い、その属性が「ある状態にある」と同時に「ある状態にない」ということを次のように表現することができる。これは、運動の構造を示さない、最も粗い密度での運動表現で、論理的矛盾に似ている。通常の意味の論理的矛盾ではなく、「論理的矛盾」的矛盾、ないし「論理的」的矛盾であるが、これを「論理的」矛盾と書くことにする。
Aが一般的 (位置的、機械的、化学的、有機的、生物的、社会的) 運動をしているとする。
ある時点t で、Aがcという値の「ある状態」にあり、時点t +冲で、Aがcに等しくないc +冂という値である時、Aは「ある状態にない」。
冲 をゼロに近づけていくと、冂がゼロに近づいていき、冲 をゼロに限りなく近づける極限で、冂がゼロに限りなく近づいていくことを、「ある状態にある」かつ「ある状態にない」という。オブジェクトの組み合わせであるオブジェクト世界が、現象に対応する。変えられるものは認識できるものの中にある。 [FIT2004, 05/2] [TS2008, 12]
図2.1 オブジェクトの構造 [TS2008]
オブジェクトは、事実から知覚によってある粒度で切り取られ表現される情報である。
オブジェクトに、
1. 存在; システムオブジェクト、と
2. 相互作用(=運動): プロセスオブジェクト、
の二つがある。
さらに種類という面から、存在を、ものと心(自分の心と、他人の心のうち認識可能な物理的実体に担われるものか転換されたもの)に分ける。
オブジェクトを訳すと「対象」である。ここでは、オブジェクトを上のような特別な意味に使っている。今、扱う対象がオブジェクトである。
オブジェクトは、機能と構造という面からは、粒度によって全体から切り取られ、属性を持つ。
属性は外部に対して機能となる。つまり属性とはオブジェクトを具体化して表現するものである。属性は、内部構造と(狭義の)属性を持ち、値を持つ。オブジェクトの構造把握は,変更すべきものを決める基礎を与えるため実用上も重要である。
(内部構造)
構造とは、要素である下位のオブジェクト,その数,その間の関係である。
次の注意事項があり、常識と異なるかもしれない。
ものや観念である存在だけでなく、運動、過程も、属性や機能も要素である。したがって、従来は空間構造に限っているが、時系列の時間構造も、機能構造も構造と扱う。
オブジェクトの構造図で、内部構造−属性−機能の関係は、オブジェクトが空間的にそういう構造をしているわけではなく、また単純に時間構造を表しているわけでもなく、機能上のつながりの構造を表している。
空間構造、時間構造、機能構造のどれも、直列、並列、階層、入れ子、それらの組み合わせ構造がある。これは主なものに限っている。構造の論理的網羅はまだできていない。
(属性、値)
このオブジェクトの属性は,(狭義の)属性 (量と質,(さらに狭義の)変わりにくい属性と変わりやすい状態)と、オブジェクトの内部構造(要素である下位のオブジェクト,その数,その間の関係)である。
(狭義の)属性は,外部に対して機能となりうるものである。(狭義の)属性の数だけ機能がありうる。
属性が現実化して外部に機能として現れると言ったのは、USIT元祖のシカフスである。オブジェクトは無数の属性を持つが普段は眠っている。ある時それが現実に機能として現れる。要素を含む内部構造(形式)の変化は,複数の(狭義の)属性(内容)を変化させうる。[TS2008]
ここでの「値」は、(狭義の)属性の場合、温度20度のような量的な、または赤のような非量的なある値で表現される。色を属性とした場合、赤、青は、量ではないが値である(波長を量で表せるが)。
「値」は、内部構造が細胞分裂の時のように変化しつつある時は、内部構造の具体的状態である。
また、変化しているかどうかは、粒度に依存し、粒度は視点に依存している。
(狭義の)属性は外部に対しては機能となり、変化しやすい状態としにくい(最狭義の)属性からなる [TS2007] [TS2008]。
状態と(最狭義の)属性の差は、相対的で、風呂の場合、普通、水位は状態、バスタブの形は属性と扱うが、バスタブの色はどちらでも扱える場合がある。[THPJ2012]
[TS2008] で、この属性を直接変更する方法に、オブジェクト変換原理 U、オブジェクト変換原理 P、オブジェクト変換原理 D、オブジェクト操作方法Rがあることを示した。
今の私の価値と属性は、次のような連鎖を経た相互規定の関係にある。
今の行為の目的は、無意識の価値を具体化したものになっていて、価値は無意識の行為を規定する。
何かの意味は価値に規定されている。機能は運動、行為の意味である。
また、属性は、機能に一対一に対応する客観的なものである。そして、究極の価値からより粒度の細かい価値が展開され、これが具体化され目的になり、
この目的が目指す意図する私の機能と意味から、
1) → 意図しない私の機能と意味→ その可能性の機能と意味、属性、
2) → 他人の機能と意味→ その可能性の機能と意味、属性
という属性に至り、
価値 → 目的 → 機能 → (単なる) 意味 → 属性
という大きな階層ができる。
それぞれにも、究極の価値→より小さな価値といった階層、目的の階層、機能の階層がある。
こうして、主観的なものが、次第に客観的な属性にまで長い歴史の末に展開される。[THPJ2012改]この逆の流れもある。
究極の価値も日常の意味の歴史を総括しても得られ、今の目的が、大きな価値、今の物事の意味の総体に規定されてもいる。
上の系列の矢印は逆向きでもある。
価値 ← 目的 ← 機能 ← (単なる) 意味 ← 属性 [THPJ2012改]。
3) 粒度
目の前の膨大な事実の中から、今、思考で扱うオブジェクトを特定するのが粒度である。
「何」の「どういう属性」を「いつ」を扱うかが問題である。この「何」の「どういう属性」を「いつ」扱うかを指定するのが粒度である。粒度とは、オブジェクトの認識、変更像、行動の影響の及ぶ空間、時間、属性の範囲である。
正確には、オブジェクトの空間的範囲、時間的範囲と、無数の属性の中から着目し選んだある抽象度の属性である。これらが後に述べる網羅に相互規定されて同時に決まる。空間時間は簡単に分割してその中から粒度を指定すればいいように見えるが、必ずしも簡単に行かない。
時間の粒度は状況に依存し、普通は「そのものの始まって以来の全ての歴史、今、これから」の三つでまず網羅し、後はこれを必要に応じて細かくする。
空間の粒度は状況に依存し、まず「ここ、全宇宙」の二つでまず網羅し、後はこれを必要に応じて細かくする。
実際には、普通、人は関心を持つ価値の空間時間の粒度をあまり意識せずに決め、次いでそれに関係する事実の粒度をあまり意識せずに何となく決めてしまう。例えば自分がどの位の時間をかけて何を入手したいのかにより、変更する事実の空間時間は決まる。
根源的網羅思考とは、無意識のうちに決めるのでなく、素直に感情により,かつ論理的に意識して決めようとする思考である。属性は難しくてよく分からずうまく定式化できない。何かのオブジェクトの内容のうち、空間的規定と時間的規定を除いた全てのものが属性である。
オブジェクトは無数の属性を持つ。機能だけが属性ではなく、機能、構造はいずれも属性である。次の簡単な例を参考にしていただきたい。例: 日本における虹の七色。虹の「7」と「それぞれの色の属性粒度」は同時に決まっている。[HDK] [THPH2015/01]
空間的範囲と時間的範囲の間には経験的な法則性があり、一般的には、片方が大きくなると残りの片方も大きくなる傾向がある。
例: 人間,生命の種:1000万年,100万年、社会:100年、人間,生命の個体:10年-100年。[THPJ2015/1] [FIT2005/2] [TS2008] [TS2012]
他の概念を再定義する場合は、なるべく従来の意味を含むように行っているが、この「粒度」の意味は、辞書に載っている「粒のギザギザの程度」という意味と大きく異なる。ここでは、再定義の意味を、ソフトウェア分野で使われているものを拡張した。
面、側面、階層などを再定義することも考えたが誤解される恐れがあるので使わなかった。
視線、視点というのは、態度に相当する語である。視線、態度によって決まるのが粒度である。しかしこの語は空間にとらわれすぎる。
階層という語が近いが、これも空間、時間にとらわれ過ぎ、また、やや概念が広がり過ぎる。
外延、内包を合わせた概念にも近い。
時間空間という粒度は、語そのものに明示的に示されない。今までは意識する必要はなかったからであろう。
そして粒度の定まった粒と粒の関係が論理である。論理を成立させる粒と粒の双方の内容を決めるものが粒度である。粒度の定まった粒を、粒度ということもある。
粒度設定を間違うと論理は必ず間違う。
思考の大半は、意識していようがいまいが、意味のある論理の成り立つような粒度を決めることが占める。残りが、論理を進めて行くことである。
ひょっとしたら、粒度をきめることと論理を進めていくことは同時進行過程かもしれない。オブジェクト、粒度、網羅の全体は、複雑な階層の入れ子構造を持ち、ミクロな世界から宇宙の運動に至るマクロな世界を扱う。
オブジェクトが、一つの小さな石の場合と、複雑な構造体の運動の場合とでは、それと同時に決まる粒度も網羅も大きく異なる。
粒度特定には、大きく分けて、網羅による方法、外から言う方法、内から言う方法、がある。
網羅による方法には、空間的網羅による差異表現、時間的網羅による差異表現がある。空間的網羅による差異表現は、オブジェクトまたはその種類の網羅により全体が他とどう違うか、を言う。
時間的網羅による差異表現は次のようなものである。
時間的網羅の粒度と本質:
時間的範囲を極限まで広げた網羅がある。極限まで広げたこの時間粒度の中で変わらないものが本質である。
この粒度では、あるものは、あるものの本質の生成とその運動の過程の総体である (運動の中で消滅する可能性もある)。
あるものの本質とは、こういう再帰性に耐えるもののことだ。この本質は変化する可能性があり、変更し得る。このやり方で述べたのが、技術や制度の例である。
本質の記述例:
技術とは、技術手段とそれを生成する過程、それを利用,運用する過程の総体である。[TJ200306] [TS2008-09]
制度とは、共同観念の共有とそれを生成する過程、それを利用,運用する過程の総体である。共有は関係の一種である。[TJ200306] [TS2008-09]なお、人と世界の外界の働きかけを媒介するものは、もの(技術手段)か共同観念かであり、かつこの二種で網羅されている。
また人間の世界の認識は、体系的認識である科学と、一体的認識である芸術の二つで網羅されている。[ouyou1990]外から言う方法は、外部に対しどういう他と違う作用、機能を持つかを言う。
内から言う方法は、他と違うどういう内部構造(要素の粒度と要素間関係)を持つかを言う。[TS2012]あるものの定義とは、そのものの本質についての粒度特定である。
4) 網羅
網羅 [注] は、全体のオブジェクトを、抜け(と、重なり)の無いように個々の要素のオブジェクトで数え上げることである。
「重なり」が無いことが必要なのはどういう場合かはよく分からない。[注]: 網羅は、デカルト「精神指導の規則」原著1701.の?enumeratio”の訳語で、同書の野田訳, 岩波文庫, 1950.では「枚挙」となっている。ラテン語?enumeratio”は、英語ではenumerate, enumerationに相当する。numerate, numeration(数える、数えること)に、「すべて」を表す接頭辞eが付いた語である。
論理に用いる適正な粒度は網羅された中から選ばれるべきで、同時に網羅はある粒度に拠って行われる。
つまり粒度と網羅は、同時に定まる矛盾である。
粒度、網羅に関する多くの矛盾については、[THPH2015/1]などで詳しく述べている。
オブジェクトの特定は粒度によるので、オブジェクト、粒度、網羅も、同時に定まる(三項に拡張した)矛盾である。時間の粒度は状況に依存するが、まず「そのものの始まって以来の全ての歴史、今、これから」の三つでまず網羅し、後はこれを必要に応じて細かくする。
空間の粒度は状況に依存するが、まず「ここ、全宇宙」の二つでまず網羅し、後はこれを必要に応じて細かくする。
空間時間、属性の網羅は難しい。実際には、全体の中の位置を把握しておくにとどめないといけない場合が多いが、理想はあくまで網羅をすることである。
網羅に、
1. 閉じた世界の個別の網羅である網羅に物理的網羅と、種類,型の網羅である論理的網羅 (例: 生命の種などの種類)がある。2. 今まで言い忘れてきたことだが、さらに難しい網羅がある。
それは「2.7 根源的網羅思考のまとめと使い方 2) 粒度の説明と方法 21) 粒度を意識するタイミング(今の根源的網羅思考と時々行う根源的網羅思考)」などで述べる事実自体の空間的複雑さ、事実自体の時間的複雑さ、ある現象に関係しているのがどの現象なのか、自分が価値としているものが事実のどういう粒度と関係しているかがよく分からないこと、世界の事実は日々変化し人の認識も変化しており可能な価値も時間をかけて変化していることなどにより、一直線に並ぶいくつかのオブジェクトの網羅のように簡単にいかないことがほとんどである。網羅の対象も複雑な構造を認識して後、決めなければならないし、その構造も、単純な直列、並列だけではないことが多いのである。
閉じた世界の特定粒度での網羅は(網羅の粒度が決まっていれば)比較的容易である。
また幸い、種類,型が網羅可能である場合がある。オブジェクトの分類結果を、存在に対しては、種類といい、運動(関係)やオブジェクトについての判断である命題に対しては、型というように使い分ける。
同じ型には同じ形式的処理が、異なった型に対しては異なった形式的処理ができ、かつ型の総和が全体を網羅する両立矛盾が、型の数だけある。この矛盾を満足する分類結果が型である。
例: 運動と矛盾の型 [THPJ2012 52,53,6項]、
例: オブジェクト操作の7つの型 (4つの変換D,U,P,M と 3つの操作R。 U,P,M は図2.4 項−運動(関係)−項のそれぞれを操作する方法である。[TS2009])、
例: 差異解消の、新機能追加,不具合解決,理想化の三つの型 [TS2008]
粒度と網羅は普通意識されていない。これが意識できれば凡人も大きな貢献ができる。[TS2012]
2.3 根源的網羅思考とは? その1:全体または本質を指向する思考
根源的網羅思考が全ての根本にある。
根源的網羅思考は、矛盾モデルを使う方法である。根源的網羅思考と矛盾モデルが併せて弁証法を作る。
つまり、思考は、認識又は事実変更の目的を達成するために、矛盾モデルと根源的網羅思考により行う。
その中で、根源的網羅思考は、内容的には、粒度を管理し、矛盾モデルの運用、運動により、事実と価値のより大きな全体と本質、価値を求め続ける思考である。
根源的網羅思考は、方法的には、仮説を立てそれを検証する過程を続ける、演繹や帰納を包含する思考である。
つまり、認識も(原理や法則の認識も)、変更も(事実の「問題」解決も)全ての思考は、根源的網羅思考を用いた矛盾モデルの運用、運動による。
1. 根源的網羅思考が始まるきっかけは、何か感じる、何か読む、何か書くことである。
その感じる、読む、書く内容に、何か足りないという無意識の感覚、および、意識的に根源的で網羅的なもの、全体を求める思考が、思考の原動力になる。
意識的に根源的で網羅的なものを求める思考は、今でも対象化されていて、すぐにでも AI に乗ることができる。
ただ、網羅されたデータベースが前提となり、その自動生成には時間が必要であろう。
何か足りないという無意識の感覚は、まだ対象化されていないが、これもいずれ対象化される。2. 根源的網羅思考は、事実と価値のより大きな全体と本質を求め続ける思考である [TS2012改]。
(再帰的で分かりにくい表現だが)全体と本質とは、意志のある誰もが(または全てのものが)、どこでもいつでも全てのものの「価値」をお互いに高めて行く客観と、その主観的な実感である「幸福」の二つの両立であるような、価値と事実、主観と客観の統合を行う全体と本質である。意識的な根源的網羅思考の方法は、単純化すると、仮説を作り、この仮説が既存のものと両立する粒度を求めることである。
その結果、両者の弁証法的止揚が行われ新しい結果が出る。
今の思考、議論はこうなっていない。だから自分の思考は進まず、議論は自分の意見の押し付けになり、相手の意見が自分の意見と同じだと安心し、違うと全面否定することが多い。これは思考や議論、民主主義の基礎として新しい重要な思考と考える。
根源的網羅思考は、仮説設定、思考、民主主義の基礎である。
根源的網羅思考が難しいということは、民主主義の実現が実は難しいということである。ここで「全体、本質」というのは、何かまだよく分からない、事実と価値についての「全体、本質」で、いつまで経っても「よく分からない」故に、常に求め直し「続ける」態度が必要である。
全部を求めない限りその一部も求められない。全てはお互いに関係しあっているからである。
図で表すと分かることが多いのは、このことの表れである。
全部を完全に求めることはいつまで経ってもできない。だから、努力をいつまでも続けるしかない。
理想を、ある状態だと考えると、つらい努力を持続してもいつまで経っても理想は得られない。
理想を、努力の過程だと考えると、理想は常に得られしかも理想の状態に常に近づいている。
同時に全てを求めようとする努力が不可欠であり、そうしていると全ての姿が次第に明らかになっていく。
根源的網羅思考を、ゼロベースで無意識に行うことは不可能である。
思考方法、世界観、世界観が規定する価値観、潜在意識は、生まれて以来「教育」やマスメディアに刷り込まれていて、知覚、生理さえその影響下にある。
人の判断のほとんどは、無意識の知覚、生理、潜在意識化で、半ば自動的に行われているらしい[ES]。
自分の知覚、生理さえ絶対化できない。絶対化してはならない。
知覚、生理によりながら、それをも相対化する入れ子の意識が必要である。
凡人には困難だが、同時に凡人にしかできない。2013年以降、それをやろうとしている。何かの「全体」を常に求め直し続けることが必要で重要だということの再確認、その「全体」を求める方法の検討、どんな短い文でもそれが「全体」を表現しているようにすること。
これが重要であると気づくが、実現は難しい。
読むこと、読み直すことは、考えることで、ゼロベースで考えるとは、根源的網羅思考によって全体を根源的網羅的に求め続けることである。
根源的網羅思考の良いところは、あらゆる書かれたものの全体構造が、自然に透けて見えてくることである。
そして今までの既存の意見とは違う結論が出る。
2.4 生きることの全体
1) 今の人類の生きることの全体像
生きることの全体像は次のようなものだと考えている。
全ての生きる要素の網羅をすると、近似的に、世界観把握、価値把握、これらによって決まる潜在意識,態度、粒度の決定、論理、以上による認識と行動と考える。
認識と行動は、文化(文明)の媒介を経て行われる。ここで文化を、従来の文化と文明を合わせたものと考えている。世界観は今までの歴史を総括し今の世界がどのようなものであるかを把握し、それにより実現する価値を規定する。
そうして、実際には相互作用のある要素を一方向と近似すると次のようになる。、
生きること = (知覚) ⇔
((世界観、価値観)⇔ (潜在意識、態度、感情) ⇔(粒度決定、論理,方法、決定像)) ⇔
(文化・文明の支援による認識と行動)、
の繰り返し。これを図に表す[FIT2016改 ]。
このモデルで、物々交換により文化が成立して以降の、数千年間の歴史を表す生命進化に似た自然現象と、人の意図的行為のモデルの二つの粒度のどちらも表現できるようになった。
あくまでも最近の人類の約六千年間のモデルである。
図2.2 人類の生きる構造 (FIT2016を改良、FIT2017スライド)
生きることから実際の知覚、認識像、行動像、認識、行動を取り去ったものが生き方である。
生き方 = (世界観、価値観、潜在意識、態度、感情) ⇔ (粒度決定、論理(方法))
となる。
論理が世界観、価値観、潜在意識、態度、感情と相互作用する。
根源的網羅思考は、この論理の一部であり、同時に生き方の全てを規定している。世界観、論理(方法)が、従来、哲学と言われてきたものである。生き方のうち、意識的に変えられるものが哲学であろう。
価値観、潜在意識、態度は、主に無意識的に世界観が作るので、世界観の重要さがあると思う。 [FIT2013,16,17] [CGK2017]
生き方、世界観、価値観には、時代に共通の教育や、常識、マスメディアで作られる共有のものと、個人のものがある。
世界観、価値観は、普通、無意識の内に作られている。個人の世界観、価値観は、時代に共有されているものと99%同じである。
共有されていない1%が世界を変え新しい時代を作っていく。ここで考えるのは新しいあるべき世界観である。
世界観は、
1. 歴史、
2. 現実が客観的にどういう機能と構造をし、主観的にどういう基本概念でとらえられ、人はどういう法則と方法で認識と変革の努力をしているかという現実像、
3. 未来像
を統括した大まかな像である。
世界観、価値、現実、基本概念、法則、方法が定期的に意識すべきオブジェクトになる。
従来の哲学 (世界観、方法) は役に立たなかった。
そのため、どうしても、
1. 世界観を見直し、
2. 世界観構築の方法でもある矛盾の概念と構造の見直し、
3. 粒度を管理しより大きな全体を求め続ける進化の構造を内蔵した根源的網羅思考という新しい方法を作り上げ
なければならなかった。
論理と歴史から世界観が作られ、新しい価値が作られる。論理、方法を、矛盾と根源的網羅思考として提案している。
ゼロベースでの、客観的世界と人の (世界観、価値観、潜在意識、態度) の最小の世界モデルとしての,矛盾と、新しい論理 (方法)としての,粒度管理を行う根源的網羅思考を提案している。
[FIT2013では初めてその全体像を述べた] [THPJ2015/1, 2, 3は総まとめである]世界観、価値、現実、基本概念、法則、方法は相互規定の関係にあり、矛盾と根源的網羅思考が、世界観、価値、現実、基本概念、法則も規定する。
直列、並列、その複合体である木構造のトポロジーをなす相互規定だけでなく、何層もの入れ子ができている。
つまり、一つ一つ、順番には分かっていかない。本質的に、並列に矛盾として同時認識される。
注意していただきたいのは、ここではカントや三木清などを含めた昔の哲学者の考えてきた先験的な判断というものは考えないということである。
2) 既存の事実の扱いの全体像
「生きる」ことを極端に近似、分類すると三通りがある。[FIT2016]
1. ゼロベースで物事を新たに作る, 運用する。
2. 既存の物事を作り替え, 運用する。
3. 既存の物事を変えないで運用するのみ。生きることがこの三つで網羅されているというのは近似である。「作る」と「運用する」の区分も曖昧である。
それに1 は実際にはない理想であり、2 または3 だけがあるだろう。さらに、2 または3 と言っても、ある行為は、それらの中間、または混合で、また別のある行為は、別の中間、または別の混合である。理想的には、1 の「ゼロベースで物事を変え」て理想像を作り、その実現は、この理想像に現実的に近づけるような 2 または3 がよい。
要するに、常に、画期的で現実から離れた理想像を考えたほうが良い。そして実現は当然、既存の現実や資源を活かしながら現実的に行う。
しかし容易に実現できる当面の小さな価値の実現が、理想の大きな価値の実現を害してはならない。特に『大変革時代』の今はそうだと思う。
3) 今の課題の全体像
・ 人に何が必要か、どう生きればいいのか?
それは、ポスト資本主義を作ることと、新しい生き方を作ることである。この二つは同時に行われる。
新しい生き方は、客観的価値実現と、主観的「幸せ」の統一である。・この人類の歴史を貫いている「基本法則」「基本原理」があるのではないか?
・それらの方法は何か?
この三つは同時にしか求められない。
また、個々の結果もさることながら、その前提の、同時に求める過程が不可欠でかつより重要であることが大きな発見であった。
2.5 価値の全体
1) 価値の全体像、 系列: 1.種の存続、2.個人の生物的生、3.生の属性である自由と愛
人々の価値認識は多様であるべきだが、「種の存続、個人の生物的生、生の属性である自由と愛」は、この順に重要であることが前提として共有されるべきである。
しかしこの共有されなければならないものと、多様であるべきものの区分けは、実際には明確になっておらず、実はまだよく分からない課題が多い。
宇宙の存続は前提としている。種の存続については、次のような事実認識の判断が人によって大きく異なる。[FIT2017]
例1: 直径数十メートルクラスの小惑星は月と地球の間を、年平均三個通過している。西暦2135年に直径500メートルの小惑星ベンヌ(101955 Bennu)が2700分の1の確率で地球に衝突する。
HAMMER(Hypervelocity Asteroid Mitigation Mission for Emergency Response vehicle)と名づけられた宇宙機を用いる方法が検討されている。HAMMERを物理的に小惑星にぶつけて小惑星の軌道を変える方法と、HAMMERに搭載した核爆弾を爆発させることによって軌道を変える方法が考えられている。
[https://news.mynavi.jp/article/20180322-604582/]
遠い将来の話か、小さくて無視できる確率か?例2: 6500年前の恐竜を絶滅させ、地球上の殆どの生命を死滅させる規模の小惑星衝突は3,000万年に一度の確率で起こるらしい。3,000万年後ではない。
小さくて無視できる確率か?例3: 日本で十和田湖や鹿児島湾を生み出したような火山のカルデラ噴火が起こる確率は100年で1%くらいらしい。大雑把に世界に広げると10年で1%くらい、1年で0.1%くらいであろう。この確率で全地球で長期にわたり太陽光が雲に遮られる。これは日本だけが原因となる数値である。
例4: 大規模太陽嵐、太陽フレアは、地震と異なり過去のデータが保存されていない。1000年に一度程度の確率で、国をまたがる停電が続く規模な大規模太陽嵐、太陽フレアが起こっているらしい。
これらは、「全国」あるいは地球規模で長期にわたり、再生エネルギーが(場合によっては電気が全て)停止する事態が起こり得ることを示す。数百年後には化石燃料は枯渇する。オゾン層の減少、宇宙線、磁気それ自体と、それらの相互作用が、人の健康や大気に与える影響もある。
例5: 月は地球の衛星である。他の衛星と異なり、月は相対的に地球にとって大きい衛星で、その地球との距離と公転が、地球の自転速度に及ぼす影響も比較的大きい。徐々に、地球との距離は遠くなり自転速度は遅くなっていっている。これが、内部のマグマ運動、ひいては地殻変動や地震、火山活動に影響を与える。
個の生も課題が多い。
「人は、皆、平等である」という命題は、歴史上、多くの人が血と汗を流した努力の結果で得られた。
人種、性別、宗教などによる価値の区別はなくなった。
これは画期的であった。しかし、なかなか難しい命題である。プラグマティックに言うと、人それぞれの価値は等しくない。
まず、人の生の価値とは、今後のその人の人生の価値である。
従って、一般的に、老衰で死が近い老人の生より若い人の生の方に、より価値はある。これが、どういう理由によるどういう差なのかは、今まで明示的には表現されていないと思う。暗黙裏に了解されているだけで、明示的に表現しない方がいいかもしれない。次に、人それぞれの価値を増す力は、プラグマティックな価値の差を生む。
人がこれからどういう価値を生むか分からなくても、全て生きる意味があると考える。
大きな価値を生む努力する生き方が望ましい。
ただ、これでは次の問題の答えが出ない。
本稿の「今後の課題」として、努力する人としない人の二極分化の恐れを述べた。例1: 歳を取り、労働から引退しギャンブルで遊びほうけるとする。もう充分働いたから社会の価値を増す行動はしなくてよいか?
例2: ギャンブルでなく、旅行をして経済的な活動をし、相互交流をすれば、それなりの価値貢献はできる。それでよいか?
例3: 自分で動けなくなり、人の介護が必要になったら価値貢献は少なくなり生きていくための費用が増えていく。
もっと極端な場合、常時の介護が必要になり、コミュニケーションができなくなった時、この人は何の価値も生まないように見える。この人に生きる意味、価値があるか?あるとしたらどういう意味、価値か?
何年か前、相模原で、そういう人は安楽死させるのがよいと大臣に提案し、聞き入れられず介護施設の入居者19人を殺害した人がいた。この「犯人」はどういう意味で間違っていたのか?コスト重視なら相模原殺害は正当化され得る、だからコスト重視でないポスト資本主義は必要だが、積極的理由になっていない。
事件直後(半年後?)のNHK特集では、全く犯人批判の理由が述べられておらず、「患者」が、残ったものにとって「大事な」存在だったという例が述べられただけであった。大事と思わない家族がいることはあり得る。その場合、どうなのであろうか?それに大変なコストはかかる。
事件の2年後のテレビ特集では、やっと、「患者」の人間性を伸ばす努力が行われていることが述べられた。コストはかかる。
この問題は、これともやや異なる課題である。
地球人以外の宇宙人の存続と宇宙人固体の生、地球上の人以外の種の存続と人の固体の生をどう扱うか不明である。
種の存続と個人の生物的生という運動を前提として、次に来る価値は、その生の属性である。オブジェクトの属性も下図に示すように、オブジェクトの外部に対する運動となり、その意味が機能(または反機能)になる。
生の属性として、自由は、対象化を目指す方向の価値、愛は、一体化を目指す方向の価値であり、対等の重要さを持つ。
大きく長い空間時間の価値が、小さく短い空間時間の価値の前提になっているので、より重要度と優先度が高い。そして、価値が目的、機能、属性を規定する。価値の中にも、より大きな価値から小さな価値に至る階層がある。[THPJ2015/1] [FIT2015]
図2.1 オブジェクトの構造 [TS2008]
人の属性は、人の他のオブジェクトとの関係である。この属性ないし関係は、対象化と一体化の二つで網羅される。
人の行為には、対象との向き合い方として没入行為や何かとの一体感を感ずる行為のような一体化の方向のものと、設計のように何かを突き放して扱う対象化の方向のものの区別がある。また行為を左右する精神のはたらき方として感情と論理がある。[TS2006改] [TS2010]
対象化と一体化,批判と謙虚さ、自由と愛は、それぞれ一体型矛盾の二項になり相互に高め合う。
(一体型矛盾の二項は、一般的には、お互いを変化させる)一体型矛盾については後で触れる。[FIT2013, 16] [FIT2015/1] [CGK2016] [NKGW2016] [IPSJ2017]愛と自由 [注] の関係を整理しておこう。
[注]: 最初に自由と愛を対比して論じたのは2009年[TS2009]であった。
人の価値の全体は、機能、属性の客観性,主観性により客観的価値と主観的価値に分けられる。
・ 人の客観的価値は人の外部に対する機能の価値(またはそれと一対一に対応している機能属性の価値)と負荷のマイナス価値の総和である。
人の生命の存在、自由と愛のための努力を短期的な客観的価値とする。
愛は、歴史の流れ、他人・社会、自然との一体感と、他人・社会、自然の向上を願い努力しようとする気持ち、そのための行動である。
自由とは、対象的に認識し判断し行動するための科学的、技術的、論理的、理性的能力と対象的行動である。長期的には、人の生命の存在のための努力、全生命の存在のための努力、自由と愛のための努力と他の負荷と自然負荷(自然の資源採取および自然への廃棄)の少なさへの努力を長期的な客観的価値とする。
さらに持続可能な経済のために、より長期的には採取する自然資源はゼロを目指さねばならない。そのための知見は、今はないに等しい。さらにより長期的には全ての存在がお互いに一体的にあるあり方を求めなければならない。・ 人の主観的価値は、主観の在り方の価値であり、主観と客観の一致であり、これはさらに、
1. 主観と客観の状態の一致として、人の類の中の個という認識、人の宇宙の歴史と現実の全ての人と生命と物のつながりの中で存在できているという自己相対化認識、
2. 主観と客観の運動の一致として、自由と愛という客観的価値が達成されつつあるという実感、それをもたらす態度として、個々の認識における謙虚さ、個々の行為における誠実さがある。
これら主観と客観の一致は全ての行為と思考についてある。[TS2009]まだ2009年には、自由と愛を統一すべき矛盾としてはとらえていない。矛盾と把握したのは2010年[TS2010]である。
対象化は、オブジェクトをオブジェクトとして操作する態度(と行動)である。この意味の価値が、オブジェクトを変更する能力である「自由」である。これは自分だけの価値である。
自由は大きなテーマで、それだけを扱った本も多い。その中では必ず「何々からの」自由、「何々への」自由を扱う見方が扱われる。しかしこれらは、自由が何との関係についてかを言っているだけである。
エンゲルスの「自由とは必然性の認識である」という定義も有名である。サルトルの「ドイツ軍に占領されているとき我れ我れは自由だった」と語ったのも忘れ難い。彼はこの時エンゲルスを思い浮かべていたのではないか。
必要な対象化の価値として「自由」を選んだのは2010年である。対象化して操作できる力が大きいほど、人はより自由になるというのは正しい気がした。これは形式的で中立的な意味を持っている。エンゲルスとサルトルの二つはこの自由に含まれる。しかも「何々からの」自由、「何々への」自由も併せ含んでいる気がした。2010年以来、自由の意味を書き、対象化の価値とした理由を7年経って始めて書いた気がする。
(双方向)一体化は、私と他の生命,ものを含むオブジェクトを包み込み一体化する態度と行動である。この意味の価値を、私と他の生命やものを含むオブジェクトを一体として共に高める愛ととらえる。謙虚な愛の定義が、私と他の生命やものを含むオブジェクトを一体として共に高める態度、意志、行動である。この愛の対象範囲が大きく永続的であるほど、また、自分の態度、意志、行動が強いほど、愛は大きく強い。この意味の価値が、私と他の生命,ものを含むオブジェクトを共に高める愛である。これは、自分のための価値である自由と違い、他人だけでなく全オブジェクトの価値である。[FIT2013]
「愛とは、私と他者が一体であるという意識である」と言ったのはヘーゲルである。ただ、このヘーゲルの言も他者は他の「人」に限定され、人以外の生命、他のものには適用されない。
・ 抽象的な客観と主観の一致としての理想は、やや具体的には、自由と愛の統一、対象化と一体化の統一である。
個々の認識における謙虚さ、個々の行為における誠実さを前提とする。主観と客観の統一は、目指す生き方の基本である。しかし、抽象的である。
抽象的な主観と客観の統一は、具体的な労働と生活の中での、それぞれの個人の一瞬の生き方の理想である、自由と謙虚な愛の統一、対象化と一体化の統一である。ここで、個が、全歴史全世界の中の自分の位置を知った上で一瞬にオブジェクトと一体化、没入と同時にオブジェクトを対象化し、同時にこの一瞬に、客観的に全歴史,全世界の問題解決が進みつつあるという参加の主観における実感が得られる。[THPJ2015/1, 2改] さらに、理想は、自由と謙虚な愛の統一、対象化と一体化の統一により、意志のある誰もが(全てのものが)、どこでもいつでも全てのものの「価値」をお互いに高めて行ける。この客観的価値実現と私の主観的幸せの統一が求めるものである。この客観と主観の一致、一体感が生き方を作る。
これら主観と客観の一致は全ての行為と思考についてである。
・ 理想は、自由と愛の統一、対象化と一体化の統一により、意志のある誰もが(できれば、全てのものが)、どこでもいつでも全てのものの「価値」をお互いに高めて行けることである 。
日本に2016年から2020年までの科学技術基本計画がある。これに言う Society5.0、超スマート社会とは、「必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供し、社会の様々なニーズにきめ細かに対応でき、あらゆる人が質の高いサービスを受けられ、年齢、性別、地域、言語といった様々な違いを乗り越え、活き活きと快適に暮らすことのできる社会」である。[STP 2016] 形式的、抽象的ではあるが、うまく表されており、これが理想である。問題は、「必要なもの・サービス」が何かということである。人によっては、「必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供」することを「監視社会」として非難する。
2) 究極の価値、理想のへの態度1: 全体を求める必要があること
「人は人生論の説く理想のようには生きられないよ」と言う人がいる。そこで述べられる理想が違っているのではないだろうかと思うので、理想について再考する。
一般に、全てはお互いに関係しあっているから、
第一に、全部を求めない限りその一部も求められない。図で表すと全体が見え易く、分かることが多いのは、このことの表れである。また、全ての人が幸せにならないと誰も幸せにならないことはこの例である。
第二に、全部を完全に求めることはいつまで経ってもできないので、関連する全部の努力をいつまでも続けるしかない。
これは空間的関連から述べた理想への近づき方である。
3) 究極の価値、理想のへの態度2: 理想は「状態」でなく運動であること
また、一般に、理想を、ある水準を超える状態だと考えると、つらい努力を持続してもいつまで経っても理想は得られない。
理想を、努力の過程だと考えると、理想は常に得られしかも理想の状態に常に近づいている。努力が不可欠である。
これは時間から述べた理想への近づき方である。空間と時間の二面から同じ結論が出る。関連する全部の課題の努力を続ける必要がある。「大きな問題」の場合、同じ方向の多くの人の努力が要ることになる。
理想は状態ではなく、努力の運動、過程であると言う意味の文が「ドイツイデオロギー」にある。これは「共産主義」の「定義」について述べたところで、「『共産主義』とは「つくりださるべき何らかの状態、現実が則るべき何らかの理想ではない。(中略)現実の状態を廃止する現実的な運動のことである」と語ったところである。[DI p.68]
宮沢賢治が1926年に「農民芸術概論綱要」で「永久の未完成これ完成である」と似たような表現をした。マルクスとエンゲルスは、これより80年ほど早い。
実は、「理想を状態でなく運動、過程である」ととらえることが、生きる態度にどう繋がるのかと自問し、答えが出るのに一日かかった。普通の人には自明なのかもしれないが、分かってしまえば当たり前と思いつつ書いておく。
生きる態度は、今の一瞬の「態度−方法−行動または認識」という連鎖の中の、さらに一番はじめにある。
「態度−方法−行動または認識」の全ての要素が運動、過程であると、より整合的な全体ができる。4) 究極の価値、理想への態度3: 歴史と論理の一致という命題によって、歴史から理想を求めることができる
弁証法の有名な命題によると、歴史と論理は大まかには本質が一致する。[注]
[注]: 明示的に、(ノイズを除くと)歴史と論理は一致すると述べたのは、「哲学ノート」のレーニンだったが、エンゲルスのマルクスの「経済学批判」(1859年)の書評、マルクスの「資本論」の各序文や後書きでも実質的に扱っている。
もちろん、これらの元はヘーゲルである。ヘーゲルにとっては自明なのでもちろん明示的にそう書くことはなかった。彼によれば、物事に内在する論理が展開して現実の運動が行われるので、論理は歴史とまったく一致する。歴史と論理は大まかには一致するという命題は、歴史の中に本質的論理を見つける可能性があることを述べている。
ここから仮説ができる:
歴史から抽出された発展の論理は、理想,価値を作る論理になり得る。
この本質は、扱う歴史の長さ、どういう前提の歴史であったかに依存する。
今の場合の歴史は、偶然かもしれないが、マルクスたちの「唯物史観」の扱っている時間粒度と一致する。この時間は、農業革命後の生産量増大を受けて、物々交換、制度が成立して以来の数千年間である。
5) 昔あった「唯物論」か「観念論」かという問題
昔、「唯物論」か「観念論」か?という問題があった。マルクスは[EPM]の中で、自分の立場は「唯物論と観念論を超える」と述べている。「唯物論」にこだわったのはエンゲルスである。ここでは「唯物論」を事実主義ととらえる。
エンゲルス「フォイエルバッハ論」における「唯物論」という事実主義の意味を検討したことがある。
これに四つの意味がある。1. エンゲルス「フォイエルバッハ論」の第一の定義で、物質と心のどちらが本源的かという問いに、物質が本源的と答える唯物論。これは今、科学で答えられる問題になっている。「哲学」のテーマではなくなった。
2.エンゲルス「フォイエルバッハ論」全体は次のことを前提として述べている。
エンゲルスの「行動を決めるのはいつも心だが、人間の物質的生活の成り立つことが思考、行動の前提である」という立場、粒度から、根本的に物質(とエネルギー)が思考、行動を規定しているとする唯物論。
高原の価値の系列仮説「種の存続―個の維持―個の属性(自由と愛)」の中で、種の存続―個の維持は「物質的」 、個の属性(自由と愛)は「物質的」と「精神的」の両方が対等で入れ子になっている。一元論でも二元論でもなく、1.5元論、1.75元論というべきものである。ただ、この価値系列は仮説である。
3.エンゲルスの第二の定義で、次のように「事実」に対する態度をとらえる唯物論。
「われわれは現実の世界――自然と歴史――を、先人の観念論的な幻想なしにそれに近づく者のだれにでも現れるままの姿で把握しようと決心した。われわれは、空想的な連関においてでなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心した。一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」(フォイエルバッハ論、岩波文庫、p.60)
4.エンゲルスが、「フォイエルバッハ論」で、「世界は、物の集合体でなく過程の集合体である」と述べた事実主義。
以前、「物の集合体でなく過程の集合体」というのは間違いで、「世界は、物の集合体であるだけでなく過程の集合体でもある」のが正しいと思っていた時がある。今は、このエンゲルスの表現は正しいと思う。
これは、やや説明が要る。「世界は、過程の集合体」というのは、第一に、「世界は、物の集合体」というとらえ方が、1の意味の「唯物論」を前提にしているのに対して、「世界は過程の集合体である」という表現は、この前提を必要とせずこれより広い。
第二に、既に述べたように、存在と関係の二種であるオブジェクトが、実際に動き運動して事実、世界の近似の単位である矛盾(=項1−関係(運動)−項2)を作る。項は、もともとは存在として検討が始まったが、拡張され、存在でも関係でもその複合体でもよい。存在は、ものか観念である。矛盾は、簡単にいうと関係、運動であり、関係、過程、運動、作用、変化は同じものの粒度の異なる表現である。従って「世界は過程の集合体である」という表現は正しい。
1は、哲学の領域から科学の領域に移り、2,3,4だけが態度、哲学として有効ととらえる。
つまり、1の意味での「唯物論」という「哲学」はなくなっている。科学といえども仮説なので、科学的論証、実証がされれば変わり得る。
また、2はものと心の1.5元論、ないし1.75元論である。3は事実主義と言った方が良い。これは完全に生きる態度として正しい。4にも賛成する。
3と4は、「事実主義」である。3が態度としての「事実主義」、4が事実としての「事実主義」の意味であると思う。以上は世の「唯物論」批判でもある。
繰り返しになるが、前に述べた事実についての記述を一部もう一度述べておく。
51) 事実が先にある
まず、事実があると考える。論理の単位であるオブジェクトは、事実から知覚によって必要なある粒度で切り取られ表現される情報である。つまり、一般的に、客観的事実が先にあり、それを主観が情報として把握すると考える。
52) 認識はオブジェクトの知覚から始まる
ところが、単なる事実の把握は、(個々の一人の)自分が知覚によって把握した情報から得られている。従って、単なる事実の把握は、まず、頭の中で(事実から切り取られた)ある個々の情報の把握から始まり、次に、それらを合成した事実を把握するという順序になる。実際にこういう把握が行われるには、生まれて以来のものや運動の学習の歴史がある。
53) 認識はオブジェクトの知覚から始まるにもかかわらず、事実が先にあるとする理由
認識はオブジェクトの知覚から始まるにもかかわらず、事実が先にあるとする理由は、この方が、次の二点を整合的に説明し易いことである。この立場は古き「唯物論」的でなくプラグマチックである。
・ 人が存在しなかった昔、思考世界、観念のない純粋に客観的事実、客観世界があった時がある。この時にも歴史はあった。
・ 人が登場して以降、客観的事実,客観世界と、人の観念や人の歴史が、お互いを含み合う双方向入れ子ができるようになる。
事実とは、今では、現実の実生活のものだけでなく、思考世界や歴史を含んでいる。現実に、客観世界だけでなく思考世界も含めて考える。客観的事実と観念は、何重にもなった複雑な入れ子構造になっている。
6) 価値の役割
価値とその役割については、[THPJ2012] [THPJ2015/1]で論じた。一部再録する。
価値は、実現とそのための行動に関し、次のような役割がある。
第一に、価値は、多くの場合無意識に、その重要さにより実現の優先度を決めてしまうので意識しないといけない。
意識的に重要度を出して実現の優先度を決めることを提案する。
重要度緊急度は個別の値を求めた後、全地球、国などについて各項の積の和を作り各案の比較をする。
a) 例えば今後30年間の、一人の生については 1 (とりあえず若者と老人などで同じとするが実際には異なる) とする。
b) 生の属性である自由と謙虚な愛について一人ずつに対して0〜1 とする。[THPJ2015/3] [FIT2015]第二に、価値は、多くの場合無意識に、実現のための行動の目的を決めてしまうので意識しないといけない。
第三に、価値は、多くの場合無意識の実現のための行動の原動力となるので意識しないといけない。
第四に、行動の結果は、目的を規定する価値、論理、実際の行動の有効さの全体で決まる。
このうち、日常の領域が制度の場合、結論は、論理の「正しさ」よりも価値の粒度 (誰のどのような時間のためという空間時間の範囲、属性) とその全体構造に、実質的に殆ど依存してしまう。第五に、価値とその全体構造は、行動や法則の結果の正しさの検証のために必要である。
しかし、無意識に行われる行為の検証は行われないことが多い。検証の方法は確立されていない。
また、価値は、認識に関し、次のような役割がある。
第一に、価値は、多くの場合無意識に、認知、認識の対象を規定している。
第二に、価値は、認識結果、特に法則や学説の結果の正しさの検証のために必要である。[THPJ2012] [THPJ2015/1]
2.6 根源的網羅思考とは? その2: 仮説設定(「正しい」命題変更)を行う思考
根源的網羅思考は、方法的には、仮説を立てそれを検証する過程を続ける、演繹や帰納を包含する思考である。
まず、一般的な思考、一対一の対話、集団による大勢の討議(以下、「思考、議論」と略す)を整理しておく。
(思考は、前の自分と今の自分の対話である)1) 思考、議論の構造、形式
思考、議論を、個々の「発話」の交換のリアルタイム性、粒度により単純化すると次の何種かを次に示す。
1. 思考、議論の単位が、一語、一文単位。
2. 思考、議論の単位が、文章単位、数文章単位。 例:ブログへのコメント。批評。投書。
3. 思考、議論の単位が、もっと大きな単位。本質的にこの分類の意味は少ない。思考、議論の機能がどのような場合にどの形式が適しているかという問題はあろうが、少なくとも思考、対話に関しては、機能、内容のために、形式はある。
2) 思考、議論の機能、内容
思考、一対一の対話、集団による大勢の討議は、機能としては同じものである。
機能によって、いずれも、思考、対話では、単語、文、文章、その複合から、人は、
1. 情報を与え合い、自分と相手の持っている情報の同一、相違を確認するか、
2. ある事象の全体の中の位置、それが実現する価値を判断し、
31. 新しい感情を表現するか、新しい認識を作るか、新しい行動を作るか、
32. (世界観による個人の価値観、態度、粒度、論理、方法を前提にして)感情を変え、認識を変え、行動を決めるか、
4. 同時に前提となっていた世界観、価値観、態度、論理、方法を変更している。それに強く感動するか、繰り返されると、その像は人の潜在意識に入ってしまう。
理想的には、根源的網羅思考と矛盾による弁証法論理が、少なくとも対象的思考と議論に当てはまるものである。 (一体的認識である芸術についての表出については保留する)
これにより、新しい思考と古い思考、あるいは自分の思考と他の思考が弁証法的止揚、統合されて新しい像ができるか、既存の像が高い段階の像に作り替えられる。
この根源的網羅思考と矛盾による弁証法論理を普及させなければならない。現実はこうなっていないので、あらゆる思考と対話がほぼ無効になっている。
今までの思考、対話の欠点は、既存のものの全否定、全肯定だけであることである。
命題を内容から見ると、存在命題、属性命題と関係命題の三つがある。
存在命題: オブジェクトの存在を表現する。
属性命題: オブジェクトの属性を表現する。
関係命題: 次の三つがある。関係命題は、主部と述部の両立矛盾である。
1. オブジェクトの運動(関係)命題:
オブジェクトの(運動を含む)要素間、属性間関係、(その結果の)変化を表現する。変化は時系列的連鎖を作る。2. 複数のオブジェクト間の(運動を含む)関係命題:
複数のオブジェクト間の、(運動を含む)関係、(その結果の)変化を表現する。変化は時系列的連鎖を作る。3. 条件命題: 二つの属性命題が、条件たる前件と結論たる後件になる場合がある。[TS2011] [FIT2014] [FIT2015改]
3) 文、命題変更の形式
行為を左右する精神のはたらき方として感情と論理がある。本稿は感情をほとんど扱わず論理を扱う。
論理の単位は、粒度(の定まった粒)であり、普通、文という形をとった判断、命題である。世界観、価値、現実、基本概念、法則、方法は、感情面を除くと全て命題で表される。
命題生成と命題変更がある。変更には、同じ属性粒度の別の大きな又は小さな空間時間粒度への変更と、同じ空間時間粒度内の異なった属性粒度への変更がある。[FIT2014改]
[FIT2011] で判断、命題の変更形式を網羅している。
1. 判断の主部と述部の構造そのままで変更
判断の主部、述部の
11. 属性を変化させる、
12. 属性を削除する (より大きな粒度の主部、述部に置き換える)、
13. 属性を追加する(より小さな粒度の主部、述部に置き換える) この例は多い。正しさの説明に例しかないものは殆どこうする必要がある)2. 判断の主部と述部の構造を変更
判断の主部、述部について、同じ述部が成立する主部を網羅し新しい主部とする(より大きな粒度の主部に置き換える) 。こうできると主部と述部は、同じ内容となり、言い換えとなる場合がある。そうして主部と述部を入れ替えると定義になる。
例: 存在は他の存在と相互作用するという命題 (カント、マルクス) から存在の定義を作る、
例: 商品は属性の集合体だという把握を一般化し、商品を存在またはオブジェクトの定義に拡張する。3. 判断のインプット、アウトプットの要素、条件の要素を網羅し変更
判断のインプット、アウトプットの要素、条件の要素を網羅し、それぞれと全体の粒度を極限まで変化、削除,生成する。
例: 質量転化の法則の拡張 [FIT2009]。[FIT2011改]
4) 正しい命題変更、仮説設定を行う思考
命題生成と命題変更がある。
命題変更だけを扱っているように見えるが、その過程における仮説設定が命題生成である。
命題変更の目的は今の命題を正しい命題に変更することである。正しいを「正しい」と書いているときもあるが、これは、正しさはいつも相対的であることを示すためである。命題の変更の起動力は、目的と現実の差異、論理的網羅からの選択である。複数の命題単位で行うためにはこれらから逐次的な推論で行っていく。[FIT2014改]
推論は判断、命題を変更するための逐次思考である。
推論は、
1. ある属性粒度の命題の別の小さな空間時間粒度の命題への変更であるという定義の演繹、
または正しい推論の連鎖による命題変更であるという定義の演繹(客観的な原因、結果あるいはそれの予測像の表現を論理要素とし、原因−結果−さらにその結果の連鎖での命題変更)、[注]2. ある属性粒度の命題の別の大きな空間時間粒度の命題への変更である帰納、[注]
3. 同じ空間時間粒度内の命題の異なった属性粒度の命題への変更
がある。[FIT2015改]
[注]: 世の演繹、帰納の説明は多いがその内容はバラバラである。特に演繹には、大きく上に書いた二つの説明がある。
今まで「演繹は新しい情報を生まない、帰納は正しさを保証しない、だから厳密な帰納である「仮説設定」Abductionが必要」と言ってきた。
この演繹は、ある属性粒度の命題を別の小さな空間時間粒度の命題へ変更するという定義の演繹である。
もう一つの演繹、「正しい」推論の連鎖による命題変更であるという定義の演繹は、条件や、原因−結果の粒度に依存している。演繹が新しい情報を生まないが正しいのは、純粋な形式論理においてだけである。
上の「演繹は新しい情報を生まない」という表現を修正する。[THPJ2015/3] でも詳細な検討をしたがあまり充分ではなかった。
これらを統合しているのが根源的網羅思考による仮設設定である。
命題の全体を仮説として設定し、これが正しいという検証がされるまでの全過程が仮説設定 [DIA][FIT2014] である。
仮説設定は、厳密な1.演繹、厳密な2. 帰納と3. を含む。
同じ属性粒度の別の大きな空間時間粒度への変更も、同じ空間時間粒度内の異なった属性粒度への変更についても仮説設定は同じようにできる。論理的網羅の粒度の正しさが、命題の正しさの程度を決める。
新しい命題の新しい意味が重要さを決める。これら命題は、仮説であり (特に網羅の粒度の)検証を必要とする。
検証を必要とするのは「正しい」と思われている演繹によって得られた命題や法則についても同じである。あらゆる粒度で新しい法則発見、発明の可能性がある。[FIT2015]
これは、C.S.パースPeirceのAbduction 仮説設定 (仮説形成、仮説的推論という訳もある) [CSP1][CSP2][DIA] を、「網羅 [RDI] された中から選んだ矛盾の設定」に置き換えた形である [FIT2014]。
同じ属性粒度の別の大きな又は小さな空間時間粒度への変更と、同じ空間時間粒度内の、異なった属性粒度への変更(演繹と帰納ないし仮説設定)で全ての推論が網羅されるためには、論理的網羅と検証が課題である。[FIT2015]
まとめる。
仮説設定は、厳密な正しい帰納、厳密な正しい演繹を目指す思考である。
扱う対象の網羅ができれば厳密な正しい演繹と、厳密な正しい帰納 (=仮説設定) が可能になる。
一般に物理的網羅は不可能なので、厳密な演繹と帰納は、論理的に網羅された前提で行われる。
論理的網羅とは、種類や型の網羅である。従って、通常、この厳密さ正しさは、粒度と論理的網羅に依存し、粒度と網羅が正しい限り、論理的に正しい厳密な推論が行われ、検証は理屈上不要である。
粒度と論理的網羅を述べることは殆ど行われておらずそれが正しいことの説明は難しい。
実際上検証が必要になる。要するに、「演繹は新しい情報を生まない、帰納は正しさを保証しない、だから厳密な帰納である「仮説設定」Abductionが必要」というのは、やや曖昧なところがあるが、大まかに目指すところである。
また実際の原因-結果による演繹推論は、厳密ではない。
純粋な形式論理である内容のない演繹の場合以外の演繹は厳密でない。
考えること、書くことは厳密な演繹、厳密な帰納を行う「仮説設定」をすることである。
この考えはまだ普及、確定していない。
根源的網羅思考では、(誰がやっても簡単に) 従来の常識と異なり、かつ固定の常識による感情の流れとは無縁の仮説結果が出る。このため、いくつかの用語の意味を限定して使っていることもあって、受け入れる人が少ないという根本的欠点も生む。
この長所と欠点は、既存の世界観、価値観、方法の変更をする場合、ゼロベースで新しく世界観、価値観、方法を作り上げる場合に関わらず同じである。
一般に根源的網羅思考では、(誰がやっても簡単に)従来の常識と異なり、かつ固定の常識による感情の流れとは無縁の仮説結果が出る。
しかし、そのため受け入れる人が少ないという根本的欠点も生む。それだけならまだいいが、周りから孤立した生き方を強いられる恐れがある。
2.7 根源的網羅思考のまとめと使い方 [FIT2013] [THPJ2015/01,02] [CGK2017]
1) 原理
11) 原理1: 論理と粒度についての根源的網羅思考
根源的網羅思考は、オブジェクトの粒度と網羅の見直しを続ける思考である。[TS2012改]
これは思考や議論の基礎として、重要で、すべての人とコンピュータに有用である。粒度と網羅のうち、粒度が本質的に重要である。論理を成立させる粒と粒の内容を決めるのが粒度である。
1.本来の思考の中で、粒度決定が最も重要で、大半の時間を要す。ただし、網羅がないと適切な粒度と論理を見逃す。
思考の大半は、意識していようがいまいが、意味のある論理の成り立つような粒度を決めることが占める。残りが、論理を進めて行くことである。
ひょっとしたら、粒度をきめることと論理を進めていくことは同時進行の過程かもしれない。一旦粒度を決めたら、一連の思考、議論が一段落するまでは、その粒度を維持しなければならない。
一人の思考と複数人間の議論では条件が異なる。
思考は、自由に意識的に粒度と論理の変更を交互に行うことがその内容である。
一方、議論の場合、普通は、その中で新しい結論が出るまでは粒度を変えないことが基本であろう。
議論が成功し、複数の人の間で意見が統一されたらそれは粒度が変わったということである。
重要なことは唯一つ,必要な時に,必要な人または人々が,必要な領域の必要な何かに,ある方法で必要な変化を起こすということである。
この「領域」「何か」と「変化の方法」という三つの「あるもの」それぞれの適当な粒度の特別の型を見つけたい。
この型とは,次のようなあるものの形式的要素である。
1. 型毎に「扱い」が異なり同じ型は同じ「扱い」ができ,
2. その少ない要素の組み合わせで,任意のあるものが一意に再構成できる。「領域」「何か」「変化の方法」についてこのような型があれば,
2.により,あらゆる領域のあらゆるものを扱う対象とすることができ,その対象に対してあらゆる変化の型を適用でき,現実世界を認識し変化を起こすための形式的理論の最低要件を満たす。
また1.により,「あるもの」についての扱いの統一的方法の基礎となることを可能にする。[TS2008]
重要なことは必要な時に,必要な人または人々が,必要な領域の必要な何かに,ある方法で必要な変化を起こすということであると述べた。
必要なことは、より大きな価値のための事実の変化、変更である。
価値と事実があり、事実には、今の事実である現実と過去がある。
また、事実には、一次事実であるものの事実とそれを頭脳に反映した観念がある。ものと観念は入れ子になっている。
2. 問題解決は、小さな問題の場合、粒度が決まれば解決する。
大きな問題の解決は[ISPJ2017]で検討し始めたが、完全な答えは出ていない。
生き方のような永続する矛盾で構成される運動は、何か二項がお互いを高め合う一体型矛盾であるはずである。
一体型矛盾は、二項とその粒度が分かると決まる。矛盾モデルの内容を具体的に決めるのは粒度である。
粒度とは、認識、変更像、行動の影響の及ぶオブジェクトの空間、時間、属性の範囲である。
問題にしている「価値」の粒度は、どの空間範囲の誰・何のための、いつの時間範囲の、どのような属性内容の価値であるかということである。世界も人も、複数の矛盾モデルの集合体で近似することが多いので、思考の殆どは、関連する複数の矛盾が同時に成り立つ粒度を決めることである。
複数の矛盾が同時に成り立つということは、各矛盾の全ての時間、空間、属性の粒度が両立するということである。
12) 原理2: 価値についての根源的網羅思考
価値についての根源的網羅思考から出てくる定理について次のものがある。根源的網羅思考は、あることから生じる全体を求める指向を持つ。これから次の定理ができる。
・ 空間的時間的機能(属性)的に大きな価値が小さな価値に優先する。[THPJ2015/1,02]
空間的時間的機能(属性)的に大きな価値と小さな価値をうまくとらえられないことは、技術の領域では少ないかもしれないが、政治では多い。
政治やマスメディアには、価値の相対化が最も求められるはずだが、実際は、その中の人に、大きな価値が小さな価値に優先することの意識はない。その典型例を挙げる。
自分の言うことが「正しい」ことを納得してもらいたいために、小さい問題も大きな問題に見せる傾向がある。
特に政治やマスメディアでは、それが横行する。1. 例を挙げて説明すると、それは何の論証にもならないにも関わらず、人は「感激」してその命題に容易に騙される。
2. それ自体は正しく「大衆受け」し易く「感激」を容易に生むが、小さな本質的でない問題を全体の本質のように言う集団や人に、人は容易に騙される。
あるいは、自分に都合のいい点だけを数え上げて、聞く側に全部の点が網羅されていると思うようにさせる。3.客観的事実、あるいは、正当な理由でそうした事実を、相手が悪意でそうしたと言い張る。
3は、論理のすり替え、1,2は、小さな範囲(粒度)でなりたつ論理を、大きな範囲(粒度)でなりたつ論理に置き換える手法の例である。
この三つが、意図があろうがなかろうが、人を騙し騙される主な「原理」である。
それだけでなく、無意識のうちに一般の議論、思考さえも、この騙す「原理」は使われる恐れがある。
議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、価値と事実は論理的に網羅された中から選ばれていることが分からなければならない。
人類の存続にかかわるエネルギー政策の決定などは特にそうである。ポスト資本主義はそのためにも必要である。
政治の領域では小さなミスの処理が、反対勢力に、意図的に大きな問題にされてしまうことがしばしばある。
政治において、今、大きな問題は、経済内容、教育内容、経済弱者のための教育、医療、介護の確保策、世界の対立解消である。マスメディアの流す情報が、法律上でなく、実質、何によって規定されているかが問題である。
マスメディアは、昔、ヒットラーが宣伝した手法を非難するが、自分の報道内容を規定するものへの意識がなく、自分を相対化しない。
個々の小さな問題だけでなく、一人一人、全ての人の世界観、価値観、感じ方が、教育内容、常識、マスメディアで作られている。
これらについて「田中宇の国際ニュース解説」http://tanakanews.com/ に教えられることが多かった。田中宇は仮説設定の応用としても興味深い人である。
・ 価値も事実も長い時間粒度で変化している。
従って、価値と事実を相対化してとらえる態度が常に必要である。
今の価値より大きな価値は必ずある。
そして歴史は、小さな価値の実現からより大きな価値の実現をし続けた。
従って、今の価値の見直しも時々行う必要がある。
それを実現する事実もより大きな粒度に変更しなければならない。国についての態度などである。
・ 知識を持つと、その知識についての実現にも非実現にも責任が生じる。
だから、自由になればなるほど、自由になって得た力は、相手や他のものと一体になり、相手や他のもののために使わなければならない。
ほっておくと人間は必ずしもそうせず自分のためだけに使いがちになる。一体になるものを親子や国に広げるのではなく赤の他人や他国に広げなければならない。
実は、この文を、親子や国に広げる「だけではなく」と書き始めかけた。
「親子」は当然として、「国」に広げるのは当然だろうか?と思う。
自分の「国」と他の「国」は同格に扱う気持ちにならないと、つまり、国を県や市と同様に扱うようにならないと戦争はなくならないのではないか?
これは注意しないと「一体化」を単純には扱えない例である。
戦前の「忠君愛国」も一体化であった。「忠君愛国」は全否定すべきか?それともかつての「忠君愛国」のありようだけが間違っていたのか?
また今の「国」を誰も疑っていない。
13) 原理3: 事実、価値、論理,方法の全体の課題についての根源的網羅思考
事実にも、価値にも、論理(または方法)にも、事実や価値の法則性にも、そのそれぞれに、より大きな本質、全体がある。それを求め続ける方法が根源的網羅思考である。
また、弁証法的世界観では、あらゆる物事が相互に関係しながら、運動、変化をしている。
したがって、事実も、価値も、論理(または方法)、それらの中の法則性もお互いに関係し合っている。
これらは、関係し合い、しかも入れ子の関係もあって簡単ではない。
事実の各粒度(時間空間、属性)も、価値の各粒度(時間空間、属性)も、論理(または方法)もお互いに関係している。
法則性は、事実の各粒度(時間空間、属性)にも価値の各粒度(時間空間、属性)にも論理(方法)にもある。
これをはっきり定式化することも完成には遠く永遠に続ける必要がある。
これらは同時にしか求められない。全部を同時に求めようとしない限りその一部も求められない。
全てはお互いに関係しあっているからである。個々の結果を得ることもさることながら、同時に全てを求めようとすることが不可欠であり、かつ次第に可能になっていく。
この当たり前かもしれないこと自体が、自分にとっては大きな発見であった。そうだとすれば、あるいは、そうだとしても、取りあえず、今の分かっている関係の理解の前提で、これらを同時に求めたほうが良いのではないか?
というより、同時に求めないと得られないのではないか?
取りあえず、同時に求めるべきものを網羅してみよう。
日常の一回解が出ればよい「小さな」問題とそうでない「大きな」問題がある[FIT2016] [IPSJ2017]。
ここでは「大きな」問題に限って考える。まず今後、人類はどう生きていけばいいのか?という人類共通の問題がある。
この問いが前に書いたとおりであった。・ 人に何が必要か、どう生きればいいのか?
それは、ポスト資本主義を作ることと、新しい生き方を作ることである。この二つは同じことである。
新しい生き方は、客観的価値実現と、主観的幸せの統一である。・ 人類の歴史を貫いている「基本法則」「基本原理」があるのではないか?
・ それらの方法は何か?
これは既に充分抽象的であるが、もう少し一般化しよう。
1. 理想的価値は何か?
目的は、客観的価値実現と、主観的幸せの統一である。2. 21.事実はどうなっているか?
22.人類の歴史を貫いている「基本法則」「基本原理」は何か?3. 目的実現のために、人にどういう態度が必要か?
4. それらの認識と変更の方法は何か?
生き方とポスト資本主義を作る今の問題はこの四つを同時に解くことである。
4の方法は、根源的網羅思考であり、ここでも入れ子ができている。
同時にしか解けないが、もう、1,2,3,4の解のそれぞれもほぼ解かれつつあるように見える。
ここで扱う全体問題は、これらについての人と「人類」の日常問題の全体である。これより小さな領域の問題は、このサブ問題である。
理屈から言うと、これらサブ問題の全てと、この全体の問題は同時に解かなければならない。
本稿の個々の検討では、
1. 大きな問題を分割し、分けた個々の領域で(自動的に)論理を展開して行く、
2. 全体像が分からなくなる、
3. 全体の構成部分の複数の粒度の同時成立の定式化を求める、
というサイクルがしばしばあった。また、
1. 価値が増大していく →
2. 複雑化する →
3. 個々の価値を増す手段である四つの文化の誕生時期と個と全体の差の意識誕生時期が同時期(四千年前)だったのではないか?この個と全体の差の意識が発生すること自体が、歴史の必然的進歩である。これが、
4. 対象化と一体化の統一による解決(四千年経った今)という解をもたらしたのではないか
という仮説を持っている。
問題と方法の同時解決である。
2) 粒度の説明と方法
21) 粒度を意識するタイミング (今の根源的網羅思考と時々行う根源的網羅思考)
今の事実自体の空間的複雑さ、今の事実自体の時間的複雑さがある。
今の事実自体の複雑さ、特に、ある現象に関係しているのがどの現象なのか、自分が価値としているものが事実のどういう粒度と関係しているかがよく分からない。
事実も人の認識も日々変化している。これは今の粒度の矛盾の困難さであった。今の根源的網羅思考を意識して行うことが重要である。
次は時間のかかる問題に関する。
世界の事実は日々変化し人の認識も変化しており可能な価値も時間をかけて変化している。
粒度は人の生物的身体的制約、人に蓄積された固定観念に規定される。
このため、人に染みついた固定観念を相対化し否定し続けひらめきを得ることは難しい。このために必要なのが、時に価値と真理と基本概念の今の粒度、機能、構造、網羅の見直しを、謙虚に批判的に根源的に随時行い続ける根源的網羅思考 [FIT2010,13][TS 2010,11][THPJ 2012] [CGK2017] である。
22) 粒度を特定したことの明示
今は、どういう粒度で切り取ったのか意識せず、粒度を明示的に表現しないでも世に通用している。粒度に相互規定されて論理もあいまいになっている。
あいまいなままでいいものもおそらくある。しかし、重要な思考や議論の場合、粒度に関する次の点を意識することが重要であると思う。全く意識されていないものを意識することが、今の思考と議論の混迷をほとんど解決する。
・重要な思考の場合、扱う価値や問題などのオブジェクトの粒度を意識する。例えば、誰のどういう時間の長さの価値を論じているかの明示である。今は、粒度が異なった状態での思考や議論ばかりである。そのために思考が有効にならず、議論がかみ合わない。
・議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、価値と事実は網羅されていなければならない。人類の存続にかかわるエネルギー政策の決定などは特にそうである。資本主義では利益が価値であるので、人により普遍的な価値によるポスト資本主義はそのためにも必要である。
・議論や論文など相手を納得させる必要のある文では、網羅された中からどういう理由で粒度を特定したかを示した方が良い。
・一連の思考、議論の論理の中で粒度は変えてはいけない
・矛盾を合成する場合、合成のもとになる個々の矛盾の粒度を合わせたほうが良い[THPJ2015/1, 2改]
23) 生き方、粒度の粒度
・ 全体の粒度: 全ては関係し合い変化しているので、基本的には、何かを「良く」しようとすると全てを「良く」する必要がある。
・ 大きな粒度の価値が小さな粒度の価値に勝る。
・ 個々の粒度: 事実の粒度を網羅し、今の粒度の位置を知る必要がある。
・ 下位の価値の場合、全体の中の位置を明確にする必要がある。
・ 以上は、簡単ではない。課題があるとして、網羅してみると粒度が一つに絞れず、複数の粒度の問題を解決しないといけない場合が見えてくることが多い。
それを書いていると複雑で分かりにくい文になる。
これはまだ対策ができていない。・ 一瞬の生き方; 個々の認識、個々の行為における謙虚さ、誠実さを前提とする。
誠実であるとは、正直であることである。嘘をつかず約束を守ることは当然である。
実際に、意図せず結果として嘘をついてしまうことになることがあり難しいことかもしれない。一瞬の生き方の理想は、自由と愛の統一、対象化と一体化の統一である。
個が、全歴史全世界の中の自分の位置を知った上で一瞬に没入し、同時にこの一瞬に、全歴史,全世界の問題解決が進みつつあるという参加の主観における実感が得られる。[THPJ2015/1, 2改]その実現のための根源的網羅思考が指向する全体と本質とは、
自由と謙虚な愛の統一、対象化と一体化の統一により、
意志のある誰もが(できれば全てのものが)、どこでもいつでも全てのものの「価値」をお互いに高めて行ける客観と、
その主観的な実感である「幸福」の
二つの両立であるような価値と事実の統合を行う全体である。
そのためには、併せて、多様化を単一的に管理するための統一論理を必要とする。
3) 三段階の応用 [FIT2013]
以下、[FIT2012] からのほぼそのままの引用である。
31) それ自体の有用さ、厳密な帰納と演繹
あらゆるものの個別の網羅は実際上、不可能だが、型(種類)の根源的網羅が構造的網羅的に行われれば、厳密な帰納論理が、厳密な演繹論理を構築する可能性が生じる。[RDI] [FIT2012]
次のいずれかから、新しい発見、意味のある変更が得られる。実現手段発見は後者に属する。
・同じ粒度の網羅による発見、変更
例: 本稿も根源的網羅思考による。
例: 文について、粒度を意識的に明確にし、主部、述部の
1) 属性を変化させる、
2) 属性を削除する (より大きな粒度の主部、述部に置き換える)、
3) 属性を追加する(より小さな粒度の主部、述部に置き換える)
ことが必要な例は多い。特に、3) の例は多い。[TS2011]。例: 本稿の矛盾の型の網羅は、根源的に運動の種類を網羅、拡張した例である。[FIT2008-12] [TS2008-12]
例: [FIT2009] の量質転化の法則の拡張は、根源的網羅を行って得られた例である。
・ 新しい粒度での関係の発見、変更
例: マルクス、エンゲルスによる生産力と生産構造の矛盾の発見は、粒度を粗くして法則が発見できた例である。[DI] マルクスが優れていたのは、弁証法的思考ではない。彼の弁証法は事実のわずかな一部しか扱わない。
例: ダーウィンによる進化の法則の発見も、同様の、粒度を粗くして法則が発見できた例である。
32) 根源的網羅思考単独の思考サイクルによる有用さ
根源的網羅思考は、粒度と網羅が、相互作用の中で決まり、あるものの粒度が確定すればその粒度で他の網羅を行うことで認識が深まり、次に粒度を変えてさらに網羅を行う。
この思考サイクルを繰り返しながら、高度の認識を得る。
根源的網羅思考は、人が次第に物事を認識し学んでいく手段、価値や物事の本質的認識手段、新たな発見や価値実現の具体化展開手段になる。[THPJ2012]例: 設計は、機能、負の機能、構造の三者が、次第に具体化されていく作業であり、根源的網羅思考のサイクルの例である [ISPJ1994][LB,A-E章]。
33) 矛盾と根源的網羅思考の相互作用による認識と行動の進行
粒度確定後、矛盾の解による変更が起こり、変更されたオブジェクトは、他のオブジェクトと相互作用が生まれ、さらに、粒度の網羅、確定があり、さらに新たな変更が起こる。
粒度の違う根源的網羅の結果と弁証法は、要素と関係の関係にあり、相互に相手の入れ子になり続ける。この方法と粒度特定は、矛盾と根源的網羅思考、その相互作用であった。[FIT2013改]
以上は、変更についての考察だったが、矛盾と根源的網羅思考の相互作用は、認識、特に法則の認識にも有用である。
例: [FIT2016] 及び本稿で書いた生きる構造の中の対象化と一体化の矛盾の発見。本稿7.4項のそれに関連する矛盾の発見。
どちらも、部分と全体の行き来からどちらにも共通する法則が見つかった例である。
4) 生きる
個々の認識、行動を矛盾によって行うアルゴリズムの形式的叙述を行う。
個人より大きな組織の場合を次に示す。1. 事実がある。一体型矛盾がある場合それを解き実行する。
(特に順序を変更する指定がない限り次に行く。以下、同じ)。時々(例えば一日に一回)7に行く。7に行かない時2に行く。
2. 事実からある粒度でオブジェクトを切り取る。
3. 何か変えないといけない又は新しい何かを作らないといけないと思うか思わないか?
3.1 思う場合、中から重要度緊急度を判断し変更する事実の矛盾の検討優先順位を決め 4に行く。
3.2 思わない場合、重要度緊急度は判断し1に戻る。重要度緊急度: 個別の値を求めた後、全地球、国などについて各項の積で求め各案の比較をする。
a) 例えば今後30年間の、一人の生については 1(若者と老人などを同じとするが実際には異なる) とする。
b) 生の属性である自由と謙虚な愛について集団の一人ずつに対して0〜1 とする。[THPJ2015/3]4. (事実の矛盾の確定 [FIT2015 4.4項 2])
事実の矛盾を決める。つまりその機能に関する全ての矛盾の網羅的総体からなるオブジェクト世界を認識する。
(機能に関する矛盾が関係命題の形で表現できる)
法則の認識である場合、これに加え、粒度と網羅の矛盾の中の型の矛盾を認識する。5. (解の矛盾への変換、解の矛盾の確定 [FIT2015 4.4項 3、4])
事実の矛盾を解の矛盾に変換し機能を確定する。6. (解の矛盾を解く[FIT2015 4.4項 3、4])
法則の変更以外の変更の場合、機能と構造の矛盾で解の矛盾を解き、構造を実現し、1 に戻る。
法則の変更である場合、上に加え、粒度と網羅の矛盾の中の型の矛盾も解き変更し、1 に戻る。7. (価値、基本概念の変更または新しく一体型矛盾に移行すべき矛盾はないか判断)
新しく発見,発明された命題はないか、それによって可能になる価値がないか、基本概念の変更の必要がないか検証し、必要なら見直しを行う。1に戻る。
一体型矛盾に移行すべき矛盾はないか判断し、あれば実行の条件を整える。1に戻る。(以上) [FIT2015改]
個人の場合の理想は次のようになる。アルゴリズムはない。一瞬が続く生き方である。
今の一瞬だけが大事である。今の一瞬が、祈りであり思考であり変革である。
今の一瞬が、自分たちの自由と、他の生命、他のものへの愛のための努力である。
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最終更新日: 2018.10.10 連絡先: 中川 徹 nakagawa@ogu.ac.jp