高原論文: 研究ノート2018/3 第三部

未完成の哲学ノート(2018 年): 「 矛盾モデルと根源的網羅思考による人類の生き方の基本原理についてのノート

(第三部) 対象化(自由)と一体化(謙虚さ、愛)を生んだ世界観と価値

高原利生、
『TRIZホームページ』寄稿、2018年 4月12日、
改訂稿 2018年 6月13日

『TRIZホームページ』掲載、2018年 8月30日

掲載:2018. 8.30

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編集ノート (中川 徹、2018年 8月 28日) (追記: 2018年10月 8日)

本ページは、高原利生論文集第4集 の中心をなす「研究ノート2018」四部作の本論の第三部です。
研究ノートの全体ページには、全体構成、概要、掲載資料へのリンク、「おわりに」、参考文献を書いていますので参照ください。
(追記: 第一部、第二部、第四部前半は、9月16日に再改訂稿を得てHTMLページに起こしましたが、この第三部はすでに8月末にHTMLで公開しておりましたので、再改訂には対応しておりません。大きな変更はないとのことです。)

この第三部は、HTMLページとPDFで掲載しています。第三部の目次は以下のようです。

未完成の哲学ノート(2018 年):
「 矛盾モデルと根源的網羅思考による人類の生き方の基本原理についてのノート 」 
  高原利生 2018.4.12 寄稿、2018.8.30掲載

第三部  対象化(自由)と一体化(謙虚さ、愛)を生んだ歴史 

 5.前書き: 価値を実現するために生きる 

6.望ましい状態を一度作る簡単な価値実現.

6.1 検討態度
6.2 簡単な問題の解法

7.対象化(自由)と一体化(謙虚さ、愛)の矛盾による価値実現

7.1 弁証法論理と歴史の結果
7.2 物々交換の開始までの歴史
7.3 物々交換の開始とその後の歴史: 四段階
7.4 物々交換の開始とその後の歴史: 対象化と一体化の矛盾
7.5 文化; 科学、技術、制度、芸術

 

 

本ページの先頭   論文先頭 5. 前書き 6.簡単な価値実現

7.対象化と一体化の矛盾

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 論文  (和文(改訂稿): 2018. 6.13)        論文PDF  

 

対象化(自由)と一体化(謙虚さ、愛)を生んだ世界観と価値

World View and Value Based on Sense of Object and Sense of Unity

研究ノート 2018/3  第三部

高原 利生

『TRIZホームページ』寄稿 2018年 6月13日、 掲載 2018年 8月30日

 

注: 表記について: 
     過去に述べた内容と他文献からの引用は青字で示す。
    
緑字は例または注を示す。
          濃赤字は 強調   を示す。
     下線は、文章上の単語の強調か、課題を示す

第三部 目次

 5.前書き:価値を実現するために生きる 

6.望ましい状態を一度作る簡単な価値実現.

6.1 検討態度
6.2 簡単な問題の解法

7.対象化(批判、自由)と一体化(謙虚さ、愛)の矛盾による価値実現

7.1 弁証法論理と歴史 
7.2 物々交換の開始までの歴史 
7.3 物々交換の開始とその後の歴史: 四段階
7.4 物々交換の開始とその後の歴史: 対象化と一体化の矛盾
7.5 文化; 科学、技術、制度、芸術

 

5.前書き:価値を実現するために生きる

人に何が必要か、どう生きればいいのか?
この人類の歴史を貫いている「基本法則」「基本原理」があるのではないか?

技術と科学が、今までになく経済・社会の構造を大きく変化させようとしている。2017年の今から、数十年間の人類の変化は、これまでの人類誕生以来の変化より大きいであろう。
言語、道具を作って利用し始めて人類が誕生したのは、諸説あるが200万年前ほどのことである。火を利用し始め、1万年前に農耕を始めるまでに人類は殆どの歴史を費やした。
技術が新しい価値の可能性を開きそれを実現していくのが人の歴史だった。大きくは技術の発展の歴史が、ほとんどの人の歴史だった。この技術をうまく管理するために経済や政治が生まれた。今、再び大きく技術が歴史を主導する時代になろうとしている。技術の責任が大きくなっている。

[THPJ2015/1]の冒頭に、次のように書いた。
「人は、あらゆる分野で、世界と人の事実を認識し、より大事な価値を求め、その価値実現のため努力してきた。
   1. 時に抗しがたい状況もあったが、それでも懸命に人が生きてきたことを表現し伝えてきた。
   2. 事実認識、より大事な価値認識と価値実現方法について、分かっておらず解決できていない課題を表現し伝えてきた。
   3. 事実認識と価値認識の結果、及び価値の実現方法を表現し伝え実行してきた。
人が生き世界に対し行ってきたことはこれだけだと思う。」[THPJ2015/1]

人の生活、思考や対話には、論理と感情から成り立つ。ここでは主に論理を扱う。上の3を言い換える。

人類は、無意識に価値と考えているものから仮説によって作った目的と、現実世界との差異解消を行う問題を設定し、方法を作り実現を図り、実現がうまくいかなければ、目的か方法を変更し実現する、というサイクルを続けてきた。[FIT2016] 
次第に意識的に新しい価値を見つけ、それを実現することが人類の歴史だった。

人、人類の本質について述べているので、当然、他の生命との共通点についてはわざわざ述べない。食べて個体を維持することや子を作って種を保存するということなどを人、人類の本質としては述べない。ただ、これらの他生命との共通点である「食べて個体を維持することや子を作って種を保存するということ」についても、「新しい価値を見つけ、それを実現する」という人の特徴は反映されたものになるはずである。

技術が『大変革時代』をもたらしている今、価値,目的と方法は今までのままでいいのか?価値を決める世界観は今までのままでいいのか?

世界観とは、1.歴史の総括、2.現実像、3.未来像を統括した大まかな像である。世界観は無意識に潜在意識に入る。そして潜在意識に入った世界観に大きな意味がある。
現実像とは、現実が客観的にどういう機能と構造をしていて、主観的にどういう基本概念でとらえられ、人はどういう法則と方法で認識と変革の努力をしているかということである。現実の客観像だけでなく、それに対して人がどう取り組んでいるかも含める。
潜在意識に入ってしまう像であるために、大まかで本質的な世界観が重要である。
政治家や技術者だけでなく、一人一人が意識的に世界観、価値、方法を把握し続ける努力をする必要がある時代である。

「良い」生き方は努力する生き方である。「良く」努力することができるためには、「正しい」世界観によって現実と価値を「良く」理解することと、努力の方法、論理を知ることの二つが必要だと思う。この二つは相互に影響を与える。「良い」「正しい」ことは主観がとらえる価値に依存する。自分が「良い」「正しい」と思うことは、必ずしも客観的にそうであるとは限らない。したがって相対化の態度、謙虚さは欠かせない。時に基本概念の再把握も必要となる。

この立場から
    1.歴史と現実を総括して得た世界観、価値(観)、
    2.潜在意識、態度、感情、粒度設定、論理,方法、
    3.認識像と行動像の生成、技術、制度など文化のあり方、
    4.認識と行動の総体、系列
を、
今、生きることととらえる。粒度とは、認識、変更像、行動の単位で、空間時間、属性の範囲である。

なお、ここで、1.生きることを、今の一瞬を生きる全体像に限っている。上の四つの要素で近似した系列は、意識していなくても、常に人の一瞬の中にある。また、認識と行動を同格に扱っている [THPJ2015/1]。これに対し、2.世界と人の関係をとらえる場合は、「世界についての認識−世界に対する行動」というモデルになる。様々な人の立場に応じて様々な粒度がある。3.他に、世界の変化をとらえる粒度がある。

これらの前提が、この系列の総体、系列の一部になっている論理,方法である矛盾モデルと根源的網羅思考である。入れ子になっている。

矛盾モデルは形式の基本、客観世界と人間に共通である。世界を、「項1−関係−項2」という矛盾モデルの集合体で近似する。矛盾は、二つの項が両立しないことを表す意味で用いられることが多いが、ヘーゲル、アルトシュラーなどの弁証法論理の使い方により、二つの項が相互作用しつつ両立する(両立している、あるいは両立を目指す)意味で用いる。

根源的網羅思考とは、無意識のうちに決めるのでなく、素直に感情により,かつ論理的に粒度を意識して全体を決めようとする思考である。この二つで従来の思考形式を全て含む。

矛盾と根源的網羅思考の内の根源的網羅思考と価値についての最新の成果を第一部2章に、矛盾についての最新の成果を第二部に、あるべき世界観、つまり対象化と一体化の矛盾の歴史を第三部に、これらの総まとめとして、人工知能、宇宙論理学、人類の統一理論、ポスト資本主義と理想の生き方の要件と仮説の提起を第四部に示す。なるべく独立しても読めるようにしたが、これらは相互に関係がある。分かりにくいかもしれないが、第二部の矛盾は論理的に、第三部の矛盾は歴史的に扱おうとしている。

なお、本稿はやや長い。さらに長くなるのを防ぐために、下記のノートの内容の詳細はなるべく繰り返さないようにした。一度で解が出る小さな問題の解法、粒度設定、方法は下記のノートを参照されたい。これが本稿の「大きな問題」の基礎になる。

[THPJ2015/1] 高原, “粒度、矛盾、網羅による弁証法論理ノート:ノート2015-1”, TRIZホームページ, 2015. (中川徹のTRIZホームページに高原利生論文集1,2,3がありhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-Biblio3-2015/Takahara-Biblio3-151102.htmにリンクがある)
[THPJ2015/2] 高原, “中川徹の6箱方式へのコメント:ノート2015-2”, TRIZホームページ, 2015. (同上)
[THPJ2015/3] 高原, “弁証法論理の応用展開ノート:ノート2015-3”, TRIZホームページ, 2015. (同上)

また、[FIT2013] 高原, “世界構造の中の方法と粒度についてのノート”, FIT2013. D-001, Sept. 2013 は根源的網羅思考によってできた最初の論文であり短い中に全体像が表れているので読んでいただくとありがたい。

本稿は、[THPJ2015/1] など以上に「論文」の形を取らないように努力したノートである。
意図したことは次のとおりである。

思考の経過ができるだけ分かるようにし、分かっていないことは何かをなるべく書くようにした。多分、分かった内容だけを閉じた体形にして書くとすっきりするが、将来への展開の途中であり、未完であることも示そうとした。各自が自分で考え納得したことだけが身に付き理論と現実を発展させることができるからである。
書いている内容は仮説である。今、定説、常識と考えられていることは全て仮説であり、見直しを行うべきものである。

現在、多様な意味で使われている用語を、特定の意味に限定して使っていることがある。オブジェクト、粒度、網羅、自由、愛、価値、技術、制度などである。これらの意味はその都度説明しているが、自分の使っている意味と異なる用語が多いと読みにくい。どうかご了解いただきたい。
また、提起している根源的網羅思考により、考えている事項の全体の中の位置が分かるように、網羅の結果を書きながら記述をしているので煩わしいかもしれない。どうかご理解いただきたい。

本稿は、ノート第三部である。
過去に述べた内容と他文献からの引用は青字で示す。緑字は例または注を示す下線は、文章上の単語の強調か、課題を示す

 

6.  望ましい状態を一度作る簡単な価値実現

矛盾は、客観世界の運動と人を含む生命世界の問題を扱える。矛盾は差異とエネルギーが運動を起こす。どの領域においても、エネルギー消費量は最小になるように「論理的に」運動は行われる。
この章以降、人類の農業革命以降、制度が始まって後の数千年の歴史を主に対象とする。
生命の領域においても、長い目で見れば、つまり近似的に論理と歴史が一致している粒度で、エネルギー最小になっている。しかし、生命は意志によってエネルギー最少を実現しない行動をとることがある。根源的網羅思考による人の行動は、意図的に高度な価値実現をエネルギー最少で行うことを目指す。

何事も全ての他のものと関係している。全てを検討できないので重要な関連だけを網羅し、必要な検討を行う。
人類がどう生きてきたか生きているかの全体像、世界観を明確にする。
人は価値を実現するために生きている。価値、人の価値実現過程の全体像、技術のその中の位置、技術と関係する制度、科学、芸術の把握が必要である。
理想的には、これら全てのゼロベースの検討、変更が同時に必要である。

6.1 検討態度

価値を具体化して作る日常の個々の目的が具体的なある状態の達成になるのはやむを得ないかもしれない。ここではまずこの課題を解く問題を扱う。これは後で述べる「小さな問題」[IPSJ2017] である。
しかし、同時に、永続的な理想的価値は静的状態ではなく、努力の運動、動的過程であるととらえることが重要ではないだろうか。これなら価値実現を生きる態度にすることができる。[FIT2013]
以下、価値を求めながら、その実現過程を検討する。

6.2 簡単な問題の解法

あらゆる事象は、矛盾の集合体で近似でき、関連しながら運動し結果として変化していく。問題とは、その中の認識された現実とあるべき姿の差である。
問題の型の網羅、分類を行う。運動領域の区別、小さな問題と大きな問題の区別がある。
運動の領域に、自然の運動、人の意図的運動がある。本稿では人の意図的行動,運動に限定している。
「小さな問題」を、解決に既存の一思考を一回修正すればいい問題、「大きな問題」を、既存の複数の思考の多くを変更し続ける必要がある問題ということにする。[IPSJ2017]

目的が
     1.具体的なある状態の達成であるか、運動,過程であるか、
     2.短期の今の目的か,長期の目的か、
     3.一つの目的か,多くの目的の同時実現か
により、複数の問題の組み合わせがある。
仮定として、
   「小さな問題」の目的を、1.状態、2.短期、3.一つ、とする。
   「大きな問題」の目的を、1.運動,過程、2.長期、3.複数、とする。

小さな問題の解決方法は、[FIT2015] [THPJ2015/1, 2] などで述べている[FIT2015] [THPJ2015/1, 2]は、中川徹の「六箱方式」[NKGW2005]と内容は同様のものでその別表現になっている。そのことは[FIT2015] [THPJ2015/1, 2]の中でも述べているとおりである。そしてこれは大きな問題の場合の基礎となる。中川徹の「六箱方式」 [NKGW2005など] には詳しく分かり易い説明が多い。中川徹の「六箱方式」[NKGW2005など] と[FIT2015] [THPJ2015/1, 2]などは本稿では繰り返さない。

大きな問題を次の章で論じる。

 

7.対象化(批判、自由)と一体化(謙虚さ、愛)の矛盾による価値実現

大きな問題を検討する。大きな問題の目的は、
   1.具体的なある状態の達成でなく運動,過程であり、
   2.長期の目的であり、
   3.多くの目的の同時実現であった。
これを解く矛盾は、持続する一体型矛盾である。

大きな問題の最大のものが、どう生きるかという問題である。まず準備をしよう。参考になる今までの成果も示す。

 

7.1 弁証法論理と歴史

1) 客観世界と人類が生きること

客観世界と人類の生きることに共通なことがある。

1.何事も、始まりとその後の運動の歴史がある。
2.二項(のモデルで)の(外部または内部の力が作る)差異とエネルギーが運動を作る。
3.この双方向運動(矛盾)の階層的並立の全体が世界である。

客観世界の近似モデルは、客観世界自体にはない。人による認識モデルはある:客観世界は、ある粒度での(その粒度は後から分かる)差異が生じ運動が行われる。ある粒度の差異により運動が起動されて起こった結果、複数の物事の両立という結果がある。それらから宇宙や太陽系や地球の生成の歴史、人類の歴史、それらの原理が得られる。「原因と結果」は客観的にはないが、人の価値に依存する「原因と結果」はある。

閉じた客観世界は、エネルギーを最少にする原理、物質・エネルギー保存則を内蔵している。人類の歴史(価値実現をするための事実変更)も今まではなるべく最少エネルギーにしようとする原理が働いていた。エネルギーを最少にするような制度を作り行動が行われてきた。[FIT2016] 価値概念が生まれたため「原因と結果」がある。

(時間粒度の大きな)歴史は、論理によって変化していく。但し、偶然のような微細な差異がその後の歴史に決定的な影響を与えてきた(これは客観世界もそう言えるかもしれない)

今、科学の進歩により微細な差異は次第に認識でき制御できるようになっている。また、制御・操作の力、範囲は大きくなってきた。したがって人類の発展の歴史と論理を正しく知る必要も大きくなっている。

2) 歴史と論理の一致 

弁証法の有名な命題によると、歴史と論理は大まかには本質が一致する。さらに、この過程でエネルギー最少が実現される。これも、同じことの別表現である。 

注: 明示的に、(ノイズを除くと)歴史と論理は一致すると述べたのは、「哲学ノート」のレーニンだった。エンゲルスのマルクスの「経済学批判」(1859年)の書評、マルクスの「資本論」の各序文や後書きでも、実質的に扱われている。
これらの元はヘーゲルである。ヘーゲルによれば、物事に内在する論理が神により展開されて現実の運動が行われるので、論理は歴史とまったく一致する。「神により展開される」ということは、理想的合理的にノイズがなく展開されるということと推測する。
これは「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」[ヘーゲル「法の哲学」] という有名な言葉に繋がる。この言葉は、論理と歴史の一致の別表現であると考える。

歴史と論理は大まかには一致するという命題は、成熟した歴史の中にから本質的論理を見つける可能性があることを述べている
ここで、論理と本質を同じような意味に使っている。論理的と物理的を対比して使うことがあるがこれは、設計ないし工学系の人間には自明なことだが、あまり普及していない考えかもしれない。設計ないし工学では、論理像を物理的に実現するのが設計なので、多分、技術者には身に付いている。この場合、「論理的」は抽象的、本質的、「物理的」は具体的、現象的という意味である。

これから次の仮説ができる。

論理の中にある本質が、必ず歪んで実現される実際のこの世では、成熟した歴史から抽出された本質は、理想、価値になり得る
つまり、成熟した歴史と論理の一致という命題によって、歴史から価値、理想を求めることができる。
この本質は、扱う歴史の長さ、どういう前提の歴史であったか、歴史が成熟しているかどうかに依存する。
今の場合の歴史を扱う時間範囲は、偶然かもしれないが、マルクスたちの「唯物史観」の扱っている時間粒度と一致する。この時間は、農業革命後の生産量増大を受けて、物々交換、制度が成立して以来の数千年間である。「成熟した歴史」から抽出された本質は、理想、価値になり得る。この「成熟した歴史」とは人類の場合、物々交換から今までの六千年の歴史だったとというのが仮説である。
念のために言うと、価値、理想は、この逆方向の論理があり、実際には、双方向から長い年月をかけて価値、理想は得られることを別のところで述べた。

世界観は、過去、現在、未来に関する事実像についての認識である。[THPJ2015/3]
集団の共通世界観は、集団の共通価値観に影響し、これらは、それぞれ個人の世界観、価値観に影響する。価値観は、多くの場合無意識に、潜在意識、態度、感情に作用し、ともに、実現の優先度、行動の目的を決めてしまう。[FIT2016] [THPJ2015/1]
世界観の中で過去の歴史像と現在の事実像把握は重要な役割を持っている。歴史は物事の運動の時間経過であるから、関係,運動の構造の論理である矛盾と根源的網羅思考によって表現される。

但し、普通の論理とやや異なるのは、人類の初期の歴史を扱うので、二項間の関係の運動と生成である矛盾[THPJ2012]において、矛盾の生成の条件を検討することが比較的多くなる。一般に何かを始めるための条件が外部に整っていないときは、それが整うことが必要である。それに、人の能力がまだ大きくない人類の初期は、偶然の客観的要素がまだ多い。これは、物々交換が始まるまでの時期に当てはまる。

物々交換以前の初期の人類の歴史記述は、何かを始めるための偶然の条件がどのようにできたかについての記述が主となる。氷河期がいつ終わったとか、言葉や道具や火をいつ使い始めたとかである。言葉、道具の「発明」と利用や火の利用は、ハラリと異なり、本稿では、重要ではない。

物々交換以降の人類の歴史は、矛盾の解決の歴史である。したがって、歴史から得る教訓は、その時代は何が論理的に解決可能な課題であり、しかし実際にはどういう解決策しか取れなかったか、その理由は何かという内容であるはずである。しかし、実際の歴史書にはこのようなことは書かれず、誰々がいつどういう事件を起こしたという羅列だけである。これは早急に書き直すべき課題と考える。

3) 認識と行動の過程の歴史的結果

歴史の結果として、人類は次の段階に達している。これが [FIT2016] を書いていて分かった意外な結果だった。なぜこんなことが起きるのか自分で驚きながら書いた。読む人には分かりにくかったと思う。

   図7.1 人類の生きる構造 (FIT2016を改良、FIT2017スライド)

対象化と一体化の一体型矛盾が、完全に或いは全く解けないままで、複雑化、多様化しているのが現在である。

[FIT2016] [CGK2016] [IPSJ2017] で大きな問題の例として、生き方の変更の問題を考えた。大きな問題こそ、人だけで解ける単純さが望ましい。それは、生きることが、無意識に生きていることと意識的に生きることからなり、ほとんどの行動が無意識に行われ、問題の解も殆ど潜在意識下で得られる。[ES]
それで人が解き易く、解いた解が,潜在意識化、感情化して人の体と心が動くこと、多くの人が多様にかつ同様に解き続けることのために必要であるからである。それに真理は単純さの中にある。
[FIT2016] [CGK2016] [IPSJ2017]では、人の知覚から、認識と行動に至る準備過程、実際の認識と行動という一連の過程が、対象化と一体化の「一体型矛盾」を現実化しているものになっていることを不十分な形で示した。

さらに、予期していなかったことであるが、次のような一見複雑な形式が展開していたこと[FIT2016] [CGK2016] [IPSJ2017]で分かった。
やや詳しく言うと、[FIT2016] [CGK2016] [IPSJ2017]では、
     2) 世界観(世界観は、過去、現在、未来についての事実観)が、価値観、潜在意識、態度、感情に影響し、
     3)  認識解、行動解を出し、
     4) 文化という共同手段(技術、制度 [TJ200306]、科学、芸術)を使って行動する
という三つが、「一体化と対象化」という矛盾で統一的に把握できることを示した。これは単純さを確保し実現エネルギーを少なくするためにそうなったのであった。
   1) はこれに含まれない知覚である。

この三つに内在する矛盾が、「一体化と対象化」という同じ矛盾だった。
つまり、大まかには、
     ・ 1)2)3)4)の各階層に分割され、
     ・ その中の矛盾が対象化と一体化の一体型矛盾で統一されている。
別の言葉で言うと、
     ・ その中の矛盾が対象化と一体化の一体型矛盾で統一されるように、
     ・ 1)2)3)4)の各階層に分割されていった。
この二つは同時に進行していったと考えられる。

また「各階層への分割」と「各階層内で統一された矛盾があること」は両立矛盾であり、1.分化 と 2.分化した中の二項からなる矛盾だった。2の分化は21.準備(潜在意識、態度)、22.観念上の論理解、23.文化を媒介利用した実行に分けられる。この分割も1)2)3)4)への分割も、TRIZの「40の発明原理」のいくつかの応用になっていて合理的である。

これは、次のように具体化されていた。
     ・ 2)の歴史的事実が、不完全な一体化と対象化の矛盾であったこと、
     ・ 3)の態度が、不完全な一体化と対象化の矛盾であり、行動の像がこの矛盾の解だったこと、
     ・ 4)の文化の要素が、一体化と対象化という矛盾の二項の要素を認識、操作という粒度、面で固定化したものとして実現を効率化していること、
     ・ 行動、一体化と対象化の矛盾の解の実行であったこと
が分かる。[FIT2016] [CGK2016] [IPSJ2017]

人類は、この過程を無意識に実行してきた。そのため、歴史は長い目で見て論理と一致するという結果は、実際の歴史では、抽象によりノイズを除去しないと得られない。
これらは矛盾の運動である。この矛盾は、個々の一体型矛盾より一段高度な一体型矛盾で、fractal構造、入れ子構造、超格子構造 [松本明子,岡本秀輔,曽和将容, “拡張ハイパーキューブについての研究”, 情報処理学会計算機アーキテクチャ研究会117-12, 1996.3.6.] になっている。そしてこのように統一的に把握できる形になっているのは、実現エネルギーを最小にするためである、というのが仮説である。1) 知覚は検討の対象に含んでいないが、知覚もエネルギー最小のため今の形になったと推測できる。

言い換えると、[FIT2016] では、人によって無意識の内に、不十分な一体化と対象化の矛盾を中心とする矛盾が運動していった。人の行動は、無意識に長い時間をかけ、人の生による検証を受け続けて、次第にエネルギー最小になっていった。(だからこれを、十分な一体化と対象化の矛盾、自由と愛の矛盾に変えていくことが課題になる) この1)2)3)4)の各階層への分割がどの程度一般化できるか、歴史的発展の論理性検討は課題である。この運動の基準になったのはエネルギー最小である。
この前に、この矛盾を開始する条件;氷河期の終わり、言葉、道具や火の利用開始があった。

この「各階層への分割」と「各階層内で統一された矛盾があること」の両立は、これ自体、より高次で複雑な両立矛盾である。これは人の活動全体を表す矛盾であった。この矛盾が一体型矛盾に限定されるか、限定される場合、対象化と一体化という一体型矛盾に限定されるかという検討すべき課題がある。おそらく一体型矛盾に限定されるだろう。それが対象化と一体化という一体型矛盾に限定されるかどうかはよく分からない。

農業革命以降の人類の矛盾は複雑で高度の矛盾体系を作っている。この他の矛盾は、これらと相互作用がある自然の矛盾、人以外の他生命の矛盾がある。
単に知覚があり外部に反応するだけでは、自分と他オブジェクトがあるということにならない。対象化と一体化の矛盾は、自分と他オブジェクトがあるという前提での基本矛盾であるため、自然の矛盾にはなく、人以外の他生命の矛盾にもなく、人類と宇宙人の一部だけにある。地球上の矛盾の構造と他の星の矛盾の構造の違いも検討する必要がある。

この段階から、意識的に短時間で高度にエネルギーを最小にする段階へ移っていくことが必要である。できるかどうかはこれからの努力にかかっている。
機能と構造の矛盾についての一体型矛盾、新しい進化の法則、従来の進化の法則は、機能と構造の矛盾そのものの連続だった。
今まで[FIT2016]で述べた文化の一体化と対象化は、エネルギーの少なさに強制され、長い時間をかけ無意識に実現されてきた。この中の不十分な一体化や対象化が各時代の生き方であり技術や制度を作ってきた。これは歴史の総括である。
今後は、今までの数千年の総括である農業革命と産業革命が提起した一体化と対象化をそれぞれを完成させながら、一体化と対象化を統一させることが、理想の生き方とそれを支える理想の技術や制度を作る。これが仮説である。

人は意識的に短期に一体化と対象化の矛盾を解決していき [FIT2017] 今後の一体型矛盾は新しい質を作り出していく。
そのため、個が多様な個性を開花させ、網羅データベースを参照し、AIも利用しながら、根源的網羅思考により新しい対象化と一体化の矛盾を解いていき、共通の問題については根源的網羅思考による議論をしながら未来像を作り上げるのがよい。 

4) 文化

人以外の動物も苦労をし努力をしている。殆どは、個体の生を守り子を育て子孫を残すための努力である。生きることができず子孫を残せなかった個体の遺伝子は失われる。
人も、個体の生を守り子を育て子孫を残す。
ただ人だけが、意識的苦労、意識的努力ができる段階に至り、その努力の結果が人と外界を媒介する外部に蓄積されるようになった。他の動物と違うのは、外部に蓄積物を持ち、生き方を新しくすることができた点である。

      

図7.2  技術と制度

価値実現のため、人類はたまたま二種の異なった時間粒度の手段を持った。

進化 は、生命誕生以来体内で人の意志に無関係に働いている。進化の運動は、必要な機能を長い時間をかけて構造変化によって実現する「機能と構造の矛盾」とその結果の連鎖である。

文化 (技術, 制度, 科学, 芸術)による運動 は、4000年前から体外で人の意志で、働いてきた。文化による運動は、「一体化(自由)と対象化(謙虚な愛)の矛盾」である。ここでの文化は文明を含む。

                          表7.1. 四つの文化と対象化、一体化

  操作 認識
対象化手段 技術 科学
一体化手段 制度 芸術

技術, 制度, 科学, 芸術も、それぞれが機能と構造の矛盾の矛盾で、かつ大きくは上のような機能の分類がある。
技術とは、技術手段とそれを生成する過程、それを利用,運用する過程の総体である。[TJ200306] [TS2008-09]
技術の生成とは、最初に技術手段を作る過程である。技術の開始と制度の開始を比較すると、制度の開始が高度であることが分かる。技術の開始は人と対象の間に媒介物を入れれば済む。
制度の領域は、人間の世界への働きかけを媒介、仲介するものとして共同観念を持つ。
制度の誕生は、物々交換の誕生から二千年後、約四千年前である
制度とは、共同観念の共有とそれを生成する過程、それを利用,運用する過程の総体である。共有は関係の一種である。[TJ200306] [TS2008-09]

 

7.2 物々交換の開始までの歴史

目的を達成するための方法、論理は、根源的網羅思考と矛盾モデルである。論理的かつ歴史的という二つの粒度の統合でしか、人類の今後の生き方のような大きな問題を解決しない。この立場、粒度が人類の今後の展望も示すことができる。

矛盾モデルの内容を具体的に決めるのは粒度である。思考の殆どは、思考が成り立つ粒度を決めることである。

根源的網羅思考は、事実と価値のより大きな全体と本質、価値を求め続ける思考である。目的は、意志のある誰もが(可能なら全てのものが)、いつでもどこでも全てのものの「価値」をお互いに高めて行く客観と、その主観的な実感である「幸福」の二つの両立であるような、主観と客観の統一を行う全体、本質、方法を求めることである。

この客観と主観は、世界の単なる一般的静的関係である。したがって、客観と主観の関係を具体化し活性化する矛盾が必要である。それは、人の態度、行動を最も根本的に変える矛盾で、かつ永続する一体型矛盾でなければならない。

仮説がある。最も根本的な矛盾は、今の人の態度、行動の根本を決めている概念とその反対概念の矛盾であり、その解はこの二者の弁証法的止揚であるという仮説である。この矛盾の粒度が求まればよい。論理だけでも歴史を総括しただけでもきちんとした解は見つからない。解は、論理的に正しくかつ歴史的に確認されたものでなければならない。そして弁証法によると歴史と論理は大きな粒度で一致する。

仮説がある。最も根本的な矛盾は、今の人の態度、行動の根本を決めている概念とその反対概念の矛盾であり、その解はこの二者の弁証法的止揚であるという仮説である。この矛盾の粒度を求めたい。ここで、全体が、Aと単なる非AではないBで網羅されているとき、その全体に関して、Aの(真の)反対はBであるということにする。このAとBが態度と行動でお互いに入れ子になるとAとBを変化し続ける一体型矛盾ができる。

 

人類の歴史を以下に概観する。その目的は、歴史の中から論理を探すためである。今、人類に必要なのは、今の人の態度、行動の根本を決めている概念とその反対概念の矛盾であり、その解はこの二者の弁証法的止揚である。具体的には、歴史の中から、この矛盾を規定する基本法則、原理が成立する時間と属性の粒度を見つけることである。生き方を規定する基本法則、原理である重要な矛盾の対;認識についての客観と主観、態度と行動を具体化する矛盾の二項が必要である。その候補は、対象化とその反対概念であろう。一体型矛盾はお互いが矛盾の二項を充実させながら進化していくから、対象化の反対概念は、歴史の初期段階では初歩的なものでもよい。しかし、我々はまだこの反対概念は何かを知らない。それが歴史にないかを探したかった。そしてそれが見つかった。

この時点では、偶然の客観的要素がまだ多く、矛盾の開始条件は、外部から与えられる。また、一般に何かを始めるための条件が外部に整っていないときは、それを整えることが必要である。

1) 生命が登場する以前の歴史

何かの始まりがある。始まりは客観的な自然の場合も人の意識的努力による場合も同じようにある。例えば、細胞分裂が起こっていて、一つの細胞が二つになりつつある場合のような極限がある。一つの細胞の中に、二つの細胞を作る必要性と可能性、或いは可能性と現実性が同居している。始まりの矛盾に、必要性と可能性の矛盾。可能性と現実性の矛盾という両立矛盾がある。

生命が登場する以前の歴史は、差異解消矛盾と両立矛盾だけで表現できる。
地球が生まれ灼熱の地球の時代を経て以来、マントル運動が大陸、山を作る。マントル運動が起きるのは、惑星が生まれた時にあったエネルギーと地球の自転による。
マントル運動が起き地震が起き、適当な山が誕生し、風が吹くのは差異解消矛盾で説明できる。差異を起こすのは、通常、外部からの力である。風が吹くのは、惑星の自転、恒星エネルギーによる水の蒸発などによる。
常に世界は、変化していると見る粒度もあるが、安定し他と並立した状態を、両立矛盾の解と見る粒度もある。とにかく地球は多様な環境の星になった。

2) 生命登場以降の農業革命までの歴史

生命が登場すると(ということは、自律的エネルギーを内蔵し外部と相互作用しながら運動する個体が現われると、ということだ)進化が起こる。進化における無意識的な機能と構造の一体型矛盾は生命誕生以来続く矛盾である。この中の一回きりの機能と構造の矛盾は、生命個体が、機能と構造を意識して起こしたものではない。つまり、一回きりの両立矛盾ではない。

一般に、生命の進化に機能と構造の一体型矛盾があった。一体型矛盾が人類だけにあるかというとそうではない。進化の場合は、種の存続−生の個体の数という永続する基準がこの一体型矛盾の運動に働き続けた。個体数がゼロになるとその種は絶滅した。

生殖によって子孫を残す生命の進化の形式は、通常の遺伝子組み合わせと遺伝子コピーミスによる突然変異の二種あると考えられる。いずれも、生き残るとは生きるエネルギーを確保することである。
     1) 日常的にエネルギーを確保できたものが生き残る。その前提で
     2) 通常の気候変動や共存する他生命との関係変化など、緩やかな生きる環境の変化に対処し、生き残るための遺伝子変更をして生きるエネルギーを確保できたものが生き残る。さらにその前提で
     3) 千年以上の単位の大きな気候変動や、小惑星衝突、100年程度に一度というかなりの頻度で起こる大きなカルデラ噴火や大きな太陽嵐など、突発的な危険に対処する遺伝子変更によってエネルギーを確保できたものが生き残る。
つまり、遺伝子変更ができ、生きるエネルギーを確保できたものが生き残った。進化は、生きるエネルギーを確保するに必要な遺伝子変更を行えたものだけが生き残るという、エネルギー原理に拠っている。

生命の存続のためには、日常的な個体維持に加え、突発の変化と通常の変化に対応しなければならなかった。この突発的変化と通常変化への対応の運動は、無意識的な機能と構造の一体型矛盾であった。これは一回きりの両立矛盾ではない。

では、他の両立矛盾はあっただろうか?
あった。一回きりの機能と構造の矛盾は両立矛盾である。
目的を持って行動する動物が生まれて以降、意図的な両立矛盾が始まる。意図的な機能と構造の矛盾は狩猟、採取において始まったと考えられる。動物の狩りは獲物を取るという機能を、動物の意図的連鎖行動という時間構造を作って実現する。最初の、かつ本質的な構造は、行動の時間的連鎖構造である。
この状態は、人類の農耕が始まるまで続く。言語、初歩的な道具の使用は、ここではまだ意味がないと考える。オオカミやライオンなどの集団による狩りも、人の集団による狩りも初期のこの段階のものである。

六,七百万年前、サルから分岐した人という種が、言葉を作り、石器の利用、火の利用をする。どれもその開始時期には様々な説がある。火の利用が始まったのはこの中で比較的遅く、ほんの十万年くらい前という説もある。[https://ja.wikipedia.org/wiki/初期のヒト属による火の利用]
ここまでに、人の歴史の殆どが使われた。

   

7.3 物々交換の開始とその後の歴史: 四段階

これから、物々交換成立→ 経済制度成立→ 政治制度と宗教制度の同時成立 という仮説ができる。これが資本主義成立まで続く。言うまでもなく極めて大雑把な一次近似モデルである。以後の稿も含め、全て、雑な抽象化である。
物々交換だけでは足りない、物々交換から始まった「経済」とそれを補完する「政治」が生まれる。そして経済制度の生成以来、それは、資本主義成立までは、政治は宗教と並存していたのだった。そして、資本主義成立までの政治は、独裁制だった。これは、資本主義成立後は、宗教の助けを必要としないようになったこと、民主主義が可能になったことも意味している。
念のために言うと、経済と政治が相互規定し合うのと同様に、経済を規定するのは、エネルギーと技術である。情報、情報を扱う労働者の能力増大、AIは、生産力であり、生産構造の管理である経済を規定する要因である。生産力を、生産構造の管理によって管理するのが経済である。

資本主義後に、これも大雑把な一次近似モデルであるが、民主主義、人権意識、「自由、平等、博愛」が始まる。
こうして、物々交換→ 経済制度→ 資本主義成立まで、宗教制度と並立する独裁政治制度→ 資本主義成立後、「自由、平等、博愛」が可能な民主制の政治制度 というモデルができる。

小中学生に理解できる水準の基本的歴史理解、世界観のための内容の抽象化を、物々交換がもたらしたものから直接得ることができ、この水準の基本的歴史理解、抽象化された世界観の内容が潜在意識化される。
世界観と、世界観から作られる態度、方法が生き方の全体を作る。

物々交換に関わる四段階を以下に示す。
矛盾によって太陽、地球誕生後の人類の歴史を表現してみよう。人が操作できるオブジェクトを主に扱う。後で歴史を総括して世界観を述べる。
火の利用と道具の利用を始めた人はどう生きていたか。その後のその時々の人はどう生きてきたか。
生産量と人口の増加がなぜどのように起こったか、その後の具体的な生産量と人口の増加が、どういう生活をもたらし、それがその時代にどういう内容の制度変更を必要とし、実際にどういう変更が行われ、どういう価値が実現されたのか。「四大文明」の技術、経済、政治・宗教、行政の四要素が発展していく論理と、実際の歴史を大まかには把握し、世界観は作る。

1) 六千年前の物々交換、それが何をもたらしたか?

11) 物々交換の成立

運動に、何かを始める「開始」と運用がある。両立矛盾の開始に必要なのは、
      1. 始めるために必要な、外部条件があり、
      2.人の操作できる両立矛盾の成り立つ前提条件(物々交換の場合、所有意識)と
      3.この条件と、開始の矛盾の解を同時に求めないといけない。
他の矛盾と同様に、いずれも
      0.エネルギー
が前提である。二人が関係する矛盾の場合これは困難である。(数字は下記の数字に対応している)

人の火と道具のある利用段階に達する技術の発展時期が、たまたま四回目の氷河消失という条件と重なり、一万年−八千年前に農業革命を起こした。狩猟や漁業と異なり、農業は、人の努力で自在に耕作地を増やし、長期保存可能な、でんぷんと蛋白質を含む生産物(produce)の生産量を、増やすことができるようになった。農業革命によるエネルギーと自然の対象化が、二千年から四千年かかって、徐々に、生産量と人口を大幅に増やしていく。太陽エネルギー利用による農業革命による農耕の対象化がその後の人類の進歩を開始する。農耕地開拓により生産物が増え保管が進む。

物々交換をもたらした歴史、物々交換の発展がもたらした歴史が、その後の人類の発展である。これに四段階があった。
農業革命後の物々交換に限らず、両立矛盾を始める時は、つまり、開始という運動の矛盾のためには、始めるための両立の条件と、始める矛盾の生成、その矛盾の解を同時に求めないといけない[THPJ2012]。物々交換のように、意志を持った二人が関係するものの運動の開始の場合、これは難しい。

保管している食料を奪いに来る相手との闘いをどう解決すべきかが集団のリーダーの悩みの種だった。ある時、偶然の解決策が得られた。3.解は、闘いで死者が出るという問題を物々交換で解決するものだった。物々交換の成立と同時に2.「所有」という概念が生まれる。「所有という概念」は同時に物々交換の条件にもなっている。0.物々交換を行うエネルギーは十分にあった。それに物々交換が成立した効果として、大きなエネルギー節約がもたらされた。
物々交換の場合、条件と矛盾の解が偶然にでき、偶然であいまいな運動がしだいに確定的な運動になっていく。[TS2010] [THPJ2012] [IEICE2012]

物々交換は「所有」というあるものを自分(達)に引き付ける一方向一体化概念の成立後に生まれた。「所有」が最初に生まれた一体化だった。最初はあいまいだった「所有」が次第にはっきりしていく。最初は集団の「所有」だった。
これが、前に述べた「最も根本的な矛盾は、今の人の態度、行動の根本を決めている概念とその反対概念の矛盾であり、その解はこの二者の弁証法的止揚であるという仮説」の解になるかもしれない。一体型矛盾の二項は次第に完全になっていくので、ここではまだ初期的観念のままである。

この時の集団の「所有」と集団への帰属意識の関係はよく分からない。ただ、物々交換が始まった当時は、集団意識も個の意識もなかったと考えられる。[TS2010]で物々交換開始の検討をした時に地域共同体意識を挙げている。この地域共同体意識は地域への帰属意識の初期形態であろう。共同体意識の帰属意識の本質かもしれない。地域所有意識、地域共同体意識、地域への初期の帰属意識、物々交換は同時に生まれた。
後に、多様な個は確立しなくても、多くの個をまとめるために「帰属」という「所有」と並ぶ一方向一体化がはじまる。
物々交換は、新しい「もの」と「観念」の両方の運動が同時に起こる。物々交換の運動の開始の検討が遅れたのは、この複雑さも要因であろうと思う。[THPJ2012]では、この複雑ないくつかの矛盾を分析した。最初、偶然の物々交換が生まれ、それが次第に普及していき、並行して生産物は集団の「所有」物であるという共同観念が、これも徐々に広まっていく。

物々交換の開始について、モースなどの従来の論者とは、第一に、この闘いの中でどうしても現実の死者を減らさないといけないという人類の歴史の問題=矛盾のとらえ方と、第二に、何かの「起源」のとらえかたの二つが違う。
極論だが、こうして始まった「物々交換」以外に「根源的」な物々交換はない。これ以外の、動物が行う「交換」にはあまり意味はない。
人の重要な歴史の転換に関わる矛盾の中核には、必ず人に特殊な、かつ、どうしてもその時代に解決しなければならなかった課題がある。人に特殊な問題の解決に資するものは、先行する動物の問題解決を含め、取り得る全てを取り入れて解決しなければならなかった。
そしてある時、偶然の物々交換が行われた。

この物々交換開始の仮説  については、[TS2010] [TS2012] [THPJ2012] [IEICE2012] [CGK2014] をご覧いただきたい。ともあれ、その結果は余りに画期的だったので、物々交換はしだいに着実に広まっていった。

注: 実は物々交換はなかったという説や、物々交換から貨幣が生まれたというのは間違いだという説がある。物々交換(と同時に生まれる「所有」)があったからこそ、物々交換の不備を補う「経済」とそれを補完する「政治」が生まれる。経済や政治が生まれるには物々交換がなければならなかった。

たまたま起こった最初の代表者二人の間の物々交換で最初の制度  が成立した。複数の人の共同観念とその生成、運用の総体が、制度の定義である。最初に成立した共同観念は共同体意識である。それを作ったのは物々交換だった。道具の利用は、共同観念を作らなかった。

注: [THPJ2012] から引用する。

物々交換の成立には、次の三つが必要だった。
     1.自分の前にあるものが自分の共同体の所有であり、相手の前にあるものが相手の共同体の所有であるという認識
     2.自分の共同体の所有物を相手に与え、相手も同じことを同時にするという物々交換予定像
     3.いつ、どこで、どのぐらいの量を受け渡すかという物々交換実行の場所と時間の予定像
両者を考慮したこの共同観念を、別々の共同体の代表が共有することが物々交換という画期的制度の始まりである[TS2010]。奇蹟としか言いようがない最初の物々交換の成立がどうして起こったのかは、今となっては謎である。

謎の解決のための仮説は、次のようなものである。

女系社会が男系に転換したとされる仮説の「女性の世界史的敗北」と同時期またはそれ以前だったと推定される最初の物々交換でも、物々交換の交渉者は武力に優れた男であり得る。物々交換の交渉が成立しない場合は、相手を殴り倒さないといけないかもしれないので。したがって、二つの共同体の交換の代表者が男と女であった可能性があり、この二人の恋が最初の物々交換を可能にしたのではないか [IEICE2012] ?たまたま、両共同体に、生産物がやや余っている時期と、恋によって生じた、お互いが相手にプレゼントを与えたい感情が重なるという極めてまれな条件が生じた。これが、強奪によって生じるいさかいで死者が増えるのをどうすればいいかという、共同体リーダーの悩みの種であった問題を解決した。物々交換が成立すれば、共同体双方の生産力が向上するという認識は、当時はなかったと思われる。この認識不足を埋めたのが恋だった。こうして、物々交換頻度の増大が、分業による全体の生産力の増大をもたらし、自分の共同体の生産力の増大になっていく。これは、当時は、道具の改良と共に、人の生命という価値の最も重要な客観的増大手段だった。

こうして、最初の物々交換は奇蹟的に成立した、それにしてもよくぞやってくれた、というのが仮説である。

[TS2010] 2.2.2項からの引用を以下に行う。少し長いが、物々交換が共同体意識を作った説明がしてある。最初に生まれた所有意識は、共同体の所有意識だった。なお、個人がお金で売買をするようになってから、個の意識が徐々に広まっていったという趣旨の説明が資本論にあったと記憶する。

(物々交換による自他共同体意識の分離)
資本論第一巻第一章は、貨幣誕生の壮大な論理の物語である。ここで話題にするのはこの物語の前にあるもう一つの物語である。それは、物々交換が普及したという奇跡である。闘って勝ったほうが相手の持っていたものを手に入れるというルールが一般化しても不思議ではなかった。しかしそうならなかった。平和的な物々交換という奇跡が起こったのである。これに比べれば、道具が普及し今日の技術の隆盛を見たのも、言葉が普及したのも、貨幣が誕生したのも当たり前のことが自動的に起こったに過ぎない。

物々交換がなく強奪しかなかった時には、個と他という意識がないのはもちろん、所有意識もなく、自共同体意識、他地域共同体意識の区別さえなかった。強奪は、あったものを持ってきただけである。

最初の物々交換は、地域共同体の代表が別の地域共同体の代表と行ったのであろう。その時、代表である彼または彼女が持っていた所有意識は地域共同体の所有意識だった。このときの彼または彼女の自己意識はまだ地域共同体意識に等しく、自己意識と地域共同体意識は分離していなかった。しかも、この地域共同体意識を持っていたのは、地域共同体を代表して物々交換を行う彼または彼女だけで、他の全てのメンバーは、まだ地域共同体意識すら持っていなかったであろう。強奪の場合との違いは、物々交換を行う彼または彼女だけは、他共同体意識を持っていたことである。おそらく自共同体所有意識、他地域共同体所有意識が自共同体意識、他地域共同体意識を作った。はじめは、物々交換の行為の瞬間だけ存在したかも知れない自共同体所有意識、他地域共同体所有意識とこれに起因する自共同体意識、他地域共同体意識と行動予定像は、物々交換が継続して行われるようになってくるにつれ次第に定着し次第に明確な意識になってくる。

物々交換を直接担う共同体双方の先進メンバーの、共同体所有意識、地域共同体意識の萌芽と偶然の行動の予定像の一致が、一時的に偶然の物々交換を可能にし、その継続が一時性、偶然性の程度を下げていき、それが共同体所有意識、地域共同体意識と行動予定像を強化し、さらにそれが一時的、偶然的だった物々交換を、次第に継続的、必然的なものに変えていく。漠然とした自他共同体の区別のない観念から自共同体意識と他共同体意識、それぞれの所有意識への分割と物々交換予定像から構成される共同観念が、物々交換という行為の成功と相互作用して起こり、長い相互作用過程の後、定着する。
この共同観念は、自共同体と他共同体双方のプラスになるものである。相手のことも考慮したオブジェクトの変化とその持続の決断が物々交換の成立に決定的でそれが歴史を作ったことに感動する。

この過程はある共同体では成功し、別の共同体では失敗するが、成功する共同体は次第に増えて行き、今日に至る。資源が豊富にあるという条件化では、物々交換に成功した共同体群は分業の大きな利を得るが、失敗した共同体群は衰退する。物々交換が成立する過程は、共同体の生存を賭けて制度を作る過程であった。
生成時に本質が見える。共同観念は行動と相互作用しながらオブジェクト分割をしていき制度が分割され高度化が進んでいく。これは、共同観念の生成と発展の歴史と論理、制度の生成と発展の歴史と論理である。([TS2010])

解の結果は余りに画期的だったので、物々交換はしだいに着実に広まっていった。

この偶然の物々交換から「等しい」という意識、等価の意識が発生したことが重要である。それから等価原理が意識に発生してしまえば、等価なものが、実物であろうが、貨幣であろうが、何段になった負債であろうが、何段になった信用であろうが同じ、というのが学者の説と違うところだ。貨幣も等価なものの一つである。

資本論第一巻第一章で、マルクスは「商品ありき」で検討を始めてしまう[THPJ2012]。貨幣がない状態での「商品ありき」は「物々交換ありき」ということである。これが矛盾見直しの大きなきっかけになった。つまり物々交換の開始の検討をしないといけなくなった。一般化すれば、何かを始めるという運動の検討をしなければいけなくなった。なお、資本論第一巻は、第一章以外は見事な論理が展開されている。
結果として「マルクス主義」の弁証法論理、その単位である矛盾は、使えないので、新しく作り直さなければならなかった。 矛盾を、運動とその開始の構造として、アルトシュラーの考えを拡張して再定義することができた。また、2012年には、一回限りの矛盾と、永続運動である新しい型の矛盾があるということが分かり、後の一体型矛盾の概念ができる。

知的生命は生まれたが、物々交換が成立しなかった星がないか?どういう場合に物々交換ではなく等価でない交換が起きるか?地球では生産物が増えれば増えた分は人口増加に使われたので、いつも生産物は不足だった。それが物々交換の誕生に至る条件の一つだと思う。

12)物々交換がもたらしたもの:制度と科学の基礎である等価原理(等しさの原理)

最初は、特定の集団間で行われた物々交換とその前提の「所有概念」は広まっていく。物々交換制度、所有観念は次第に定着し普及して法的概念になり制度化される。ある社会の中の全ての意識的主体が物々交換の共同観念を共有し、生産と生活の前提になる。交換の場所は次第に市場に変わり、貨幣ができ、生産量が増大し、交換が「もうけ」を生むようになると、経済制度が発展する。
経済制度の発展は、交換主体、交換対象、媒介物、媒介形態のそれぞれで起こる。他の制度、技術、科学、芸術で発展がどのように起こるか、これらに共通の原理があるか、相互間の原理の関係がどうであるかは大きな問題である。共通の発展原理は[THPJ2015/2]で触れた。

注:  次のプラスの三つ、新しい機能の三つ、新しい構造の二つが根本的発明原理(特記ないのはTRIZの40の発明原理に含まれる)

+プラス:
       ・ 新しいオブジェクトの追加 (新しく追加)
       ・ 分割
       ・ 既存の二項または分割した二項を関係づけ運動させる  (Southbeach)

1. 新しい機能:
       ・ 転用 「一つの機能を他領域に転用」 (発明楽[HMG] )
       ・ 汎用性 「一つの属性が複数の機能を実現」
       ・ セルフサービス 「それ自体で必要な機能を実現」

2. 新しい構造:
       ・ 入れ子 「同じか同じ形式の、もの、情報が、もう片方の中に入る」
       ・ 仲介(媒介、間接化)

度などの文化は、重層化、媒介化、間接化を何重にも経て膨大化していく。自然の発展の場合と人が作る文化(技術、制度、科学)の場合では発展の形態が異なる。芸術の発展の形態はよく分からない。

物々交換は、これと同時に等価原理(等しさの原理)を生む。
     1. この等しさの原理は、制度の面では、婚姻に関する集団内の共同観念と並び、所有や「罪と罰」という集団内、集団間の共同観念を作り、法制度の一部を作った。
     2. 等価原理、等しさの原理は、認識の面では、等式、差の意識、推論、科学を生む。

物々交換は、制度や、(物々交換が起こした「等しさの原理」、等価原理の形で)科学の本質とは密接に関係する。つまり物々交換は、経済制度、法制度などの制度の根幹、科学の発展に関わる。しかし、「文化」のうち、芸術とはあまり直接には、関係がないようである。

13)物々交換がもたらしたもの:等価原理(等しさの原理)のマイナス面

等価原理(等しさの原理)は、合わせて  3.様々なマイナスを生んでいる。同じ等価でも「罪と罰」は良いが、復讐感情だけ悪いのか?

今は私的復讐は法的に禁じられている。しかし、テレビなどの時代劇で、仇討ちは悪として描かれていない。忠臣蔵の仇討ちなどである。忠臣蔵は日本人に共感され、復讐は善という価値意識は、「復讐を起こす『正当な』理由とともに」ではあるものの、日本人の潜在意識に入っている。民放テレビで「水戸黄門」の再放送が行われている。十回に一回位、仇討ちが登場し、実際に仇討ちで相手を刺し殺す場面が描かれ、黄門が「あっぱれ」と褒めたたえる。これでは、復讐は善という価値意識は、「やむなく仇討ちをしないといけなくなった理由とともに」ではあるものの、日本人の潜在意識に入ってしまう。推測だが、西欧では死刑廃止の方向なのに、日本では死刑賛成の意見が多いのは、「武士の仇討ち」の偽善にもよるものではないか。

子供向けのおとぎ話(特に簡易版)では、「良いことをしたら良いことがあるよ。だから良いことをすべき」ということがあからさまに強調される。これは有害と考える。
良い結果を得たいから良い行為をする如何なる実利的な指向にも、現世の「ご利益」にも反対であるべきではないか?
等価交換から生まれヨブ記など初期の聖書にあった文字通りの「いけにえ」という概念は、聖書においても徐々になくなりキリストの「死」以外には残っていない。復讐はなくさないといけない大きな概念である。「罪と罰」も変えないといけない対概念かもしれないがよく分からない。
聖書の神の審判、黙示録、カトリックの煉獄、通俗仏教の地獄も、現世の「ご利益」を説く通俗新興宗教の偽善とともに、排すべきではないか。(フォーレを除く)レクイエムで「煉獄」は見事に描かれ、無意識に人の心に入ってしまう。

結果を求めずただひたすら良いことをしようとするのが良いのではないか?同時に、難しいことだが「良い」ことは何かを常に求め続け相対化し続けなければならない。

対象化による生産の増大が等価交換を生み、同時に生産増大がもたらした人の増加に対処して人の心を一つにする神への信仰、集団への一方向帰属を生む。
しかし、等価意識と相まって問題もあるいけにえ、「目には目を」、復讐、罪と罰も生んでしまう。
集団への帰属は他集団の排除を生む。要するに当時は緊急の一部の課題を解決しただけで問題を残した。
一方で、宗教の生んだ一方向のひたすらの謙虚さは全面的に良い態度と考える

また、その後、資本主義=利益第一主義が生まれて後に、「私的所有」の結果である「お金」だけが、唯一無二の「価値」、経済のただ一つの原動力になり大きな問題を作った。

2) 物々交換の開始後の進展

21) 機能と構造の矛盾の発展

物々交換が成立した後、制度ができ、文化が発展すると、機能と構造の矛盾という実用的な両立矛盾が大々的に開始できる条件が整う。機能と構造の矛盾とは、機能の事実とあるべき機能の姿の差異の認識が、差異を埋める構造の可能性の認識と構造手段を作り、実現することである。

意志、意図が、運動を合法則的に行い加速し生き延びる条件が農耕の開始後によって生まれる。機能と構造の矛盾が、高度な構造の道具、機械や水路などを作っていく。
さらにこれを実現しながら持続的に進化することを可能にする歴史構造ができていく。高度化を持続する機能と構造の矛盾の継続を、人は、農業革命で可能にした。

22) 対象化と一体化の一体型矛盾の原型の開始

ある時、対象化の反対概念である一体化の原型が発見され、特別で重要な一体型矛盾として、対象化と一体化の「一体型矛盾」が生まれる。
片項または下位のまだ実現できてない要素を完成しながら、もう片項がもう片項の同時変化変更をさせる。[FIT2017]などで、「所有」や「帰属」が一方向一体化の姿で、それが双方向一体化に進んでいくべきだと書いている。しかし、よく考えてみると、これは対象化と一体化という一体型矛盾の片項なら当然なのだった。

3) 四千年前以降の生産量と人口の増加、宗教の誕生、政治制度の発展

この項を書いていて、歴史は、ヘーゲルの「自律」矛盾のように、次のことを自分で見つけたように見えることに気づく。
      ・ 物々交換が開いた経済の発展に「法」「政治」が必要なこと。
      ・ 必要な「法」や「政治」の実現には、宗教との並立が必要であること。
      ・ 宗教と並立する独裁政治は資本主義成立まで変わらないこと。  

31) 法、政治の始まり

物々交換から初歩的な経済制度が生まれ、約二千年遅れて、引き続く経済の発展による生産量と人口の増加が、その管理のための法制度や政治制度を必要とするようになる。例えば、ある集団リ−ダ間だけで、所有概念が生まれ物々交換ができる。それがグループ全体に、さらに全集団に広がり、「相手の物を盗んではいけない。違反すると罰がある」という法ができるのに二千年かかった。

法制度や政治制度のために、宗教が形成される。四大文明、世界宗教が始まる。「経済制度→ 法制度、政治制度」などと書くが、経済制度、法制度、政治制度は相互作用がある。
左項がまずありそれが右項をまずもたらすこと、左項が右項の主な規定要因であり時間的に前、という意味で「→ 」を使う。上の例で、法制度、政治制度が経済制度を規定するという意味では、矢印は逆になる。

32)宗教の始まり

宗教は、当時、最大の生産手段であった土地を、支配者が「管理」するための手段になった。これは、https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教の起源 に教えられた。

「小集団や部族が超自然信仰を維持していたが、そのような信仰は権力者の支配権や富の移動を正当化したり、無関係な個人間での平和を維持するのには役に立たない。組織宗教は次のように社会的、経済的安定を提供する手段となった。
    ・ 領民に社会や安全のサービスを提供する見返りに税の徴収権を支配者に認めることを正当化した。
    ・ 小集団や部族は血縁関係にある少数の人々からなる。しかし国のようなより大きな集団は何千もの無関係な個人からなる。ジャレド・ダイアモンドは組織宗教が、それがなければ敵対的な関係に陥りやすい無関係の個人同士に結びつきを提供したと主張する。
農業革命から生まれた国(古代エジプトや古代メソポタミアのような)は首長、王、皇帝が政治的と精神的な二重の指導者を演じる神政であった。人類学者は実質的に全ての領土的社会と首長制国家が宗教的権威を通して政治的権力を正当化していることを発見した。」  [https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教の起源]

当時、宗教の意味には、
       1. 人口増に対処し人と人の関係を管理するための制度、
       2. (資本主義が始まるまでは)土地という生産手段を管理するための制度、
       3. 人の内面にとっての意味、
の三つがあったことが分かる。中世の支配者は、土地を所有しているという意識はなかった。土地所有に、特に「価値」はなかった。宗教―― 一神教のキリスト教、イスラム教、仏教や神道など――は四千年前から二千年前ころにかけて生まれた。

経済制度を補完し、上の1.2.を実現するために、宗教と政治は同時に必要になった。きわめて大雑把に仮説を言うと、宗教と政治の同時並列は資本主義が始まるまで続く。資本主義成立までの政治は、集団内の独裁制だった。これが、長く続く宗教と政治の一体化と関係している。社会学者や政治学者による検討はされているのだろうと思う。

資本主義成立までの宗教制度と並立する政治制度が純粋に成り立つのは機械に頼らない農業の時代で、これと機械の産業が立ち上がってくる時代を分けたほうが良いのかもしれない。資本主義成立以前から、工業は産業として成立していて、宗教と言う「一体化」だけが政治に必要な時代は、徐々に「対象化」も政治、経済の管理にも大きな役割を果たすようになったであろうから。

33) 文化、文明の始まり

四大文明あるいは六大文明が周囲に広がっていく。そのため、大雑把に言うと、世界宗教の誕生は、四大文明発祥とほぼ同期している。
       ・ 古代メソポタミア近辺のユダヤ教、キリスト教、イスラム教、
       ・ インダス文明の仏教、
        ・ 黄河,長江文明の(宗教ではないかもしれないが)儒教、である。
完全に対応していないかもしれない。時間にずれがあるかもしれない。また、古代エジプトの宗教は、世界宗教にならなかった。

文化と文明は、通常、やや異なった意味に用いられている。文明はやや物質的なベースがあるニュアンスで、文化はその背後にある精神的なもののニュアンスで。しかし高原の文化は、両者を併せ持った意味の概念である。
ここの四大文明あるいは六大文明の「文明」とは、高原の「文化」の原型で、
      1. 生産を行う技術と労働の体系と運用、
      2. 生産、交換の管理のための経済制度、
      3. そのための初歩的な政治・宗教制度、
      4.行政機構
の四者の複合体
である。

文化、文明の発生時期は、論理的実証的検討がされていると思うが、例えば、日本の縄文時代は、多くても三百人程度が同じ場所に定住して比較的高度な共同観念を共有し合っていたらしい。しかしそれは四大文明のような初歩的な、生産を行う技術と労働の体系と運用、生産、交換の管理のための経済制度、そのための初歩的な政治・宗教制度、行政機構の複合体ではなかった。この違いを具体的に把握しないと認識は進まない。これはまだよく分からないので大雑把な論になっている。

4) 矛盾の発展結果

41)  形式的矛盾の展開

TRIZの「40の発明原理」に挙げられている原理には、機能と構造の矛盾のための原理が多い。機能と構造の矛盾という直接に役立つ矛盾から、徐々に、より形式的な両立矛盾が徐々に派生していくこれらは、今、思えば、いずれも一体型矛盾としてとらえられるべきものだった。これらの矛盾がいつ成立したかというのは大きな問題である。

例: 内容と形式。システムと運用。

42)  分離していく矛盾とその結果

生命と人類の長い歴史の中で、もともと一つだったものが、次のように分かれて発展していく。いずれも、機能と構造の矛盾が高度化を求めて分化するものである。そうして、男と女(雄と雌)、労働と交換と消費などが分離する。これらは両立している。これらは必ず永続する一体型矛盾である。これには以下のものがある。

421) 二つの客観的オブジェクトへの分化

(二つの客観的オブジェクト、実体+運動): 男と女。

422) 二つの運動などへの分化

(二つの客観的オブジェクト、二つの運動):労働、交換、保管、消費。多くの動物ではこれは分離していない。獲物を捕ることと食べるのは別の行為であるが必ず連続している。態度と認識・行動。

(二つの客観的オブジェクト、固定的なものと運動):技術と制度。

(客観的オブジェクトと思考):客観と主観。認識と行動。歴史と論理。感情と論理。リアリズムとロマンティシズム。

(二つの思考):思考と学習。受容と思考と表現 。思考と議論。粒度と網羅と矛盾。根源的網羅思考と矛盾。一体化と対象化1。愛と自由1。科学と芸術。

(複数の態度):謙虚さと批判。一体化と対象化2。愛と自由2。 [TS2011] [FIT2013] [FIT2016]

そして分かれたそれぞれは独自の発展を始める。  

43) 多様性と単一性の矛盾の結果

機能と構造の矛盾がただの機能実現の矛盾であるのに対し、機能が発展していくと出てくるのが、多様性と単一性という矛盾である。多様性と単一性は必ず永続する一体型矛盾である。これには以下のものがある。(拡大と集中など用語の意味のとらえ方によりどう分類するか異なってくる)

多様性と単一性の形式として、分散と集中。
多様性と単一性がもたらす機能として、豊饒性と単純性。複雑性と単一性。
多様性と単一性の形式と機能の双方として、展開と深化。拡大と集中。展開と集中。
多様性と単一性の方法として、分析と合成。

なお、対象化と一体化の矛盾の展開を進めて行くと、同様に多様性と単一性の矛盾が出てきた。別の粒度の偶然か理由があるのか、検討していない。

5) その後の歴史

資本主義後に、大雑把な一次近似モデルによると、民主主義、人権意識、「自由、平等、博愛」が始まる。
こうして、 
      物々交換→ 経済制度→ 資本主義成立まで、宗教制度と並立する独裁政治制度
      → 資本主義成立後、「自由、平等、博愛」が可能な民主制の政治制度

というモデルができる。

個性が花開くまでは、独裁政治は必要悪だった。これは今の「民主主義」時代から見て、こう言えることで、当時は、独裁は当然で「悪」とは言えなかった。今の「民主主義」の政治の難しさを感じているとそう思う。
この政治制度の単位は、できた当初は「国」という比較的大きな単位だったが、その後、多様化に伴って分散傾向が強まるが、それが次第に再び大きな単位に成長し、今の「国」の大きさに復活している、というのが世界に共通する傾向である。 

注: 「国」の大きさの変化の過程には、多様性が関わる。応仁の乱など分散化が始まる例である。2017年時点では、クリミヤ、カタルーニャ、クルドの「国」や帰属も問題になっている。 

民主主義を実現し、今の「国」を相対化して戦争の元をなくす必要がある。

政治成立後の四千年の歴史は、生産量と人口の増加に対応する、経済制度、土地管理制度、人の管理制度などの制度、科学、芸術、技術の歴史である。
人類の場合、農業革命以降は、おそらく、種の存続−生の数という基準に加えて、自分と相手の生の属性を良くするという基準が加わり、この一体型矛盾の運動に働き続けた。これは人類と、宇宙人の一部だけにある。
最近になって、おそらく、自分と相手の生の属性を良くするという基準が、自分と他のオブジェクトの属性を良くするという基準に広がった。広がるべきである。産業革命後のことである。

以上は、一体型矛盾の価値の「種の存続−個体の生−個体の属性(自由と謙虚な愛[TS2011])−オブジェクトの属性(自由と謙虚な愛)」による三段階ないし四段階の歴史展開だった。

    

7.4 物々交換後の歴史:対象化と一体化の矛盾

これまでの歴史から対象化と一体化を抽出してその変遷と本質を探る。

1) 対象化の誕生

人間の歴史は、単純化すると意識的な対象化の歴史である。人は対象化することのできる生命である  ということができる。
対象化の意識は、おそらく、何かを意図せず操作した時に、たまたま、人に有意な変化が起こる、ということが繰り返されて後、意図的な操作をするようになって始まった。これ自体の原初的形態は他の動物にもある。

注:  定義について
粒度特定が定義である。大きく分けて、網羅による方法、外から言う方法、内から言う方法、がある。
網羅による方法に、空間的網羅による差異表現、時間的網羅による差異表現がある。
空間的網羅による差異表現は、オブジェクトまたはその種類の網羅により全体が他とどう違うか、を言う。
時間的網羅による差異表現は次のようなものである。時間的網羅の粒度と本質の制約:時間的範囲を極限まで広げた網羅がある。極限まで広げたこの時間粒度の中で変わらないものが本質である。この粒度では、あるものは、あるものの本質の生成と運動の過程の総体である(運動の中で消滅する可能性もある)。あるものの本質とは、こういう再帰性に耐えるもののことだ。この本質は変化する可能性があり、変更し得る。技術や制度の定義はこのやり方で行っている。
外から言う方法は、外部に対しどういう他と違う作用、機能をもつかを言う。これは、人は言語を持つ生命だとか、道具を使う生命だとか、多く使われている。但しこの二つについては、最近怪しくなっている。もちろん、地球内に限っている。
内から言う方法は、他と違うどういう内部構造(要素の粒度と要素間関係)を持つかを言う。
あることの定義に、どのやり方が良いのかは検討に値する。[TS2012改]

対象化は、オブジェクトを自分と切り離したオブジェクトとして操作する態度、意志、行動である。
対象化の価値を、オブジェクトを変更する能力である自由であるとしている。操作できる力が大きいほど、人はより自由になる[FIT2013]。世に普及している「何々からの」自由、「何々への」自由を併せ含んでいると思っている。

後に述べる一体化、愛は「自分と他オブジェクトを一体として扱い、双方の価値を高める態度と行動」である。
オブジェクトに対する態度、行動は、対象化と一体化で網羅されている。これが対象化と一体化の矛盾が一体型矛盾でありその解が本質的に重要である根拠である。

今までの人の歴史において、他の動物と異なる三種類の対象化があった。仮に第一次、第二次、第三次の対象化と言うことにしよう。

まず、人類の比較的初期の、言語の発明、道具の製作と利用、火の利用という第一次対象化がある。この三つはどれも人に画期的変化をもたらした。そして言葉という媒介物によって主観が生まれ、言葉に加え道具という媒介物を得て主観と客観の分離が始まった。

人類は、これに続き、一万年前−八千年前、農業革命によって本格的に第二次の対象化を開始した。これが世界に広がるには数千年を要した。

250年前には第三次の対象化により産業革命が起こった。

どちらもエネルギー革命に基礎を置いている。[IEICE2016]
農業革命では、太陽エネルギーを利用した。太陽エネルギーと自然の対象化以降の人間の歴史は、もの、エネルギー、それらの運動の仕組みを対象化し、対象化したものを道具や機械で置き換えてきた歴史である。人間の歴史は、技術、特にエネルギーの対象化とその利用の歴史であった。単純化すると、制度などはこれを円滑に行うためにできたに過ぎない。

2) 一体化の誕生とその不十分な展開

農業革命後の第二次対象化がより重要である。重要である理由は、第二次対象化が、一体化を引き起こしたからである。
新たな対象化と最初の一体化を引き起こした農業革命が人間の歴史の中の最大の変革である。

次のように六千年かけて一体化は起こった。

一万年前から八千年前とされる農業革命によるエネルギーと自然の対象化が、生産量と人口を大幅に増やし六千年前物々交換 [TS2010] [THPJ2012] [IEICE2012]を生む。六千年前というのは、農業革命の後、四大文明成立の前という程度の全くの推測である。
物々交換は、対象の自分(たち)への一方向の一体化である所有と同時に成立した。

もともと、対象の自分(たち)への一方向の一体化を、いい言葉ではないが「所有」と言っていたのである。「所有」はここではまだ法的所有ではない。実際、この状態は二千年間続いた。つまり、まだ、法的所有はなく、対象の自分(たち)への一方向の一体化である状態が二千年間続いた。ウル・ナンム法典、ハンムラビ法典などで法的所有が成立するのは、物々交換が始まってから二千年後である。

マルクスは若いころ、正しく「対象の自分(たち)への一方向の一体化」を弁証法的止揚、弁証法的否定をすることが必要と考えた。原初の「対象の自分(たち)への一方向の一体化の弁証法的止揚、否定」が理想の態度である。その内容は経済学・哲学草稿で十分述べられている。

「私的所有の積極的止揚は、すなわち、人間的な本質と生活、対象的人間、人間的製作物を人間にとってかつ人間によって感性的に我がものとする獲得は、たんに直接的、一面的な享楽の意味、たんに占有の意味、持つという意味においてのみ解されてはならない。
人間は彼の全面的本質を、ある全面的なしかたで、つまりある全体的な人間として、我がものとする。
世界にたいする彼の人間的諸関係の各々、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触感する、思考する、直感する、感覚する、意欲する、活動する、愛すること、要するに彼の個性のすべての器官は、直接にその形態において共同的器官として存在する諸器官と同様に、それの対象的ふるまいにおいて、すなわち対象にたいするふるまいにおいて、対象を我がものとする獲得である。」[EMP第3草稿,p.151]

「私的所有の止揚は、すべての人間的な感覚と性質の完全な解放である。
しかしそれがこの解放であるのはまさしく、これらの感覚と性質が主観的にも客観的にも人間的になっているということによってである。目は、その対象が一つの社会的、人間的な対象、人間から起こる人間にとっての対象となっているように、人間的な目になっている。」
「だが事物そのものが、それ自身にたいする、および人間にたいする、一つの対象的な人間的なふるまいなのであり、またその逆でもあるのだ。」[EMP第3草稿,p.152]

「私的所有はわれわれを非常に愚かで一面的なものにしてしまったので、ある対象がわれわれの対象であるのは、われわれがそれを持つときにはじめてそうなのである。つまりそれがわれわれにとって存在しているか、それともわれわれによって直接に占有され、食われ、飲まれ、われわれの身につけられ、われわれによって住まわれ等々、要するに使用されるときはじめてそうなのである。
もっとも、私的所有は、占有のこれらすべての直接的実現そのものを、再びただ生活手段とのみ解するのであって、それらが手段として奉仕する生活とは、私的所有の生活、すなわち労働と資本家なのである。
したがって、すべての肉体的および精神的な感覚のかわりに、これらのまったくの疎外、すなわち持つことの感覚が現れた。人間存在は、その内的な富をおのれのそとへ生みだすために、この絶対的な貧しさへ還元されねばならなかった」[EMP第3草稿,p.151-2]

彼はこの時、アニミズム一歩手前まで行っている。

「太陽は植物の対象であり、植物には不可欠の、植物の生命を保証する対象である。同様にまた植物は、太陽のもつ生命をよびさます力の発現、太陽の対象的な本質力の発現として、太陽の対象なのである」[EMP第3草稿,p.223]

しかし、当時、この「一体化」にはまだいい用語がなく、今も普及していない。
そのためマルクスが言葉で語ったのは、法的「私的所有」の単なる否定になってしまった。問題は、否定すべきは「対象の自分(たち)への一方向の一体化」で、実現すべきは「双方向のあらゆるオブジェクトとの一体化」だった。しかし、この時、マルクスは、あたかも「法的所有」を否定すればいいように語ってしまったことである。所有は、主体が個人だろうが集団であろうが、必ず私的所有である。「対象の自分(たち)への一方向の一体化」やその否定を表す適切な概念や用語がなかったので、マルクスは、定着してしていた所有概念を使ってしまった。このマルクスを責めるのは酷だろう。
しかし、その後、マルクス自身、1.この「誤解した」用語と、2.「所有」しない労働者と「所有」する資本家の完全分離という単純すぎるモデルで、単純すぎる資本主義経済理論を作ってしまった。このためマルクスは、新しい世界のための大きなヒントは与えたものの、新しい社会の設計図を作れなかった。

当時「所有」が実はいい言葉ではなかったように、その否定概念、否定を表す用語もいい言葉はなかった。今は、「対象の自分(たち)への一方向の一体化」の否定を表す概念を「」と言い、愛を「自分と他オブジェクトを一体として扱い、双方の価値を高める態度と行動」と再定義している。他オブジェクトには、他人も他生命も「もの」も入る。普通の意味を含み、それより広い。

「価値」の「等しい」ものを交換する物々交換は、同時に等価原理を生み、等価原理は、婚姻に関する集団内の共同観念と並び、所有観念や、相手への危害防止を目指す「目には目を」「罪と罰」という集団内、集団間の共同観念を作り、法制度  の一部を作った。しかしこれは「憎しみ」「復讐」なども生んでしまった。

注: 最古とされるウル・ナンム法典、ハンムラビ法典の中身は、相手への危害防止、婚姻、所有の三つに関するものだった。

3) 対象化と一体化の歴史総括と課題

産業革命、資本主義は、太陽エネルギーが蓄積された化石エネルギーを対象化し大量利用する第三次対象化を進めた。[IEICE2016]

対象化は、扱うオブジェクトの多様化、オブジェクトを扱う方法を進歩させる。対象化された実用的世界観とともに技術、科学は画期的に進んでいる。電子工学、情報処理、通信工学、人工知能の発達はこの対象化の賜物である。
対象化は変更のために必要である。そして対象化が進むと対象に対する操作変更力が高まる。これは同時に対象そのものに対する責任も大きくする。

しかし、対象化だけでは対象の価値を高めることはできない。何か対象の価値を高める「手段」が要る。
今の一方向一体化はその十分な手段にならないのではなかろうか。(もし、神が、他の全てを対等に扱う(と考える)なら、この手段になり得るが、人は神ではない。)

双方向一体化は、私と他の生命やものを含むオブジェクトを対等に再統合,一体化し一つのものとして高める態度、意志、行動である。この意味の価値を、私と他の生命やものを含むオブジェクトを一体として共に高める謙虚な愛ととらえる。 [FIT2013]

対象化の画期的進展は、この双方向一体化の必要性をますます重要にさせている。
しかし今、対象化は、自己を対象化しない謙虚さ不足、一体化における謙虚さ不足、謙虚な愛が不十分という条件の下で急速に進行している。[FIT2016]
等価原理は、等式、天秤に始まる計量装置、差の意識、推論、科学を生み、対象化に一層、貢献するようになる。

一方向一体化は、謙虚さの他にも、利点として何かを実現した。所有意識は、所有したものを大事にし、責任を持って保管し管理するようにさせた。その方法も身に付けさせた。神や大きな集団への帰属意識によって、人は、集団としてまとまり安定した生き方を得た。神や大きな集団に対して自己を相対化、対象化することもできた。神や大きな集団に対して謙虚に努力し続ける生き方を得た。

    1. 一方向一体化が解決できるものの最大限は何か?実際に何が得られたか? 
    2. それによって本来、得られないものはどういうものか?
   3. 一方向一体化が実現してどういう欠陥が見えてきたか?

2.はよく分からない。

3.一方向一体化がもたらした欠点がある。

対象化による生産の増大が等価交換を生み、同時に生産増大がもたらした人の増加に対処して人の心を一つにする神への信仰、集団への一方向帰属を生む。しかし、等価意識と相まって問題もあるいけにえ、「目には目を」、復讐、罪と罰も生んでしまう。聖書でも、初期には、神はカインとアベルの内、取れた農作物を差し出すカインより、子羊をいけにえとして差しだすアベルを良しとされる。後期には、いけにえは内面化されいっそう自分の謙虚な内面向上の努力を行うようにとらえられる [ヨハネの第一の手紙]。集団への帰属は他集団の排除を生む。

要するに当時は緊急の一部を解決しただけで問題を残した。
一方、宗教の生んだ一方向でひたすらの謙虚さは全面的に良い態度と考える

31. 「復讐」など、心が主の問題は、芸術作品など(忠臣蔵など)が作る共同観念が増幅する。

32. これに加え、一方向一体化の不十分さが制度化されてしまった結果として、第一に、個と対象との関係において、環境破壊、人の疎外や生きがい喪失、苦しみが起こっている。

33. 第二に、共同体間の関係において、宗教や国家、民族のニセの一体化意識による対立、戦争、悪しき所有である利益中心主義によって世界規模で進み経済格差拡大の弊害などが大きくなっている。

・ 所有は、所有主体が個人と集団の場合があるが、いずれも必ず私的所有である。所有意識は、所有対象にならない大気や川のような共有物や、他の人や集団が所有しているものを大事にしない、あるいは敬意を払わない傾向を生む。私的所有が利益重視主義や経済格差を生んだ。

・ 少なくとも今の帰属意識は、自分の属する組織へのおそらくは「正当な」一体感と、ほとんどの場合、排他意識とが一体になっている。他人の帰属宗教、民族、国家を非難し排斥し闘いをしてきたのが、今までの人類の戦争の歴史である。70年前までに比べて少なくなってきたとはいえ、まだ続いている。[FIT2016]

34. 第三の副作用と言っていいのかどうか分からないのは、資本主義が始まるまで、世界各国に共通して、宗教が政治と一体になって土地の管理などを円滑に行い「国」をまとめるために利用されてきたことである。(その後の資本主義の「国民国家」も、「国」をまとめるために利用されている。[田中宇、国際ニュース] )

これらから、これらの欠陥がないような一体化と対象化の矛盾を求める課題が出てくる。

従来、[FIT2016] [IPSJ2017] [FIT2017]では、農業革命というエネルギー革命の対象化から生まれた不十分な一体化と、産業革命というエネルギー革命を主導した対象化を統一する、十分な一体化と対象化の矛盾の解を求める一体化指向をポスト資本主義の原動力候補と考えていた。250年前にエネルギー革命である産業革命、資本主義が起こり、今、ポスト資本主義を作ることと新しい生き方を同時に作ることが課題である。[FIT2016] [FIT2017] 十分な一体化がポスト資本主義のキーと考えていた。二つのエネルギー革命から生まれた一体化と対象化だった。一体化と対象化、自由と愛の一体型矛盾は、農業革命後の物々交換以来の約六千年の時間粒度を持つ。この把握が、ハラリとの唯一で最大の差である。

今は、新たな必要性と可能性の矛盾が熟し、新たな時代を拓く課題の中にある。本稿の粒度の歴史認識を前提とした、より大きな粒度の矛盾が問題になる。

今までは、手段変更は個別には意図的だったが、全体を意図的にコントロールする論理はなかった。それが得られる画期的段階に人類は達している。一体化と対象化の矛盾が成熟している。

今、一体化と対象化の統一[TS2011]が必要かつ可能になっている大オブジェクトが二つある。
一つは、今のこの問題の根本的解決を図り新しい価値を実現し続けるポスト資本主義を作ること。
もう一つは、一体化と対象化の統一による新しい生き方により、全ての問題を解決するための、人の必死の苦しみ悩む努力が、世界と歴史の全体に繋がっている喜びを与えるようになること。苦しみ悩み努力を続けることは評価すべきことである。一部の常識を批判しておく。理想の生き方は、一瞬の中に、大きなものへの祈り、苦しみ悩み全ての力をふり絞る努力をすること、それが客観的に全ての世界の全ての問題に繋がっている認識、の三つを同時に持つことである。[FIT2013]

ポスト資本主義は、生きる目的がお金を手に入れることでなく、自分と他のオブジェクトの価値を高めることが目標になる制度である。この理想の生き方とポスト資本主義の目的は一致する。
ポスト資本主義という制度は、「正しい」原動力により、ものに関する生産量は縮小し地球への環境負荷はゼロ以下にし環境を復活させながら、人や他の生命、他のオブジェクトの価値を増大し続ける制度である。この制度は、その中で生きる人の新しい生き方と同時に実現する。

対象化と一体化の一体型矛盾解決の中で、所有を経済における価値のもとでなくする運動も意識的に行う必要があるか?
対象化と一体化の一体型矛盾解決の中で、悪しき所有に代わる新しい価値は自動的に生まれるのか?
所有意識を基にしている経済格差拡大は自動的に解消されるのか?
(最低生活の保障があれば良いのではないか?という意見もあると思う)

 

対象化と一体化、自由と愛の矛盾という基本矛盾が分かった。[NKGW2016] 
次の課題がある。
課題、矛盾は [THPJ/2015/01] で述べた単純な問題の場合より複雑になっている。

1.まず、対象化と対をなす一体化(愛、謙虚さ)という項自体が不十分であること。これが最大の問題かもしれない。一体型矛盾は二項を変更し続ける。これは、最初の一体型矛盾の各項は不十分な内容から始まるということである。

2.それぞれの完全な実現のために、この矛盾をできるだけ完全に運動させること。「一体的努力」を全ての人が行うなら完全な運動が行え、問題の解決に寄与する。この「一体的努力」は、本来、一体化(愛、謙虚さ)の結果として得られるはずである。これはそれ自体、困難な課題である。

3.これに関連する悪い副作用、良い効果など他との相互関係の検討を行い、また関係する制度、技術の課題を解き続け全体として基本矛盾をより大きな単純な良い形にすること
この副作用には、重大な次の二つがあるかもしれない。
     ・ そうしてできた社会は「善人」だけからなる「つまらない」社会かもしれない。
     ・ 「努力」しない人をどうするかという課題もある。
こういう問題を今から悩んでも無駄かもしれない。しかし、今から悩むことは現在の問題をよく解決するかもしれない。よく分からない

4.対象化がもたらす多様化に対処する必要がある。多様化の問題は大きい。多様化は管理という単一化、一体化の必要ももたらす。

5.一体化が対象化の拡大にも寄与する。これは、問題でなく、新たな認識である。

この順に検討する。最後の項にまとめを示す。

31) 矛盾の項:一体化、愛、謙虚さ自体が不十分

物々交換から二千年遅れて、謙虚に自然や神に向き合う宗教的一方向の一体化が形成される。この一方向一体化で得られるものの最大のものは、人の謙虚さである。

基本矛盾が、対象化と一体化の矛盾である。対象化と一体化の矛盾は、この矛盾の態度への適用である批判的態度と謙虚さの矛盾であり、この矛盾の態度と行動への適用である自由と謙虚な愛の矛盾である。このように、この矛盾は、対象であるオブジェクトが広く、事実に対する態度、行動だけでなく、価値の矛盾でもある。

一方向一体化により、集団としてまとまった安定した生き方と、神や大きな集団に対して自己を相対化、対象化することもでき、神や大きな集団に対し謙虚で努力し続ける生き方が得られた。この長所は残す必要がある。
一方向の謙虚さは態度として必要である。一体化には、多様な人の心が安んじて謙虚になり大きなものへ帰属し、信じるという下からの一体化は前提としてある。この大きなもの(組織や神)との双方向の関係があり得るのかどうかよく分からない。

弁証法的否定によって、過去の思考を高めること、自分と相手の意見を高めることが、思考、対話の目的である。実際にはそうでないので、今特に、自分たちだけが正しいと思っている傲慢な人や集団、カルト宗教、未熟な人は、全肯定で相手に同意して終わるか、全否定の非難になっている。この前提として、相対化、対象化の不足と同時に、謙虚さという一体化の不足が大きい。ほとんど全ての問題と言って良い。相対化、対象化、謙虚さは、必ず同時に必要である。さらにその前に固定観念への無意識の執着があり「原因」になっている。入れ子になったこの構造を直すのは大変な課題である。

また、日本に特有の課題として、周りと違う行動を取らず「空気を読」み過ぎる傾向がある。
「相対化、対象化と同時に、謙虚さという一体化が、必ず同時に必要である」「その前に固定観念の無意識の執着がある」のは、現状に安住して努力しない人も、全く同様に当てはまる。

当時のまたは今の
       1.一方向一体化により解決できるものの最大限は何か?実際に何が得られたか? 
       2.それによって本来、得られないものはどういうものか? (これはまだ済んでない気がする
       3.一方向一体化が実現してどういう欠陥が見えてきたか? (これは一部済んだ)

1. 一方向一体化で得られるものの最大のものは、人の謙虚さである。一体化には、多様な人の心が安んじて謙虚になり大きなものへ帰属し、信じるという下からの一体化がある

次は、謙虚さと一体化について述べた[FIT2013]からの引用である。

32)  態度

粒度特定、方法を規定するものが態度である。粒度特定、態度は、従来、哲学や思想と呼ばれてきた。
態度の極限は、徹底的に誠実であること、オブジェクトに対する対象的態度と一体的態度の極限である。一体的態度の極限が謙虚さ、対象的態度の極限が批判である。謙虚さと批判は、独立していながら、両方がそれぞれ相手を高めながらより高くなっていく一体型矛盾(両立矛盾の一種)を作る。
謙虚さと批判の一体型矛盾は、TRIZの分離原理 の一種、時間分離[THPJ] [TJ] [LB]により分離でき、前項が、とりあえずまず全面的にとる態度、後項が、その一瞬後、相手と対象をより高い次元にするための全面的批判の態度である。理想的には、その後、後項が前項に肯定的に反作用し、両項が良くなっていく好循環を作る。

謙虚であることは、本来の一体化の面から、相手と対象に感謝する(相手と対象から自分に気持ちを「受け取る」)こと、相手と対象をほめ(相手と対象に自分の気持ちを「与える」)、ともに喜び合うこと、相手と対象の現在、現在をもたらしたもの、可能性の全体を理解することであり、相手、対象との同一性である。副次的な対象化の面から、自分を相対化することである。つまり、謙虚であることは、対象化の面から自分の既存の固定観念を相対化し、同時に他と高い次元での一体化をもたらすという構造がある。この謙虚さは、高い認識をもたらして自分を高め、他集団の悪意的排除をする「にせ」帰属を排除し、(私的)所有に代わる、まだ名前のない愛に似た対象に対する意識をもたらす機能を持つ。

相手、対象を高める批判は、本来の対象化の面から、対象との差異性の対象化処理の態度であるが、副次的に相手と対象を自分とともに向上させる一体化の面もあるという構造がある。この批判は、変え与え教えることによって相手と対象を高めるという機能を持つ。
感謝し、ほめ、謙虚である対象は、自分であり、相手であり、対象であり、これらを含んだ「事実」である。
努力が実れば、お互いに感謝し合い相手を褒め喜び合う。感謝し相手を褒めお互いに喜び合うことは、勇気と能力を要する、実に難しいことである。しかし、誰も、褒められることだけが、自分を良い方向に導いてくれる。
自分を相対化しない固定観念は、謙虚さを妨げる。

32)の態度は、謙虚さと批判性、対象化と一体化を、極限まで徹底して求める根源的網羅思考と、謙虚さと批判性、対象化と一体化を統一する弁証法であった。根源的網羅思考には、態度として、謙虚さと批判性の矛盾が特に適用される入れ子構造がある。

4)  態度を規定するもの

態度、弁証法と根源的網羅思考を規定するものがあるだろうか?あるとすれば何だろうか?

1. 態度を直接規定するものは第一に、その最大のものが、価値とそれによる目的であることは明らかである。より良き価値のために相対化と追求を続けねばならない。この追求も根源的網羅思考による。
第二に、謙虚さと批判性という矛盾を何が意識させるだろうか?これは実感できず今後の課題である。
態度、弁証法と根源的網羅思考を直接規定するものも弁証法と根源的網羅思考という入れ子らしい。

2. 次に、態度を間接的に支援するものは何か?網羅的でないが思いつくことが、二つある。
一つは、弁証法では、全てが関係し合っているため、あることの達成には他の達成が必要になる。同時に、これはあることの達成が他の達成にも貢献することを示す。
一事が万事、一時が万時、我がことの今が、世界の今と今後につながる。この可能性の実感は、態度、姿勢、方法の内容を良くしていく原動力になるのではないか?
二つ目として、もし、生き方つまり態度、方法の複雑さに統一性があり、態度、方法内の各制約が合理的に充足されれば、態度、方法それぞれの改善が進み易く、人はその態度、方法を取り易いであろう。

生き方、態度、方法の内部を規定する制約には、
   価値と事実についての生き方、態度、方法が「何」に依拠するか?
    「何」を対象とするか?
       「何」をどのようにより良く変え続けるのか?の三つがある。
制約の一番目、謙虚に依拠すべきは、事実とその歴史である。謙虚であるためには、自分より大きいものを受け入れることが十分条件である。自分より大きいものを、歴史を含めた事実とすることができる。
制約の二番目。事実は、対象的、批判的により良く変更していく対象であり、一体化の対象でもある。
制約の三番目について、弁証法、根源的網羅思考の論理は、事実の歴史の総括で得られた。歴史は論理と一致するという弁証法論理の一つの結論自体、事実の歴史から得られた教訓である。

以上から、この「何」を、歴史を含んだ事実とすると、方法と態度についての三つの制約が統一的に充足される。」[FIT2013]

しかし、一体化、愛、謙虚さという項自体が不十分である。これが最大の問題らしい。

一体化には、
       1.自分の外のオブジェクトとの一体化、
       2.自分の内の世界観−価値−態度−粒度特定−論理−行動の統一
の二つがあるであろう。この二つがあると、理想的な一瞬に没入できる生き方が実現し、実現の原動力になるのではないか。

理想的な一瞬の生き方;個々の認識における謙虚さ、個々の行為における誠実さを前提とする。その上で、一瞬の生き方の理想は、自由と愛の統一、対象化と一体化の統一である。ここで、個が、一瞬に一体化し没入し、同時に一瞬が、客観的に全歴史,全世界の問題解決が進みつつあるという参加の主観における実感が得られる。[THPJ2015/1,02]

もう一つ、一体化、愛、謙虚さという項自体の不明確さがある。謙虚さは一方向一体化か?

この引用でも、謙虚さという一体化は一方向一体化でいいか、双方向一体化が必要かは微妙である。これは重要で、自然や神に対して謙虚であることの位置に関わる。とりあえず、一方向一体化と双方向一体化の二つがあると理解しておき、双方向一体化の必要があるかという点は保留しておく。

謙虚さは、対象化から間接的に得られる(つまり、対象化が生産を増大させ、それによって物々交換が起こり経済が発展し人が増え人の心をまとめるための神や自然への謙虚さを必要とする)が、もう一つの別の流れでも得られる。[FIT2013]でも述べたように、対象化は自分という対象を相対化することによっても起こる。そうなると、このいわば直接の自己相対化と一方向一体化による謙虚さの、意味合いの違い、歴史順序と価値への寄与の度合いが重要になる両者は別の謙虚さかもしれないまだ整理できない

宗教の生んだ謙虚な態度は今も必要と思う。しかも謙虚さは今まで宗教あるいは宗教的感情によってしか得られなかったと思う([FIT2013]で事実に対する理想の謙虚さを述べた)。しかし、実際に、宗教は、為政者によって、実利的な役割を果たさせられた。経済が発展し人が増えたので人の心をまとめる必要と、為政者が、当時、ほとんど唯一の生産手段だった土地を自由に使う必要があった。六千年前、物々交換がスタートし、四千年前、経済制度をはじめとする文化・文明が生まれて以来、資本主義が成立するまでの数千年の長きにわたって、政治と宗教が合体した独裁が続いたのはこのためである。[https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教の起源]

一方向一体化から得られる謙虚さと、求めなければならないかもしれない双方向一体化がある。そもそも一体化と対象化と言う時の一体化は理想的な「双方向一体化」である。

理想的な「双方向一体化」と言う時、思い浮かべているのは、26歳のマルクスが経済学・哲学草稿[EPM]で描いた 1.全ての「人」「もの」の立場に立った双方向一体化である
一方、一方向一体化と言う時、思い浮かべるのは、聖書「詩編」などの表現の 2.謙虚さと、3.半ば強制された政治的独裁者への善意の服従、土地を独裁者が管理することの容認という対極の二つである
「愛」という価値は、この 1だけでなく 2も含む。3はもちろん含まない。
謙虚さは一方向一体化ではないか? しかし3は排除しなければならない、という状態から前に進まない

32) 課題1:多くの人の努力が必要だが困難であること

矛盾の解の完全な実現のために、この矛盾を完全に運動させることが必要である。
制度と人の生き方の二つを同時に変革することは困難なように見えるが、数千年の歴史において、不十分だが無意識に二つを同時に行ってきた[FIT2016]。意識して努力すればより短期間で二つは実現可能だろう。おそらく、全員が同時に目的を持ち必死に意識的に没頭して努力することなしには実現できない。しかし、全員が努力することは大きな課題である。

努力というのは、次の「諸個人の力」[DI p.132]である。

(マルクス、エンゲルスが理想としている共産主義という運動の)「従来のあらゆる運動と異なるところは、それが従来のあらゆる生産関係と交通関係の基礎をくつがえし、あらゆる自然発生的前提をはじめて意識的に従来の人間たちの産物として取り扱い、それらの自然発生性を剥いで、一体となった諸個人の力に屈せしめるところにある」[DI p.132]

「ドイツイデオロギー」第一巻TC [DI p.132]に、実現の力としての一体化ないし一体という言葉が3回出てくる。一体化によって「没頭」して皆が集中して取り組む一体化、「一体となった諸個人の力」が実現の原動力になることを表しているように読める。

これは、マルクス、エンゲルスが理想としている共産主義という運動についての文からの引用を基にしているが、一般に理想について当てはまると考える。しかし、マルクス、エンゲルスは、実現の原動力としての「一体となった諸個人の力」に何の疑問も感じていない。彼らの検討も、新しい社会をどう作るかについては不十分だった。ここでは、個人は一様に扱われている。
全員の努力とこの結果の普及が大きな課題になる。しかし、どう行動すればいいのか明確にならないこの全員を努力させる具体的策、方法が分からない

33)課題2;努力しない人の問題、善人だけのつまらない社会になる問題

1努力を続ける人とそうしない人の差をなくすという課題は長く残る。多様化の重視で一部解決するが、どうしても、他の人が汗を流しての努力で得られた社会制度に安住し努力しない人は出てくる。

この生き方をする人としない人の二分の固定が起こるのではないか?格差の拡大が起こるのではないか?今、話題にされている所得の格差だけなら配分を外部から見直せば取りあえず解決する。生き方によって生ずる差は、片や、する人の全能力、全人格を発揮し、自分と他人、他オブジェクトを良くし続ける。そうしない人との差はどんどん広がる。

2.「一体化の一体的努力を全ての人が行う」結果、できる社会は「善人」だけからなるつまらない社会かもしれない。

実際には理屈どおりにはならないから大丈夫と言ってはならない。論理的な可能性を無視してはならないだろう。多様化の重視で一部は解決する。しかし、単純な一方向一体化は、この多様性を排除してしまう。相手の排除という多様性否定(他を排除する帰属感)と多様な価値の軽視(所有していないものを大事に扱わない所有観)をもたらすからである。

一方向一体化がもたらしてきた欠点を排除するために、次の双方向一体化へ「発展」すればいいのか?多様化と統一すればいいのか?
ここから二つ方向がある。一つは、「彼らを非難してはいけない。非難自体、彼らを上から見ている。彼らの生き方も別の生き方として尊重し、それで良いのかもしれない。しかしそれだけでよいのか?」と考える。
二つ目は、「あくまで努力する生き方が正しいので、そうしない人の立場に立って、何とか自発的に努力するようにさせるようにしなければならない、彼らを生むのは目指す価値が必ずしも完全に正しくないからではないか?だから目指す価値の正しさは常に見直さなければならない」と考える。
どちらがいいのか全く分からない。後者の「目指す価値の正しさは常に見直さなければならない」気持ちを継続すればどちらも同じかもしれない。
これと
別の答えがあるのかもしれない。

一方向一体化から双方向一体化への「発展」自体も多様性の展開の一形態である。(多様性がなく人口が増えた場合はどうなるかという問題は別にある。この場合も管理の問題がある。)
双方向一体化は要らないのではないか、一方向一体化の欠点は多様化だけを認めれば解決するのだと、一瞬、思いかけた。この「対策」の必要条件は、1.多様な個の確立ではあるらしい。多様性は重要である。それだけでいいかどうかよく分からない

また、これが「お金」に勝る原動力になり得るか?対象化とこの一体化が統一されれば原動力になり得るのか?
「ドイツイデオロギー」第一巻に、中世の所有は詳しく述べられるが、宗教の役割は述べられていない。
なお、考えてみると、主観の客観との同一性は、差異が行動を決めることだけのような気がする。両者の差異は、意識的な行動と、なお人の外にあたかも人に関係が無いような媒介物を作ることであるから、この二者を一体的にとらえることが「一体化」なのではないかと思う。マルクスの経済学:哲学草稿にはそういう問題意識があった。

対象化と一体化の一体型矛盾が、完全には解けないままで、複雑化多様化しているのが現在である。 [FIT2016]で生き方の分析をして、歴史の中で、人の知覚から、認識と行動に至る準備過程、実際の認識と行動という一連の過程の各階層で、対象化と一体化の「一体型矛盾」が現実化されていることを示した。これも結果的に、2.複雑化、多様化のためだったと、後で、分かった。この検討の中で、多様化複雑化は直接、意識しない検討だった。そこで、歯切れが悪いが、上の1,2の二つの意味で、多様化複雑化と、対象化と一体化の矛盾との関係について、今、分かる限りを次に述べる。

34) 新たな課題: 多様化

多様化に、個人の多様化と他のオブジェクトの多様化がある。個の多様性を検討する。一体化と対象化と一体化、愛と自由の一体型矛盾 [NKGW2016] が統一的に完成すると、おそらく全ての多様な個が開花する。前に、農業革命の時代に一体化が不十分だったのは、一体化の一方向性だけでなく、多様な個が確立しなかったことにもよるのではないかと述べた。7.3項の歴史を述べたところの「多様性」は一般的なオブジェクトの多様性だったが、ここでは主の課題は個性の確立である。ともに管理は必要となる。

個の力の開花は多くの人や思想家の理想とされてきた。この多様性、多様な個の開花を検討しておかないといけないのではないか。この検討は、一体化と対象化、謙虚な愛と自由の一体型矛盾の解の具体的姿を明らかにするのに貢献するのでははないか。
しかしここで、一体化と対象化、または謙虚な愛と自由の統一的完成と、全ての多様な個、個の多様性、全てのオブジェクトの多様性の関係は一筋縄ではいかないことが分かる。

多様性をどう扱っていいのか分からないので、問題をできる限り分割し、その間の関係を見て、次のように検討を進める。対象化、一方向一体化、双方向一体化の時間経過の中における個の多様性、製品の多様性、それらの管理を検討する

341) 何が多様性をもたらしたか

そもそもどこから多様性は生じたか?

前に論理的検討として、

「機能と構造の矛盾という直接に役立つ矛盾から、より形式的な両立矛盾が徐々に派生していく。
この派生、発展は次の二種、分離と多様化複雑化に分かれると思う。

3.矛盾の発展:    31.分離と 32.多様化複雑化が並行して起こる。
      31. 分離する矛盾:別実体、別時間に分離する両立矛盾
              もともと一つだったものが分化し両立する。男と女(雄と雌)、労働と交換と消費への分離ができるがこれらは両立している。いずれも機能と構造の矛盾が高度化を求めてできる。
          311.二つの客観的オブジェクトへの分化
          312.二つの運動などへの分化
      32. 多様性と単一性の矛盾」

と述べた。

対象化が多様化をもたらす。対象化は自分以外の他のオブジェクトを複雑に多様にしていく。自分という個は、産業革命を経て対象化が進み、多様な個性が発展していく。

342) 多様性が何をもたらしたか、また何をもたらしうるか、多様化の意味

多様性が何をもたらしたか?もたらしているか?多様性は進化において人類を存続させた。その意味で多様性が種を存続させた。

生物進化における生き残りのキーは多様性だった。生物進化において種が環境変化など(個体どうしの生き残りの闘いは環境変化に対応するために「強い」あるいは「賢い」個体を残す手段と考えられる)に対応でき生き残れたのは、
   1.通常の両性生殖において親と異なった遺伝子の多様性が生まれ、変化する環境に長い時間をかけて対応できていける遺伝子が保存されていったこと、
   2.突然変異によって生まれた遺伝子変化による生まれる多様性により、急な気候変動のような突発事件などに対応できたこと
による。これは多様性が、種の存続という大きな価値に貢献することを示した。

個人の多様化と他のオブジェクトの多様化が、必要な双方向の一体化をもたらすか。
一方向一体化から双方向一体化への「発展」も多様性の展開と考えることもできる。この意味で多様性が双方向一体化を作る。両者の相互規定か?そうなら多様性と双方向一体化の矛盾になる。

さらに、うまく整理できない難しい問題がある。双方向の一体化は、相手が人の場合と、それ以外の生命、オブジェクトの場合がある。
後者、相手が人以外の生命、オブジェクトの場合は、多くの個がただ他の生命や他のオブジェクトと一体になり、それらの可能性を十分に伸ばし、周りに害を与えないためにできる全てを行う。容易ではないが、それだけでいい。
相手が人の場合、相手の可能性を十分に伸ばし、周りに害を与えないためにできる全てを行うことは、自分と相手と対等に多様な可能性を伸ばすことである。これは不可能に近く思える。一つの才能を見つけることさえできない。
また、多様性に気が付いていないだけで、多様性などという以前に、今は皆、全く違う人間なのではないか?個が確立したならその個は必ず多様である。つまり、個の確立と個の多様化は大雑把には同義である。今まで、確立した個は、十分な判断力を持ち他と議論しなくても必要な判断はすべてできるということを前提に話を進めていた時もあるかもしれない。

歴史を検討していて、対象化と一体化の中の一体化のもとになる一方向一体化が四千年前に始まり、多様化複雑化が後から出てくることが分かる。ここでの論理の順番は逆である。弁解だが、いずれも正しいのではないか。いずれの面、粒度もあるのではないか。

農業革命の時代に一体化が不十分だったのは、一体化の一方向性によるだけでなく、十分な対象化がなく、そのために多くの多様な個が広がらなかったことにもよる。そして、多様でなかったゆえに一体化が不十分に終わったようにも見える。一方向の一体化だけなら多様な個は要らない。むしろ、一方向一体化は、多様性を排除している。つまり、相手の排除という多様性否定(他を排除する帰属感)と多様な価値の軽視(所有していないものを十分対象化できず大事に扱わない所有観)をもたらしている。

以上は、地球人の個に限定した自分と他人の話である。これは当面、重要な検討課題として記憶しておき、先に進むことにする。

価値の系列に戻ろう。

前提にしている最小限一致すべき共有価値の体系が正しいかを突き詰めておく必要があり、またその課題も明確にしておく必要がある。提起している価値体系の大枠は、
「種の存続 −個の生 −個の属性と機能(対象化と一体化、自由と愛、謙虚さと批判)」
である。
この順が価値の大きさの順で、種の存続が最も重要で大きな価値と考える。これは、個の生−個の属性と機能の前提である。同様に、個の生は、個の属性と機能の前提である。これはほぼ共通観念になっている。

課題も多い。宇宙の存続は前提としている。地球人以外の宇宙人の存続と宇宙人個体の生、地球上の人以外の種の存続と人の個体の生をどう扱うか不明である。人は皆、平等ではなく、老衰で死が近い老人の生より、若い人の生により価値はある。例えばこれが、どういう理由によるどういう差なのかは、明示的には表現されていないと思う。ここではこれらは今後の課題として先に進みたい。地球のような豊かな星とそうでない星での差もあるのではなかろうか。

個の属性は、他のオブジェクトとの関係では機能になる。この本質は、上の価値の系列の仮説では、対象化と一体化、自由と謙虚な愛、謙虚さと批判の内容である。多様化とは、対象化と一体化、自由と愛、謙虚さと批判の多様性の内容である。これは、取りあえず、何を対象化するか、何と一体化することから始まるだろう。生まれて以来の教育やマスメディアに作られた固定観念が邪魔をして、自分の何を対象化するか、何に一体化の感情を抱くかは、自分では制御しにくい。自分の内容はおそらく相対化、対象化しにくい。これは多様化、特に個性の開花は難しいということだろうと思う

多様性が今後何をもたらしうるか?
多様な個の意見の根源的網羅的な展開が将来の人類の生き残りを可能にし、今後の姿を作り人類の混迷を切り開き新しい時代、ポスト資本主義の新時代を拓くはずである
。 [FIT2017]  ただし、事前に、その内容は前に述べたようによく分からない

要するに多様性は重要な役割を果たしてきた。今後も必要である。

343) 多様性と単一性

多様性と単一性という一体型矛盾は、対象化と一体化の矛盾の一面の別表現か、対象化のもとでの矛盾である。どちらにしても、対象化と一体化の矛盾の下位の矛盾である。

無秩序な多様化が進むとバラバラになるように見える。つまり、一見、多様性は単一性と相反する。この「物理的」矛盾をどう解くか?多様性と単一性の矛盾の例が多いことを別の場所で述べた。 一時的な両立矛盾なら次のような解になる。
共有すべき同一価値があれば一体化に資する。共有すべき同一価値は、一見、多様性と相反するが、これについては、少なくとも人類という種の存続や個体の死より生が良いという価値が共有,統一されていれば、後は多様な個性が発揮されればよいと考え、無条件にバラバラになることは排除して議論を進めることにする。共有すべき同一価値と個の多様性がともに重要である。単純にTRIZの分離原理によって分離する。価値についてだけであるが、共有すべき同一価値と個の多様性を分離し共に重要な価値としたい。

多様化が進むと単一的管理が必要になってくる。多様性は対象化からうまれ、かつ対象化と双方向一体化を統一した管理を必要とするようになる。管理が必要なのは、人の単なる多さ、個の多様性と生産物の多様性ゆえである。

物々交換がどうして生じたかを論じてきた。地球は多様な環境を持つ星なので、この環境下で、対象化により、多様な生産物が生まれたことを述べた。この多様な生産物のための多様な労働が多様な個を産む基である。農耕においては、人の努力で耕作地を、したがって生産物を多くすることができ、それによって人口も増えていく。より多くの人口、より多様な生産物、より多様な個が、今のように複雑な制度、技術とその管理を必要にさせた。
対象化が進んでいき、生産が多様で複雑になると、分業の中の管理の問題が起こる。管理は、対象化による多様化が必要とする機能上の上からの一体化である。多様なものと大量のものの管理が必要となり可能になっていく。管理がうまくいくと全体の価値が増す。この管理は対象化と一体化を統一する必要がある。対象化が生んだ多様性の管理には、対象化と一体化の矛盾の解が必要だった。

生産の多様性、個性の多様性がなくても、多くの感情と肉体を持つ人々をまとめていく管理という課題がある。仮に、全く一様な個体数が多くなるとどういう問題が発生するか?
縄文時代、三内丸山のような大きな集落でも人口は300人くらいだったらしい。この人数なら、全ての人はお互いに血縁共同体の仲間と認識できる。血縁であろうがなかろうが、お互いが顔を知っていることは、ある種の一体化を作るのではないか? 血縁共同体から地縁共同体に移っていくと、全体を一体にまとめる何かが必要になる。それが法や宗教などの制度だった。

344) 多様性の課題

多様化とは、対象化と一体化、自由と謙虚な愛、謙虚さと批判の内容である。これは、取りあえず、何を対象化するか、何と一体化することから始まるだろう。しかし、何を対象化するか、何に一体化の感情を抱くかは、自分では制御しにくい。生まれて以来の教育やマスメディアに作られた固定観念が邪魔をして、自分の対象化、一体化の内容はおそらく相対化、対象化しにくい。これは多様化、特に個性の開花は難しいということだろうと思う

35) 対象の拡大のための一体化

一体化を双方向にする必要性が実感にならない。
一体化を双方向にする利点、必要性があるとしたら、一体化の範囲を広げて全てのオブジェクトを対象化し続け、自分を対象化し続ける必要性である双方向一体化は、人間中心主義でなく、他の生命も、地球の「もの」もお互いを対等に扱うために必要なのである

今後、全ての他生命、全地球、宇宙へ、価値を含んだオブジェクトを広げ続けなければならない。科学の進歩により知識を得たら、その知識の利用、実現には責任が生じる。
これも大きな一体型矛盾を作る。より正しく広い科学的真理、求める価値を含むオブジェクトの認識の展開と、人の価値実現を含んだ全ての運動に対する責任との矛盾である。これをプラスの変化の連続になるようにしなければならない。

双方向一体化は、相手が人の場合と、それ以外の生命、オブジェクトの場合がある。 後者の場合は、自分がただ他の生命や他のオブジェクトと一体になり、それらの可能性を十分に伸ばし、周りに害を与えないためにできる全てを行う。それだけでいい。 相手が人の場合、相手の可能性を十分に伸ばし、周りに害を与えないためにできる全てを行うことは、相手と対等に多様な可能性を伸ばすことである。双方向一体化は難しい。

この全てのオブジェクトとの双方向一体化を表現した人が170年前にいた。1844年、26歳のマルクスである。
マルクスの「経済学・哲学手稿」[EPM] は難解な未完のノートで、しかも多くの部分がネズミにかじられて失われた状態で1933年に見つかった。これは彼の最初に書いたものではない。だがまだ多くの磨かれていない玉が入っている。
マルクスは、労働を疎外されたものと等値して単純化し過ぎ、この疎外された労働の結果が全て資本家の私的所有となるという単純化し過ぎたモデルで扱い、一面的で間違った結論も出した。それにも関わらず、このノートにはすぐれた問題提起がある。

多くの人にとって、一体感は、今は残念なことに、とりあえず、地球に独特の、静的な帰属感、帰属意識(自分が何かに属している、包まれている意識)と、所有感、所有意識(何かが自分に属している意識)である。この所有感、所属意識に代わる新しい意識が必要である。
以下、この新しい意識のためのヒントとして「経済学・哲学手稿」から引用する。

「人間は彼の全面的本質を,ある全面的なしかたで,つまりある全体的な人間として,我がものとする。
世界にたいする彼の人間的諸関係の各々,すなわち,見る,聞く,嗅ぐ,味わう,触感する,思考する,直感する,感覚する,意欲する,活動する,愛すること,要するに彼の個性のすべての器官は,直接にその形態において共同的器官として存在する諸器官と同様に,それの対象的ふるまいにおいて,すなわち対象にたいするふるまいにおいて,対象を我がものとする獲得である。」[EPM第三草稿p.151]

「私的所有の積極的止揚は,すなわち,人間的な本質と生活,対象的人間,人間的製作物を人間にとってかつ人間によって感性的に我がものとする獲得は,たんに直接的,一面的な享楽の意味,たんに占有の意味,持つという意味においてのみ解されてはならない。」[EPM第三草稿p.151]

「私的所有はわれわれを非常に愚かで一面的なものにしてしまったので,ある対象がわれわれの対象であるのは,われわれがそれを持つときにはじめてそうなのである。つまりそれがわれわれにとって存在しているか,それともわれわれによって直接に占有され,食われ,飲まれ,われわれの身につけられ,われわれによって住まわれ等々,要するに使用されるときはじめてそうなのである。
したがって,すべての肉体的および精神的な感覚のかわりに,これらのまったくの疎外,すなわち持つことの感覚が現れた。人間存在は,その内的な富をおのれのそとへ生みだすために,この絶対的な貧しさへ還元されねばならなかった」 [EPM第三草稿p.151-2]

「私的所有の止揚は,すべての人間的な感覚と性質の完全な解放である。
しかしそれがこの解放であるのはまさしく,これらの感覚と性質が主観的にも客観的にも人間的になっているということによってである。目は,その対象が一つの社会的,人間的な対象,人間から起こる人間にとっての対象となっているように,人間的な目になっている。」
「だが事物そのものが,それ自身にたいする,および人間にたいする,一つの対象的な人間的なふるまいなのであり,またその逆でもあるのだ。」[EPM第三草稿p.152]

「もっとも,私的所有は,占有のこれらすべての直接的実現そのものを,再びただ生活手段とのみ解するのであって,それらが手段として奉仕する生活とは,私的所有の生活,すなわち労働と資本家なのである。
したがって,すべての肉体的および精神的な感覚のかわりに,これらのまったくの疎外,すなわち持つことの感覚が現れた。人間存在は,その内的な富をおのれのそとへ生みだすために,この絶対的な貧しさへ還元されねばならなかった」[EPM第三草稿p.151-2]

「対象的,自然的,感性的であるということと,自己の外部に対象,自然,感性を持つということ,あるいは第三者に対して自らが対象,自然,感性であるということは,同一のことである」[EPM この引用は岩波文庫, 城塚登、田中吉六訳1964. p.223]

「太陽は植物の対象であり,植物には不可欠の,植物の生命を保証する対象である.同様にまた植物は,太陽のもつ生命をよびさます力の発現,太陽の対象的な本質力の発現として,太陽の対象なのである」[EPM この引用は岩波文庫, 城塚登、田中吉六訳1964. p.223]

「それ自身が第三者にとって対象でない存在は,いかなる存在をも自分の対象として持たない.(中略) 非対象的な存在とは一つの非存在である」[EPM この引用は岩波文庫, 城塚登、田中吉六訳1964. p.223]

一体化に、全てのオブジェクトを対象化する「対象化」と自分の対象化がある。廃棄物、毒性を持つ生物などを含むオブジェクト一般についてはどのようにその多様な個性を活かすかという大きな課題は残っている。地球は、廃棄物、毒性を持つ生物を含めたあらゆるものが有機的全体を形作っている。宇宙はどうなのであろうか?

この「所有」という名前に代わる、私、他、対象の対等の関係を表す豊かな新しい意識、概念として「愛」を再定義した。「愛」を、私と相手、他の生命、その他のオブジェクトを一体ととらえてそれら全ての価値を高めようとする態度、意志、行動と再定義した。しかし普及していないと思う。帰属意識との統合も必要かもしれない。これは、聖書の中の「愛」とも少し異なる。仏教の「愛」は全く異なった意味で使われている。

これがマルクスの経済学・哲学手稿の意図しようとしたものだととらえた。しかし、マルクスはその後これを展開できなかった。マルクスはこの双方向一体化の愛に反するものが、一方向一体化の私的所有だととらえて、私的所有をなくすようにその後の論理を展開してしまった。(マルクスは愛という言葉は使っていない。またエンゲルスは「フォイエルバッハ論」でフォイエルバッハの「誰にもどこにも当てはまる普遍的愛」を非難している)

マルクスは、本来、アニミズム一歩手前と見まがうような、あらゆるオブジェクトとの人の対等の関係を目指した。アニミズムは、古い認識として単純否定すべきものではない。神が謙虚さをもたらしたと同様、それは自然への敬意をもたらした。しかし、この理想の関係の反対概念としてマルクスが作った「私的所有」は、ヘーゲルの「所有」観念にとらわれてしまった。ヘーゲルにおいては「所有」は「法」概念なのである。これは今でも事情は変わらない。

その後、マルクス自身、正しくない「私的所有」(とこれによる一面的モデルで)(優れた論理と内容は部分的にあるものの)資本主義を分析してしまった。
マルクスの「私的所有の止揚」は「主流のマルクス主義的定式化」の枠では、生産財の共同所有、つまり「国家社会主義」というつまらないことになり、法律を変えて社会の共有にすれば解決する問題になってしまう。私的私有が悪いのでそれを克服しないといけないという結論が誤解を生み、左翼政党の生産手段の社会的管理という綱領を生んでしまった。

ある対象がわれわれの対象であるという意識が開くすべての肉体的および精神的な感覚、そして、この逆方向の、本来、全ての対象から見た私の、私にとっての意識が必要で、それが、現在欠けている。
対象化のマルクス主義と、一体化の聖書の双方に優れた見識を持った思想家に、田辺元、吉本隆明がいる。一体化、対象化とともにエネルギーも重要である。吉本隆明は原子力エネルギーについてもすぐれた見識を持っていた。

 

4) まとめ

対象化、自由と一体化、愛の統一が人類の歴史と論理から抽出された原理である。理想の生き方は、多様な個の確立を目指しながら、対象化と一体化のそれぞれをより完全にしながら、統一する新しい世界観を持ち、これが態度、行動を規定する生き方である。客観(的に価値実現の制度や技術ができつつあり多くの人の価値が実現している事実)と主観(的な価値実現の感情)の一致、つまり、自分の努力が他の人,他のものに役立ち報われ、努力の意味が他の全ての人に理解されることが幸福ではないか。

これは、一時、善意で語られた「技術は進歩し過ぎた、これからは心が大事」という言い方とは全く異なり、全ての面で努力を続けないといけない要請を述べている。
歴史と論理の一致は、これらの前提であり、また、対象化された歴史は客観的な保証ができる手段でもある。歴史の見直し、価値の見直しは常に続ける必要がある。  

残った課題は次のとおり。

 「一体化の一体的努力を全ての人が行う」結果、できる社会は「善人」だけからなるつまらない社会かもしれない。

・ この生き方の努力をする人としない人の二分の固定が起こるのではないか?格差の拡大が起こるのではないか?今、話題にされている所得の格差だけなら配分を外部から見直せば取りあえず解決する。生き方によって生ずる差は、片や、する人の全能力、全人格を発揮し、自分と他人、他オブジェクトを良くし続ける。そうしない人との差はどんどん広がる。

努力を続ける人とそうしない人の差をどうするかという課題は長く残る。これも多様化の重視で一部解決するが、どうしても、他の人の汗を流した努力で得られた制度に安住し、努力しない人は出てくる

ここから二つ方向がある。
   一つは、「彼らを非難してはいけない。非難自体、彼らを上から見ている。彼らの生き方も別の生き方として尊重し、それで良いのかもしれない。」と考える。
   二つ目は、「あくまで努力する生き方が正しいので、そうしない人の立場に立って、何とか自発的に努力するようにさせるようにしなければならない、目指す価値の正しさは常に見直さなければならない」と考える。
どちらがいいのか全く分からない。後者の「目指す価値の正しさは常に見直さなければならない」気持ちを継続すれば後者が正しいのかもしれないが、実現は難しいかもしれない。

対象化の不足、謙虚さの必要性、努力を続けない人をどうとらえるか、多様性の問題、これらは、同じような問題らしい。
多様化とは、対象化と一体化、自由と謙虚な愛、謙虚さと批判の内容である。これは、取りあえず、何を対象化するか、何と一体化することから始まるだろう。しかし、何を対象化するか、何に一体化の感情を抱くかは、自分では制御しにくい。生まれて以来の教育やマスメディアに作られた固定観念が邪魔をして、自分の対象化、一体化の内容はおそらく相対化、対象化しにくい。これは多様化、特に個性の開花は難しいということだろうと思う

検討した結果の要約を赤字でまとめている。

農耕開始で始まった対象化がその後の人類の進歩の開始である。その中で多様化と一方向一体化が進み、双方向一体化ができる条件が整う。対象化と双方向一体化を統一した態度と、(多様性が必要とする)対象化と双方向一体化を統一した管理の二つが必要である。なお、宇宙論理学を作る場合には、対象化から一方向一体化が出てくるのには、地球に特有の事情であったことに留意しておく必要がある。

・ 対象化と(双方向の)一体化、自由と謙虚な愛が第一の主要な矛盾[NKGW2016]である。
・ 一方向一体化の欠点をなくす多様化と単一性の矛盾の解が必要である。
・ 理想は、自由と謙虚な愛の統一、対象化と一体化の統一により、意志のある誰もが(全てのものが)、どこでもいつでも全てのものの「価値」をお互いに高めて行ける客観と、その主観的な実感である「幸福」の二つの両立である。そのためには、併せて、多様化を単一的に管理するための統一論理を必要とする。

図7.4 対象化と一体化の矛盾の位置

 

今、歴史上初めて、全ての人が、歴史から学んだ対象化と一体化、批判と謙虚さ、自由と愛の一体型矛盾を、制度と人の生き方の両面で実現するチャンスが生まれている。この対象化と一体化、批判と謙虚さ、自由と愛の矛盾の三つは同じもので、どれも態度、行動が同時に実現すべき矛盾である。これらは一体型矛盾という型の矛盾で、お互いに相手を変化させる永続的運動である。

完全な解が出ない。とりあえずどうしたらいいか。

第一に理想的には、本来、全ては関係し合い変化しているので、本来、何かを「良く」しようとすると全てを「良く」する必要がある。

第二に最低限ケースである。取り組んでいるのが空間的時間的属性の粒度の狭い小さい下位の価値の場合、全体の中の位置を明確にし、上位の価値を優先するのがよい。[FIT2016] [FIT2017、同スライド] [CGK2017]

第三に現実的に、世界の問題の中の私の認識、変更の位置と、世界の問題の全体に関わっている意識が得られる。

これは、かつては、マルクス主義の内部で、主観と客観の一致として語られ、サルトルが「全体化」として提起したものである。それが目指したものをまとめる。

個々の認識における謙虚さ、個々の行為における誠実さを前提とする。その上で、一瞬の生き方の理想は、自由と謙虚な愛の統一、対象化と一体化の統一である。ここで、個が、全歴史全世界の中の自分の位置を知った上で一瞬にオブジェクトと一体化、没入と同時にオブジェクトを対象化し、同時にこの一瞬に、客観的に全歴史,全世界の問題解決が進みつつあるという参加の主観における実感が得られる。[THPJ2015/1, 2改] 
さらに、理想は、自由と謙虚な愛の統一、対象化と一体化の統一により、意志のある誰もが(全てのものが)、どこでもいつでも全てのものの「価値」をお互いに高めて行けることである。この理想は、苦労に苦労を重ね努力をする労働と生活で実現され検証される。そのためには、今の労働と生活の一瞬に、歴史と全世界の事実と価値、その中の自分の空間的時間的位置を理解し、かつ、どう行動すべきかが分かることが必須である。これには、時に制度を変える行動も必要になる。
歴史上初めてのこのチャンスが、既存エネルギーに代わる、空間、時間、自然危機から独立な新しいエネルギーを作る時と、なぜ重なるのかは謎である。人類は、あらゆる空間時間に関係ないエネルギーを利用する責任を負う段階に至ったのであろうか? [FIT2016]

人類の歴史を統一した仮説、人類の統一理論が必要であり可能である。

人類の統一理論を語り始めた少なくとも一人はマルクスである。マルクスは、1844年経済学・哲学草稿で「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々は生産の特殊な諸様式にすぎないのであって,生産の一般的法則のもとに従うと述べた。[EPM p.147]  「宗教,家族,国家,法,道徳,科学,芸術,等々」とは、文化である。ここで彼は、人類の文化の統一理論があること、それが「生産の一般的法則」のもとに従うことを述べている。

マルクス、エンゲルスの「唯物史観」の扱う時間範囲は、本稿と一致する。つまり、主として文化、文明の発生以降の時間粒度を扱っている。しかし「唯物史観」は、文化、文明の発生以降に生じる人の支配−被支配関係にしか着目しておらず、その限りでは意味のある仮説かもしれないが、人類の統合理論としては不足が多い。

中川徹の「自由と愛の矛盾は人類文化の主要矛盾である」という表現も、人類の統一理論の要約的表現である。[NKGW2016, “社会の貧困の問題にTRIZ/CrePSでアプローチする:人々の議論の根底に、人類文化の主要矛盾「自由vs. 愛」を見出した”, 第12回日本TRIZシンポジウム. 2016.]  本稿第三部は、中川のこの稿およびその後の稿 [NKGW2017. 中川 徹, “人類文化の主要矛盾「自由 vs 愛」を考察する(2) 個人における「自由 vs 愛」の矛盾・葛藤と「倫理」”, 第12回日本TRIZシンポジウム. Sept. 2017.] へのコメントである。
もう一つ、[TRIZ2015/01] で、中川徹「TRIZのエッセンス」[NKGW2001]は、技術に限定されて述べられているが、全領域に拡張して適用すべきものであると述べた。そうすれば中川徹「TRIZのエッセンス」も人生の統合理論の要約である。

ユバル・ノア・ハラリの「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」(河出書房新社2016, 原著2014) [YNH]と、ジャレット・ダイヤモンドは、一種の人類の統一理論の試みをしていると理解できる。ユバル・ノア・ハラリの書は、主観の誕生を重視し、本稿より時間粒度が大きいが、文化、文明の発生と運動の今後の展望を十分明らかにしない。[IEICE2018]

1.全ての運動は、何かと何かの差異とエネルギーが起動する。その後の全ての歴史は、論理によって変化していく。これは、ヘーゲルの論理学のようにあたかも神の論理どおりに、物事が進んで行くという仮説である。

この論理を、二項間の関係である矛盾による世界の単位近似と、粒度管理のための根源的網羅思考からなる弁証法論理とするのが第一の近似仮説である。これにより、次の事態が起こる。始まりには差異があり、差異解消のため運動が論理的に起動される。運動に、差異解消矛盾による運動と両立矛盾による運動がある。
差異解消矛盾という普通の意味の運動が、質的変化を起こすことがある。これが次の事態である。

2.外部または人が起こす偶然のように見える微細な差異がその後の歴史に決定的な影響を与える。 

地球の物理的条件下で、個と種の維持ができる生命が生じ、知覚と反応という特性が加わる。
人のような知的生命には、さらに特性が加わる。人に言語が誕生し精神、主観が生まれ、外界である宇宙、世界についての像を自分の中に持つことができるようになる。他生命と異なり、道具の製作・利用をするようになり外界に多様で量的にも大きな働きかけができるようになる。
地球の物理的条件に依存した人の宇宙を認識、操作できる「範囲」が問題である。人は、宇宙を認識、操作できるようになる。これらは大きな人の特性である。

偶然のように起きる微細な差異がその後の歴史に決定的な影響を与える。この実現の手段は、永続する一体型矛盾を実現する入れ子構造のような構造である。誕生した文化は入れ子があった[FIT2016]。また、この微細な差異は、必要性と可能性の差異により人が必然的に発見したものだったと後で分かる。

人類は今までに多くの知識を得た。知識を得たら、その知識の利用、実現には責任が生じる。これも自由と愛の矛盾、その統一の解の一つの表現である。
地球誕生後、生命が生まれた。生命の系統樹の末端に、人、他の動物種、植物種が対等の立場で存在する。人が、もし、ペスト菌や他の動物種、植物種に比べて優れているとすれば、それは、得ている知識を、人のためだけでなく、ペスト菌や他の動物種、植物種の「価値」のために使える画期的な存在であるからである。人が一瞬でも傲慢になればこの優位は消えてしまう。

本稿では、物々交換後の文化誕生後の文化の歴史が、ここでの人類を特徴づけるとした。人の歴史が対象化を生み、さらに文化において一体化を生んだ対象化が、人を画期的な存在にする。これがハラリとの大きな違いである。この立場、粒度が人類の今後の展望も示すことができると思う。

   

7.5 文化; 科学、技術、制度、芸術

 人間の認識と行動は、技術、制度、科学、芸術を介して実現される。個人毎の行為は次のように近似的に網羅できる。         

1.知覚:個人による世界の知覚:知覚は入り組んでいる。知覚は、自分の認識と潜在意識に影響する。また、世界と自分の価値観、感情、潜在意識が、知覚に影響する[FIT2016]

2.個別の世界観と価値認識:これは共通の世界観、価値観、作られた「常識」に無意識に影響されている。

3.個別の目的、態度、感情、潜在意識:世界観、価値観により無意識の目的、態度、感情、潜在意識が生じる。

4.個別問題(矛盾)の粒度設定と解:目的、態度、感情、潜在意識、方法が、矛盾と根源的網羅思考によって問題(矛盾)の粒度設定を行い解を作る。

5.個別行動

それぞれの個人にとって通常の変更、問題は普通、一時的に解かれる。同時に、我々の態度と行動は、ゼロベースで大きな問題の一部として解く方向を持つのが良い。
いずれも、矛盾の粒度特定、その解生成、それによる認識と行動が行われる。[FIT2016]
矛盾の粒度特定、その解生成は、矛盾と根源的網羅思考によって行われる。
技術においては、ものと運動がオブジェクトであり、制度においては、共同観念と運動がオブジェクトである。

共同観念が実体化してものと人に担われるものと、人だけの担われるものがある。
前者は,交換制度(例:言語,お金)、後者は,個人の感じ方、思考、行動を規定する共同主観(例:常識、哲学、道徳、宗教)、内部構造の粒度から組織制度(例:国家、企業、家族)、機能からの粒度から社会制度(例:法、政治、経済、教育 )という三つがある。[TS2008]

注 教育 
他生命は遺伝子によって前の世代の知恵を受け継ぐ。中で、他の哺乳類は、親が、子が一人前になるまで必死に生きるすべを教えて育てる。人は、遺伝子と文化によって前の世代の知恵を受け継ぐので、親が、必死に世界観、世界観から作られる態度、方法を教えなければならない。これが今、少なくとも日本では、必要なのに欠けている。この「基本的歴史理解、世界観のための内容の抽象化」の内容は、特に小学生中学生の生きる態度や、具体的に個別の学習科目の前提にもなるので、短く覚えやすいのが良い、実際にできるものは極く短い。その一端を本稿に示している。

技術はもちろん、制度、科学、芸術も、マクロにはエネルギーが最も効率的に働くようにする手段である。
また、大雑把に一般的に言うと、技術と科学は、対象化の手段、制度と芸術は、一体化の手段である。[OUYOU1990]

   図7.1 人類の生きる構造 (FIT2016を改良、FIT2017スライド)

これらは、複雑な入れ子構造を作っている。

 

第四部に続く

 

高原(たかはら) 利生(としお)

昭43 早稲田大・理工・電気通信卒. 同年 富士通(株)入社.以来河川管理システム等の設計に従事.関連会社に移った後退職.http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

 

 

本ページの先頭   論文先頭 5. 前書き 6.簡単な価値実現

7.対象化と一体化の矛盾

  第三部  英文ページ
高原利生論文集第4集 研究ノート全体ページ 研究ノート第一部:根源的網羅思考 研究ノート第二部:矛盾 研究ノート第三部  研究ノート第四部: 論文集第1集 論文集第2集 論文集第3集

 

総合目次  (A) Editorial (B) 参考文献・関連文献 リンク集 TRIZ関連サイトカタログ(日本) ニュース・活動 ソ フトツール (C) 論文・技術報告・解説 教材・講義ノート   (D) フォーラム Generla Index 
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最終更新日:  2018.10.10    連絡先: 中川 徹  nakagawa@ogu.ac.jp