TRIZ解説: |
|
Altshuller と TRIZの歴史 |
|
|
|
|
|
掲載: 2022.12. 8 |
Press the button for going back to the English page.
編集ノート (中川 徹、2022年12月 8日)
本ページの(主)記事は、私の依頼に応じて、著者(Tomasz Arciszewski 名誉教授)がご寄稿くださり、また、出版社 (Taylor and Francis Group)の許可を得て、英語版と私が和訳した日本語版の両方を掲載するものです。著者と出版社には、その優れた著述と寛大な寄稿と許可に、心より感謝いたします。
本ページは,次の3部で構成しています。
[1] 「アルトシュラーとTRIZの歴史」 (Tomasz Arciszewski著 『Inventive Engineering:Knowledge and Skills for Creative Engineers(発明工学: 創造的技術者のための知識とスキル)』 9.1 - 9.2 節 (285-294頁)、Copyright@2016 CRC Press。出版社 (Taylor & Francis Group) の許可を得て、英語で複製掲載、日本語訳でも掲載。
[2] 著者(Tomasz Arciszewski)と中川徹との交信(一部)(2022年8月〜11月) =>
[3] 『発明工学』の新たな紹介: 出版6年後に(Tomasz Arciszewski、2022年10月17日)私は、ETRIA TFC2016 以来、本『TRIZホームページ』の更新案内を著者に送ってきておりましたが、本年8月に返事をいただきました([2](a))。著者の著述中で、『発明工学』中のアルトシュラーの紹介とTRIZの (初期の)歴史に興味を持ち、ぜひ読みたいと思いました ([2](b))。 この2つの節を読んで、日本語に翻訳して『TRIZホームページ』に掲載することの許可を、著者からもらいました。その後に出版社に正式な許可を求める交渉を始めました。この交渉では、著者の助言と協力が本当に役に立ちました。その過程で著者が、「TRIZの謎」と「『発明工学』の新たな紹介」という2つの記事を新たに執筆して、『TRIZホームページ』に寄稿してくれました。私は、その後者の記事を本ページに掲載 [3] することが、読者のためにも出版社のためにも有益であると判断しました)。
|
|
[1] 解説: 「Altshuller と TRIZの歴史」 (Tomasz Arciszewski: ”Inventive Engineering"より)
出典: Tomasz Arciszewski: "Inventive Engineering: Knowledge and Skills for Creative Engineers", Chapter 9, Sections 9.1 - 9.2, pp. 285-294、Copyright @2016 CRC Press. 出版社 (Taylor & Francis Group) の許可を得て、英語で複製掲載、日本語訳でも掲載
和訳: 中川 徹 (大阪学院大学) 2022. 10.13
第9章 TRIZ
目次
アルトシュラーと筆者との関わり; アルトシュラーの生い立ちと学校時代; 海軍特許部門の時期; 強制収容所とその後の三つの職業の時期; 公的な活動が許された時期(1970‐1974); 分散開発活動の時期; 業績と人柄
はじめに; 古典的TRIZの時期 (1945 - 1985) (初期の発見 (1945 - 1950); 学際的な学習 (1950 - 1954); アルゴリズムの開発 (1954 - 1965、おおよそ); 分析ツールの開発 (1960 - 1970、おおよそ); 科学的基礎の創成 (1970 - 1974); 分散開発 (1975 - 1985))); キシネフ時代 (1982 - 1992); アイディエーション時代(1992年〜現在)
9.1 創始者: ゲンリッヒ S. アルトシュラー
9.1.1 アルトシュラーと筆者との関わり
筆者は、TRIZの創始者である Genrich Saulovich Altshuller とその方法に対して、非常に身近な親しみを感じている。筆者は、20歳代前半で、ワルシャワ工科大学の若手教員であったとき (1972年か1973年頃)、全くの偶然からTRIZのセミナーに参加して、思いがけなく新しい思考法、伝統的な構造工学の分析的思考とは全く異なる思考法、を見出した。
次に、アルトシュラーの小さな本 (ロシア語からの翻訳) が来た。翻訳は悪く、その本はソビエトのプロパガンダ言語で書かれていた(それは、技術者を含めて、すべてのソ連の著作者に要求されていたことである)。しかし、そのメッセージは不思議でかつ魅力的だった、 「我々は要求に応じて発明を創造できる」と。筆者は自分の天職を見つけたのだった。
それから約半年後、筆者はポーランド・サイバネティック協会のヒューリスティックス・グループの共同設立者となり、アルトシュラーをワルシャワに招待しようとした。招待状は、モスクワに旅行中の人が、モスクワから郵送するようにした。そうしないと、アルトシュラーに決して届かないと思われたからである (KGBが活動中)。返事は、同じように入り組んだルートで来た。「行きたいが、いま私は自宅軟禁中です。私の発明の試作品がテスト中に火事になり、妨害工作の容疑をかけられたのだ」(かなり後になってから筆者は、それが、港湾で流出した石油を清掃するための半自律型浮体装置の発明だった、と知った)。
次にアルトシュラーと個人的に交流があったのは、それから10年以上経った80年代半ば、筆者が東ヨーロッパでのデザイン研究についての招待講演に取り組んでいたときで、この分野での彼の貢献についてアルトシュラーに問い合わせたときであった。それは、最終的には彼の「弟子たち」、そしてIdeation International Inc. との協力に繋がった。同社はアルトシュラーの身近な共同研究者数人が共同出資したものであった。
(実際、この会社の二人の主要なTRIZ専門家、(アルトシュラーからTRIZマスターの称号を受けた)Alla Zusman と Boris Zlotin が、本書に関して筆者に協力してくれた。すなわち、TRIZに関する本章が、本当にアルトシュラーの考えと技術の現状を表していることを確かめている。)明らかに、本章はTRIZの技法の概論に過ぎず、概念的なレベルで学ぶには十分であるが、TRIZの専門家になるには、あるいはTRIZの実践者になるのにさえ、極めて不十分である。
TRIZ 参考文献 (末尾参照)
幸い、TRIZに関する多くの書籍や論文がある (Altshuller 1984、1996、1999、Altshuller et al. 1999、Altshuller and Shulyak 2002、Arciszewski 1988、Clarke 1997、Orloff 2003)。 また、Ideation International Inc. を含めて、いくつかの企業があらゆる種類のコースを提供している。
9.1.2 アルトシュラーの生い立ちと学校時代
図 9.1: ゲンリッヒ アルトシュラー (Joy E. Tartter画、許可を得て掲載)
アルトシュラー(1926-
19881998)は旧ソビエト連邦のタシケントに生まれた。両親はジャーナリストで知識人であった。彼は、学習・知識・書物を非常に大切にする家庭で育った。それは、両親の職業を反映したものであったが、同時に彼のユダヤ人としての伝統の一部でもあった。 (ソ連でユダヤ人は、常に疑惑の目で見られ、恐怖が支配する社会の中でしばしば「スケープ・ゴート」にされ、社会を分断して管理しようとするソ連当局の絶え間ない圧力にさらされていた)。実際、ユダヤ人であるというルーツは、彼の人生に常に影響を与え、同じソビエト連邦で苦労している他の人たちよりも一層、彼の人生を困難にした。 その一方で、この困難な状況が、彼に自立と企業家精神を強要し、彼のユニークな個性を発展させるのに役立ったことは間違いない。アルトシュラーは、早くから熱心な読書家となり、主にSF小説を読んでいた。その情熱は、彼の並外れた想像力の発達を助けるとともに、少なくとも潜在意識のレベルでは、「工学的知識と想像力が組み合わされれば、すべてが可能になる」ことを確信させたのである。彼は、惑星間旅行を読み、夢見る一方で、船乗りになってこの惑星を旅することも夢見ていた。このように、想像と現実の両方で旅をするという動機は、彼の人格を理解する上で重要であり、ルネサンスの偉大な創造者たちの人格と類似している。彼らにとって、旅は人格形成の場であり、精神の発達に、さらには分野を超えて世界を理解することに、強く貢献した。
アルトシュラーは、普通中学校の8年次 [小学1年次から数えて] を終えて、海軍特別学校に入学したときから、旅への夢に取り組み始めた。第二次世界大戦が始まったが、彼は学校の課程を修了することが許され、その後、パイロットと(水陸の)ナビゲーターのための学校に送られた。 彼がその学校を卒業したのは、ちょうど終戦直後であった。そこで戦地に行くことはなく、本人の希望でバクーにあるソ連艦隊に送られ、兵役を続けることになった。海軍学校と飛行学校という、限られてはいるが異種の教育を受けており、また、発明が好きであったため、彼は特許部門に配属された。(彼が最初の特許を取得したのは、スキューバダイビングシステムに関するもので、わずか14歳の時であった。)
9.1.3 海軍特許部門の時期
このときが、彼の人生において非常に大事な時期であった。アルトシュラーは、この新しい職場で、多数の特許にアクセスし、あらゆる年齢層の発明家たちを助けて、正式な特許出願の準備を支援する役割を担った。彼は、すでに調査能力を身につけていたが、(他の研究者たちが、人間の創造性の心理的側面に焦点を当てていたのとは異なり、)工学的創造性、すなわち発明の開発にのみ関心をもっていた。彼は、発明の背後にある「工学的」なメカニズムや、あらゆる工学分野の発明の基礎となりうる、「秘伝の」工学的知識を探し求めていた。要するに、工学的創造性の「聖杯」を探していたのである。また、他の発明家たちとの共同作業の結果として、「彼らの発明は偶然の産物である」こと、また、「現時点(1940年代半ば)でソ連には、発明を必要とするときに、体系的に発明を開発できるような工学的手法が存在しない」ことを、彼は認識した。
1948年当時、アルトシュラーは20代前半の青年であった。愛国心が強く、自分の発明能力に自信を持っており、すでに発明家として成功していたのは言うまでもない。彼は、新しい発明の科学が「発明」される可能性があり、そのためには自分が最適の人物であると強く信じていた。実際、当時すでにいくつかの「発明原理」を発見しており、アルトシュラーは、自分が新しい新興科学を教えることができると思い喜んでいた。ソ連の伝統に従って、彼は友人のR. Shapiroと一緒に、スターリンに手紙を書いた。その手紙の中で、彼らはソ連の技術革新の状況を批判し、ソビエトの発明科学を発展させることを申し出ている。この手紙がスターリンの机上に届いたかどうかは定かでない。しかし、はっきりしているのは、彼らの手紙を読んだ人物が誰であろうと(おそらくKGBの工作員)、その手紙は気に入らず、彼らの批判的な主張は「反逆的、反ソビエト的」と見なされた。
9.1.4 強制収容所とその後の三つの職業の時期
1950年に二人とも逮捕され、拷問を受け、裁判所はアルトシュラーに25年間の国内追放の判決を下した。その結果、彼はシベリアのヴォークタ市近郊の強制収容所に送られた。彼は鉱山で働いていたが、その技術力からエンジニアの仕事を与えられ、グーラグでの数年間を生き残ることができた。この状況は彼の家族に悲劇的な結果を引き起こした。父親は早すぎる死を迎え、母親は自殺したのである。
1954年になって初めて、アルトシュラーは社会復帰が許され、シベリアを去ることが許された。その後まもなくの1956年、彼は(シャピロとともに)雑誌「Psychological Issue (心理学の課題)」に最初の論文を発表した。それは、工学の進化とその進化の背後にある一般的な傾向に関するものであった。ずっと後になって、これらの考えは「進化のパターン」(9.7節参照)へと発展していった。
収容所から解放された後、アルトシュラーは3つの職業に就いた。すなわち、ケーブル製造工場で働き、ジャーナリストとなり、そしてアゼルバイジャン共和国の建設省で働いた。 彼の一連の仕事とその性質は、読者にオズボーンと彼の職業上の進化(第7章7.1節で論じている)を思い起こさせるかもしれない。おそらく、一連の仕事が大きな役割を果たしたことをわれわれがいま発見したことは、偶然のことではないだろう。一連の(異なる)仕事が、大きなことを考え、また、その大きく新しいアイデアを実現するための思考を支えるのに必要となる、知識の体系とさまざまな視点を提供するのである。
思考スタイル(第3章3.2.参照)の用語で言えば、製造業の工場で働くことは「実践的思考スタイル」を広げ、ジャーナリストは「判断的思考スタイル」を多く使う(つまり、様々な出来事を判断して、読者と意見を共有することが多くなる)。そして、省庁に勤めれば、あらゆる規制や規範を発行する「立法的思考スタイル」が身につく。このように、アルトシュラーは、先のオズボーンと同様に、3種類の思考スタイルをすべて身につける機会を得たのである。(この発見が、読者のキャリアを成功に導くもう一つの鍵になるかもしれない)。また、この時期に、アルトシュラーは勉学の幅を広げ、石油化学工学を学んでいる。
アルトシュラーはいまや、才能・経験・多様な知識、そして、3つの思考スタイルのすべてを身につけていた。彼は行動を起こす準備はできていたが、それにはまず、残忍で全体主義的で人間の創造性を抑圧するソビエトのシステムから、少なくともある程度独立する必要があった。彼は、SF作家となり、大成功を収め、その著作は数ヶ国語に翻訳された。これが彼に経済的な自由を与え、世界を変えるという夢に戻ることを可能にした。
9.1.5 公的な活動が許された時期(1970‐1974)
アルトシュラーは、自分の天職を忘れることはなかった。それは、「発明の科学を創造すること」であった。彼は、その研究を続け、ソ連発明家協会 (Soviet Society of Inventors and Innovators (SSII)) から何らかの支援と認知を得ようとした。SSIIは、ソ連当局が全面的に運営する組織で、実際にソ連のイノベーション関連の活動をすべてコントロールしていた。この組織からの何らかの支援、あるいは少なくとも承認が得られなければ、イノベーションの分野で何らかの仕事をすることは事実上不可能であり、大きな影響を与える可能性のある基礎研究をすることができないことは言うまでもない。当然のことながら(9.4 節「心理的惰性のベクトル」参照),彼のアイデアは 10 年以上にわたって無視され続けた。
1970年になって初めて、SSIIはアルトシュラーのために最初の全連邦セミナーを開催し、さまざまな都市から約30人の参加者が集まった。同年、SSIIはアルトシュラーに「Public Laboratory of Inventive Methodology (発明方法論公開研究所)」の設立を許可し、1971年に「Azerbaijan Institute of Inventive Creativity (アゼルバイジャン発明創造性研究所)」を許可した。両研究所には、すぐに工学的創造性に関心を持つ多くの有能な人材が集まり、この方法に関する本格的な研究と仕事が始まった。この活動は、ソビエト連邦の多くの都市に「発明家学校」を設立することにつながった。一つの機運が高まり、それはソ連のイノベーションのあり方を大きく変え、ソ連経済を良くしていくかもしれなかった。
ただ、一つだけ問題があった。この運動全体を共産党が統制することは不可能に近かった。SSIIはアルトシュラーに彼の学校を閉鎖するよう命じた。アルトシュラーがその命令に背くと、SSIIは彼の研究所を閉鎖した。このようにして、共産主義者たちは、自分たちの権力と支配を維持することが、社会の利益よりも彼らにとってはるかに重要であることを再び証明した。しかし、それは別の話で、不幸にもアルトシュラーには悲劇的な結果をもたらした。彼は親しい仲間たちと共に、アゼルバイジャン発明創造性研究所を辞職し、彼らの活動を支える他の方法を探さなければならなかった。
9.1.6 分散開発活動の時期
しかし、この分野での活動は継続された。1974年には、『発明のアルゴリズム』の第2版が出版され、また、アルトシュラーとTRIZを描いた同名のドキュメンタリー映画が公開され、技術者たちや発明家たちの間で大きな評判となった。アルトシュラーの弟子たちや、彼の本からTRIZを学んだ人たちが、いろいろな都市でTRIZスクールを設立し始め、アルトシュラーはそれらに関与し支援した。たとえば、モスクワ、レニングラード、キエフ、ゴーリキー、ペルムなどである。
1980年に、最初のTRIZ開発者・実践者セミナーがペトロザボーツクで開催され、このようなセミナーが隔年で開催される定期的なイベントとなった。 1989年にロシアTRIZ協会(Russian TRIZ Association)が設立され、アルトシュラーはその初代会長になった。
その10年後に国際TRIZ協会(International TRIZ Association (MATRIZ)) が設立された。
[訳注(中川、2022.10.30): 1974年以後のアルトシュラーの生涯は、後の9.2節でも触れているので参照されたい。追記すると、 アルトシュラーは1985年まで健康で、ソ連各地に散らばってTRIZの研究や実践をしている多くの仲間たち、弟子たちと常時連絡をとり、TRIZの一層の開発と普及のリーダーであった。1985年に「技術分野のためのTRIZはすでに十分開発できた。今後は創造的人格(とその形成)の研究をする」と宣言して、TRIZの発展を多くの後継者たちに委ねた。また、同年以後健康が衰えて、ペトロザボーツクに転居したが、弟子たちとの交流はずっと継続した。1989年のロシアTRIZ協会、また、1998年の国際TRIZ協会の設立時には初代会長になった。最晩年に、多数の仲間たち、弟子たちの中から、65人を選んで、「TRIZマスター」という称号を与えた。1998年9月24日逝去。アルトシュラーの著作、論文、記事、業績などの記録は、遺族が設立し管理している Official Altshulle Foundation Websiteに、収録されている。https://altshuller.ru/world/eng/index.asp ]
この組織(MATRIZ)はすべての大陸からのメンバーを持ち、いまなお活発である。この組織はTRIZ研究者間の成果交換を可能にし、TRIZの世界的研究を刺激している。また、TRIZの国際会議を開催し、それがTRIZの研究者たち・実践者たちにとって常に大きなイベントである。この組織はまだ成長しており、それはアルトシュラーの考えがまだ有効であり、研究する価値があることを証明している。
9.1.7 業績と人柄
アルトシュラーは、発明家としての卓越した業績を持っており、さまざまな工学の分野で数十の商業特許を持ち、その多くが産業界で発明に使った方法を検証するために使われてきた。また、彼は多産の著者であり、14冊の著書と、数え切れないほどの記事・論文を発表している。
オズボーンやゴードンと同じように、アルトシュラーもまた、子供たちに創造性を教えることに関心を持つようになった。実際、彼は、若い頭脳が大人よりも、TRIZを学び、実際にその原理を自分の思考に取り入れるのに非常に適していると考えた。
1970年代1960年代の半ばに、彼は子供と若いティーンエイジャー向けの人気雑誌に、子供向けの創作コンテストを毎月毎週定期的に掲載した。その反響は大きく、これらのコンテストの結果は "And Suddenly an Inventor Appeared..." という本の執筆に利用された。また、中高生のための創造性プログラムを開発し、そのテーマで何冊かの本も書いた。不幸なことに、ソビエト当局はこうした活動に強い疑念を抱いていた。創造性はソビエトシステムの改善のためにも使われる可能性があるが、そのシステムは修復不可能で、改良しようとする最初の試みで崩壊しかねないかねないからだ。(ゴルバチョフが「ペレストロイカ」(改善)を導入したときに、その崩壊が実際に起こった。)
アルトシュラーは、カリスマ的な知的指導者であり、多くの国で大きな支持を生み、それは今もなお増え続けている。彼の著作はすべてロシア語である。英語に翻訳されたものの中には、彼の文化的・知的背景を理解せずに行われた拙い翻訳に苦しむものもあるが、それは今後変わるかもしれない。彼の発明工学に対する世界的な影響力を推し量るのは時期尚早である。しかし、彼がカルト的な存在になっていることは間違いなく、かつての仲間や友人の多くは、彼をまさに天才だと考えている。筆者は今でも彼からの手紙を1-2通持っているが、おそらくそれは筆者の最も貴重な財産であろう。
人として、アルトシュラーは驚くほど謙虚な人で、自分の才能・知識・名声を恥ずかしく思うほどであった。彼のかつての仲間たちは、今でも彼を親密な友人と思っている。また、アルトシュラーは、仲間たちの幸福を心から願い、いつも彼らを助けようとしていたことも、筆者は知っている。ソビエト連邦崩壊後、彼の仲間たちの多くは(同じくユダヤ人であり)ソビエト連邦を去ることを決意し、西半球に自分の居場所を探していた。アルトシュラーは数度筆者に連絡を取り、彼らが仕事を見つけるのを手伝ってほしい、あるいは単に紹介をしてほしいと言ってきた。アルトシュラーは、偉大で創造的な頭脳だけでなく、大きな心を持っていたことは疑いない。
9.2. TRIZの歴史
9.2.1 はじめに
TRIZは、ロシア語の名称「発明問題解決の理論 (Theory of Inventive Problem Solving)」の(ロシア語の)頭字語の英語表記である。これは、アルトシュラーと、(TRIZの発展に貢献し、あるいは自分自身のバージョンを開発した)彼のさまざまな仲間たちに帰属されている、一群の方法 (すなわち方法論) に伝統的に関連づけられている名前である。 TRIZの公式な歴史も、TRIZの専門の歴史家も存在しない。この状況で、個々のTRIZ研究者やTRIZ関連の組織や機関が、それぞれTRIZの歴史の独自のバージョンを提供している。そこで、筆者はここに、アルトシュラーの親しい二人の仲間たちが見たTRIZの歴史を紹介することにした。Alla ZusmanとBoris Zlotinである。両者は、長年アルトシュラーと共に仕事をし、一緒に本を出版しており、TRIZとその歴史に関する最良の、そして信頼のおける知識源であると筆者は思う。
TRIZの歴史は、少なくとも最初の古典的TRIZの時期には、(前節9.1 で述べた) アルトシュラーの個人的な歴史 と絡み合っている
。その歴史の全体は、3つの大きな時期に分けることができ、それぞれにいくつかの段階がある。以下、発明工学の観点から簡単に説明する。
9.2.2 古典的TRIZの時期 (1945 - 1985)
9.2.2.1 初期の発見 (1945 - 1950)
TRIZのルーツは、工学的創造性 (すなわち特許) に関する、アルトシュラーの独創的な研究に見出されるであろう。 1940年代 (1945-1950) に、彼はバクーに駐留していたソ連艦隊司令部の特許部門に勤務していた。この時期は、「体験学習」あるいは「初期発見」と呼ぶことができるだろう。若き日(20歳代前半)のアルトシュラーは、さまざまな特許出願に魅了され、その背後にある謎を発見しようとした。彼は、数百件、後には数千件の特許を分析し、そのほとんどが偶然の産物であることをすぐに発見した。さらに重要なことは、発明のプロセスを理解する鍵は、一般に信じられていたような心理学だけでなく、その背後にある工学的知識にもあることを発見したことである。今日では、知識工学という学問があり、知識ベースのシステムを日常的に構築しているから、このような観察はわれわれには些細なことに思えるかもしれない。しかし、今から約75年前の1940年代、それは革命的な発見であった。
それは、アルトシュラーを直ちに3つの基本的な問いに導いた(ここでは発明工学の言葉で提示する)。
「もしすべての発明が工学的知識に根ざしているとしたら、新しい工学システムの発明に直接関係する特定の知識はあるのだろうか? 」
「この知識を獲得し、利用可能な形で表現することは可能だろうか?」
「特許から方法論的知識体系(アルゴリズム)を獲得して、将来の発明家が利用できるようにすることが可能だろうか?」
アルトシュラーは、これらの問いに肯定的に答えた。それは、「発明とは矛盾の解消であり、普遍的な「発明原理」を用いてそれを行うことができる」という基本的な発見に基づいていた (「矛盾」と「発明原理」については、「基本概念」の項(9.3節)で説明する)。矛盾を解消するプロセスは、後に彼の「発明問題解決のアルゴリズム(ARIZ)」の基礎となった。また、発明原理は、普遍的な工学知識、ヒューリスティックスの体系を代表しており、数千の特許から獲得されたものである。これらのヒューリスティックスは後に修正され、その集合は拡大し、さらに多くの特殊なヒューリスティックスが開発されたが、そのオリジナルの核心は実はこの「初期の発見」の期間に開発されたものである。
今日では、機械学習(すなわち、帰納学習)を用いて、事例集から知識(判断ルールやヒューリスティックス)を獲得している。しかし、1940年代には、コンピュータはまだ存在していなかったから、まして、コンピュータ科学、知識工学、人工知能が存在していなかったことは言うまでもない。この観点から、特許群(すなわち事例群)から発明原理を獲得したことは、アルトシュラーの驚くべき科学的成果であった。これは、工学における事例群から大規模に知識を獲得したとして知られる最初の事例と考えられる。いわば、手動の帰納学習である。平均的な人間が同時に扱える属性や例は7つ程度であること(人間の短期記憶の限界)を考えると、アルトシュラーの発見の意義がわかる。ほぼ超人的な知的能力を持つ異能者だけがそれを生み出せる。彼はまさに、多くの人が信じたように、天才である。
9.2.2.2 学際的な学習 (1950 - 1954)
アルトシュラーが強制収容所に入っていたとき (1950-1954)、彼は「幸運な」状況に置かれた。彼が送られた強制収容所は、1930年代後半から40年代にかけてのスターリンの「大粛清」の際に投獄された多くの教授、科学者、芸術家たちの本拠地でもあった。アルトシュラーは、これらすべての人々と交流し、彼らから熱心に学ぶという稀有の機会を得た。それは書かれた記録を一切残さなかった。(強制収容所で何かを書くことは犯罪であり、鞭打ち、食事の減量、分離などによって苛酷に罰せられた。) しかし、アルトシュラーは、芸術と科学の様々な分野について、少なくとも概念的なレベルで、理解を深め、そのことが前の時期の彼自身の業績に対する理解の向上に大きく貢献した。
知識という観点から見ると、彼は様々な分野から知識を獲得し、それらを統合することができた。その過程で、彼は学際的な知識、すなわち、科学や工学における創造性の真の基礎、を学んだ。心理学者なら、アルトシュラーの収容所での生活が、彼の初期の考えを成熟させ、将来のTRIZ開発のための準備として非常に役立ったと言うだろう。ルネッサンス史家なら、スターリンが意図せずして、人々がその時代の最高の頭脳から学び、自分自身の統合的学習に貢献するユニークな知識の組み合わせを獲得できる環境を作り出した、と言うだろう。それは、メディチ家の宮廷に似ているが、数世紀の後である。また、生活条件は激烈に悪く、人々が飢えや病気で死んでいき、また毎日残酷に殺されていった。 しかしながら、これらのすべての人々にとって、科学と芸術だけが、シベリアの強制収容所という極端に厳しい生活条件の中で、人間としての尊厳を保ち、正気を保つことができる唯一の領域だった。そのため、彼らは、話を聴こうとする人たちに、喜んで自分たちの知識を分け与えた。それがアルトシュラーのような若くて熱心で知識に貪欲な人々に、信じられないような知的機会を創り出した。
9.2.2.3 アルゴリズムの開発 (1954 - 1965、おおよそ)
アルトシュラーは、強制収容所から解放された後、政府との3つの正規の仕事 (ソビエト連邦では実際上すべての仕事がそうだった) をしたとき、TRIZに取り組み続けていた。驚くことではないが、この間、彼は自分の手法のアルゴリズムの開発に専念していた。 アルゴリズムは常に手法の合理的な部分である。したがって、その開発は、すべて合理的な思考とあらゆる規則に従うことを必要とする彼の通常の仕事と、適切に対応するものであった。
9.2.2.4 分析ツールの開発 (1960 - 1970、おおよそ)
アルトシュラーがSF作家になったとき、彼は抽象的な思考と、あらゆる種類の変わったアイデアを考えだすことに焦点を合わせていた。それは明らかにアブダクション(仮説推論)を必要とし、彼のTRIZの仕事にも利用された。この間、彼は、TRIZを使う発明家を助けるいくつかの分析ツールを開発した。また彼は、「進化のパターン」、すなわち、工学システムの長期間 (何年も) の進化を記述する普遍的なルールと、このルールを使って将来起こりうるシステムの変化をどのように予測するかについての研究、を開始した。
9.2.2.5 科学的基礎の創成 (1970 - 1974)
この時期、アルトシュラーは、発明方法論公開研究所とアゼルバイジャン発明創造性研究所の両方を設立し、運営していた。また、TRIZの急速な発展、特にその方法論的な基礎が確立された時期でもあった。しかし、アルトシュラーはTRIZに取り組む機会がすぐに終わるかもしれないと感じていたか、あるいは単にソビエトのシステムを知っていたように思われる。彼のチームは、実質的に「リレー方式」で昼夜を問わず仕事を続け、そのペースについていけない者は去って行かざるをえなかった。この数年間の「猛烈な」仕事の結果として、TRIZはようやく技術者が使うことができ、ロシアの多くの都市に出現した発明家学校で学生たちが学ぶことができるようになった。
9.2.2.6 分散開発 (1975 - 1985)
[1974年に] 発明方法論公開研究所が閉鎖され、アルトシュラーのチームがアゼルバイジャン発明創造性研究所を去った後も、TRIZの研究は継続されたが、それは分散した形態であった。 アルトシュラーは依然として研究のリーダーであり、コーディネータであった。この研究は、彼の以前の仲間たちによって続けられ、彼らは今では新しい仕事に就いていたが、依然としてTRIZに魅了され、数年間ボランティアとして研究を続けていた。アルトシュラーは、ずっとその活動を保つことができたが、1985年になって彼の健康状態が急速に衰え、非公式な指導者の地位を実質的に辞し、「弟子たち」にバトンタッチしなければならなくなった。この「分散開発」の段階において、多くの重要な開発が行われた。「アルゴリズム」、「分離原理」、「自然効果(物理化学効果)」(いずれも後述)についての研究が続けられた。また、非常に効果的だが難しい「物質-場分析」の開発が始まったが、後になって、技術者に教えるにも使うにも難しすぎると判断され、その普及が断念された。
[訳注 (中川、2022.10.30): これ以後の記述は、Alla ZusmanとBoris Zlotinの活動の歴史に限定されている。全世界的な観点からの記述は、V. Souchkov (2008, 2015) を参照されたい。]
9.2.3 キシネフ時代 (1982 - 1992)
アルトシュラーの主要な仲間であったAlla ZusmanとBoris Zlotinの二人が、1982年にモルドバでKishinev School of TRIZを創設し、産業界のために働い た。さらに、この学校はTRIZの研究も継続した。その主要な研究成果は、アルトシュラーの「進化のパターン」に関する研究の継続、「進化のライン」の創成、および「問題の認識と定式化」に関する初期研究である。
9.2.4 アイディエーション時代(1992年〜現在)
1992年、Zion Bar-El、Boris Zlotin と Alla Zusman は他の2人のパートナーと共に、米国でアイディエーション・インターナショナル社を設立した。Zion Bar-Elは非常に成功した企業家であり、TRIZに魅了されるようになった。彼は、次の工学革命はTRIZ革命であると強く信じ、それゆえ、この新しい企業に自分の人生の貯金を投資することにしたのである。彼の最初の決断の一つは、キシネフTRIZスクールを米国に移転したことであった。Ideationチームは、TRIZの知識と深い理解を用いて、TRIZの米国版を創り、それを商業目的に使用することに成功した。また、Ideation InternationalはTRIZの研究を続けている。
最も重要なことは、Ideation International Inc.がTRIZに情報技術 (IT) を持ち込み、その過程で I-TRIZ (またはIdeation-TRIZ)を創り上げたことである。これはTRIZを徹底的に現代化したものであり、古典的なTRIZの知的基盤全体と、より最近開発したTRIZおよび洗練されたさまざまなコンピュータツールとを結合したシステムである。このソフトウェアに加えて、あらゆる種類のコースからなる教育システム全体が開発された。世界のTRIZ革命はまだ始まっていないが、その知的・ソフトウェア的基盤はすでに整っているのである。
参考文献:
Altshuller , G. (1984). Creativity as an Exact Science, Philadelphia, PA: Gordon and Breach, Science.
Altshuller, G. (1996). And Suddenly the Inventor Appeared: TRIZ: the Theory of Inventive Problem Solving, Worcester, MA: Technical Innovation Center.
Altshuller, G. (1999). The Innovation Algorithm, Worcester, MA: Technical Innovation Center.
Altshuller, G., Zlotin, B., Zusman, A., and Philatov, V. (1999). Tools of Classical TRIZ, Dearborn, MI: Ideation International.
Altshuller, G. and Shulyak, L. (2002). 40 Principles, TRIZ Keys to Technical Innovation, Worcester, MA: Technical Innovation Center.
Arciszewski, T. (1988). ARIZ 77-An innovation design method, Journal Design Mehtods and Theories, 22(2), 796-820.
Clarke, D. (1997). TRIZ: Through the Eyes of an American TRIZ Specialist, Detroit, MI: Ideatin International.
Orloff, M.A. (2003). Inventive Thinking Through TRIZ, New York: Springer.
[2] 著者Tomasz Arciszewski と 中川 との交信(一部)
英文ページを参照ください。 [2](b) のみを和訳しておきます。
(b) 中川 徹 ==> Tomasz Arciszewski 2022. 8.14
Dear Tomek, 貴著のTRIZの章の詳細を教えてくださり、ありがとうございます。
私は、9.1 創始者 と 9.2 TRIZの歴史の二つの節に、特に興味を持っています。そのようなトピックについて、いままで私が学んで来たものには、次の二つがあります。
「ゲンリッヒ・サウロビッチ・アルトシュラー先生の思い出」: Phan Dung(ベトナム)、TRIZCON2001 基調講演付属資料 (2001. 5. 8)
「TRIZの歴史の概要」: Valeri Souchkov (オランダ)、ICG Training & Consulting Webサイト (2008.11.16)
[注: 原文はその後2015年7月に追記・更新されている。原文(pdf)のURLは不変 。和訳は更新できていない。 (2022.11. 6)]私はこれらを和訳し、『TRIZホームページ』に掲載しました。(Phan Dungのものは英文でも掲載。)
それでももっと学ぶ必要があり、貴著の記述は簡潔で分かりやすいと思われ、西側世界の多数のTRIZ関係者の要望によくマッチするのでないかと思っています。つきましては、私が二つの節を和訳して、それらを(そしてできれば英文版も)『TRIZホームページ』に掲載することの許可を、あなたからいただくことができないでしょうか? ...
ご検討いただけますよう、お願いいたします。 敬具、 徹。
[3] 寄稿: 『発明工学(Inventive Engineering)』: 6年後の新たな紹介 (Tomasz Arciszewski)
『発明工学(Inventive Engineering)』: 6年後の新たな紹介
Tomasz Arciszewski (トマシュ・アルチシェフスキ)
George Mason University 名誉教授
Successful Education社CEO
Middlebrook, Versinia, USA、2022年10月17日
出版から数年経って、改めて自分の本を見直すというのは、またとない機会です。今日、私はこの本を新たな視点から見ています。この本を書き始めたとき、私はこの本を土木工学を学ぶ学生のための教科書として考えていました。しかし、編集者や友人たちは、この本の読者層はもっと広く、すべての工学部の学生であると私に確信させたのです。この本を出版したとき、工学部以外の読者から2つの問い合わせがありました。それは、本のタイトルに使われている「Engineering (工学)」という言葉を私がどのように理解しているかというものでした。私は「工学」を「技術」(土木工学や化学工学)と理解していたのか、それとももっと全体的な文脈で、技術に関連するかしないかに関わりなく、新しい概念を「開発すること/工学すること」と理解していたのか、という質問でした。
私の即答はシンプルでした。「私はエンジニアであり、エンジニアリング(工学)の学生たちのためにこの本を書いたのだ」と。しかし、その後、徐々に(シネクティクスと同様に視点を変えて)、私の本は特定の種類の職業と同一視されるべきではないことに気づきました。今日、私が読者として想定しているのは、「すべての大志を抱く人たち (ambitious people)」です。すなわち、仕事でもプライベートでも成功したいと願い、「普通の人」から「成功する人」(つまり、成功したいと思うどんな分野ででも成功するための準備ができている人)へと、変身するためのガイドを探している人たちです。Steinbergの「成功する知性の理論 (Theory of Successful Intelligence)」で言えば、私の読者は、すでに「実践的知性」と「分析的知性」を持っていて、「創造的知性」を学ぶことによって、「成功する知性」を獲得したいと思っているすべての人たちです。それこそが成功するための唯一の鍵なのですから。
また、本書を5部構成にしていることの正当性をもっと強く、明示すべきだと分かりました。「発明工学 (Inventive Engineering)」 を数十年教えてきて、いろいろな方法 (Methodics)だけに焦点を当てるのは、まったく不十分であることに気がつきました。発明工学は知識体系であり、方法はその構成要素の一つに過ぎません。したがって、方法とその使い方だけを学ぶことは、創造的な問題解決への機械論的なアプローチを開発することを意味し、あまり効果的ではありません。あたかも、F1レースのドライバーを養成するのに、物理学や心理学に全く触れずにしているようなもので、極めて不十分で、非効率です。
私たちはまず、学生たちのモチベーションを高める必要があります。その次に私たちがするべきなのは「全体像」(発明工学の背後にある科学の幅広い理解)を与えることで、その後で、発明工学の言語(すなわち、私たちが明確に定義した概念や専門用語)を紹介しなければなりません。そして最後に、設計のプロセス(一般的な方法論 (General Methodology))を学生たちに教える必要があります。これらの4つの学習段階が終了して初めて、学生たちはさまざまな個別の創造的問題解決の方法とその使い方を学ぶ準備が整うのです。つまり、発明工学(方法)を学ぶ最終段階のための準備が整ったのです。
このような観点から、本書の構成を次のように理解することができます。
第1章 なぜ発明工学を学ぶのか: 10の理由 - 動機づけ
第2章 過去からの教訓 - 背景知識
第3章 現代科学からの教訓 - 背景知識
第4章 基本概念 - 用語の説明
第5章 発明工学の科学 - 一般的な方法
第6章〜第10章 - (個別の)方法
これからのエンジニアにとって、ある種の知識体系を習得するべきことは自明です。しかし、彼らにとって自明でないのは、教育の究極の目的が、知識の伝達や習得ではなく、プロとして成功する(ようになる)ことです。そのためには、知識や関連技能の習得に加えて、「成功する知性 (Successful Intelligence)」を身につけることが必要です。つまり、私たちが話しているのは、学生たちを「発明的なエンジニア(Inventive Engineers)」に変身させること、通常の実践的知性・分析的知性に加えて、創造的知性を身につけたエンジニアにすることです。本書は工学の文脈における創造的知性について書かれていますが、学生たちがそれを学ぶ動機を持つことが必要です。そこで、第1章では、なぜ発明工学を学ぶのか、10の理由を挙げています。それらは、西洋社会の進化に関する議論(理由1)から、産業用ロボットやソフトウエアロボットの大量利用に伴う危険性と今後の課題(理由10)まで、さまざまです。
ご存知のように、すべての学習は状況の中で行われます。すなわち、特定の背景知識の文脈の中で行われるのです。発明設計もまた、設計概念についての知識を獲得する(学習)プロセスとして理解できますから、明らかに状況の中で行われます。したがって、学習/発明設計に用いる背景知識の総体が拡大すればするほど、期待される新規性のレベルが高くなります。それを意図して、第2章で関連する歴史的知識を、第3章で現代科学からの知識を提供しています。
第2章では、ルネサンスの本質とその指導者たちの特徴を、幅広く理解できるようにしています。また、「ダ・ヴィンチの7つの原理」を紹介・分析して、ダ・ヴィンチの偉大さを現代の文脈で捉え直すための概念的枠組みを構築しています。さらに、創造性を刺激するための基礎となる「メディチ効果 (Medici Effect)」についても考察しているのです。
第3章は、「政治学 (Political Science)」と「心理学 (Psychology)」から来た知識に関するものです。政治学からは、「創造的共同体 (Creative Community)」や「創造的階級 (Creative Class)」など、創造性に関連するいくつかの現代的な概念が生まれています。一方、心理学からは、Sternbergの「成功する知性の理論 (Theory of Successful Intelligence)」がきており、それは発明工学および思考スタイルの同定を理解する上で重要なものです。また、「ポジティブ心理学 (Positive Psychology) 」の概要を短く紹介し、「アプリシエイティブ知性 (Appreciative Intelligence) (真価を認める知性)」と発明的エンジニアにとっての「ウエルビーイング (well-being) (幸福)」の重要性に焦点を当てています。
第4章は、発明工学の用語を定義し、「システム」、「知識」と「背景知識」、「学際性」、「合成」、「問題」と「悪い問題」、といった重要な概念を紹介しています。
第5章は、「設計(designing)の一般的方法(Methodics)」に焦点をあてています。それぞれ異なった文脈において、設計の5つの定義を紹介し、それぞれ関連する設計プロセスモデルを示しています。焦点は、問題の特定と定式化の方法であり、さらに、マインドマッピング (Mind Mapping) や、TRIZに基づくイノベーション状況質問票 (Innovation Situation Questionnaire) の使用など、さまざまなアプローチについて議論しています。最後に、コンセプトの評価と選択の方法についても論じています。
第6章から第10章は、個別の「方法(Methodics)」に焦点を当て、形態素解析(Morphological Analysis)(第6章)、ブレインストーミング (Brainstorming)(第7章)、シネクティックス (Synectics)(第8章)、TRIZ(第9章)、バイオインスピレーション(Bioinspiration)(第10章)などの方法について述べています。各方法は、つぎの簡単な形式に従って、やや詳しく説明しています。
1. 創始者
2. 歴史
3. 前提条件
4. 手順
5. 指示
6. 事例
7. 適用領域
8. 白と黒(プラスとマイナスの特徴)
[著者の註解(2022年11月10日):「Methodology(方法論)」と「Methodic(方法)」の意味。
"General Design Methodology(一般的設計方法論)" は、工学的設計に関連する一般的な方法論的課題に焦点を当てた工学科学(Engineering science)であり、設計プロセス、問題の特定、問題の定式化、評価方法、選択方法、複雑さと設計、カオスと設計、設計における創造性など、のモデルに関わる。
”Methodics(方法)”は、設計方法とその形式的な記述に焦点を当てた工学科学(Engineering science) であり、その創始者、歴史、発展、仮定、手順、指示とヒューリスティックス、適用例、肯定的および否定的側面などに関する情報を含む。]
|
|
最終更新日 : 2022.12. 8 連絡先: 中川 徹 nakagawa@ogu.ac.jp